忌み姫と死ねない男

駄天使

第1話:愛を知らぬ《忌み姫》


「――婚約など、私は認めぬぞ。奸臣どもの都合など、知った事ではない」


 麗しき黒灰の姫君は、朗々たる声でそう告げた。

 王無き玉座の周りには、死せる婚約者たちの武具が墓標の如く突き立っていた。

 誰もが己を王たらんと志し、されど誰一人として届かなかった。

 玉座の前に辿り着きながらも、例外なく阻まれたのだ。

 《王器レガリア》たる黄金の座は、死せる巨人の炎により今も輝いている。

 その金色の光を背にして、佇むのは悍ましくも麗しい一人の乙女だった。

 流血を幾重にも重ね、ドス黒く染まったドレス。

 長いスカートの端はボロボロで、とても貴人が纏うべき衣とは言い難い。

 されど姫君から滲む覇気は、見すぼらしい衣装を勇ましき戦衣へと変えていた。


「今一度だけ言おう。つまらぬ野望など捨て、玉座の夢など忘れるが良い。

 《王器》は、常に王として相応しき者の手に。

 卑賎な者の手が、この金色の火に届く道理などないのだ」


 語る言葉は、穂先を揃えた槍衾の如くに凍てついている。

 それを口にする乙女の表情もまた、永久に解けぬ凍土よりも冷たい。

 死人に近い青褪めた肌に、腰まで伸ばした灰銀の髪。

 かんばせに宿る美しさは、神工の手からなる女神像にも等しかった。


「慈悲を見せる機会は、この一瞬のみ。

 さぁ、愚かな婚約者殿。返答は如何に?」

「──無論、答えなど最初から一つに決まっております。

 ヒルデガルド王女殿下」


 見る者に、感嘆よりも恐怖と畏怖を呼び起こさせる狂気の姫を前にして。

 欠片ほども臆する事なく、一人の勇者はそう宣言した。

 背は高く、相対する姫君──ヒルデガルドより、頭一つ分以上の差はある偉丈夫。

 赤毛を燃える炎のように逆立て、鍛えられた五体には黄金の甲冑を帯びている。

 手にした槍は雷光の蒼白が宿っており、尋常ならざる力が漲っていた。


「私は、王となるためにこの場に参りました。

 宰相閣下を含め、忠勇なる重臣のお歴々は、私が王配に相応しいとお認め下さっている。

 このローランディアもまた、我こそが王の座を掴むという自負が御座います。

 故に、退くことなど決してあり得ませぬ」


 ローランディア。《竜雷の勇者》ローランディア!

 ヒルデガルドもまた、その名を耳にした事があった。

 王国に轟く名声に関して言えば、確実に五指に含まれるであろう《英雄》。

 西の小国を襲った忌まわしき雷の竜、この脅威に一人立ち向かった恐れ知らずの若武者。

 下級の田舎貴族の子弟でしかなかった彼は、この古き獣を単身で討ち取ったのだ。

 死せる竜の心臓を貫いた槍には、そのまま竜の精髄たる雷が宿った。

 以来、槍を掲げれば嵐を呼び、一度投げ放てば雷霆となって狙った敵を必ず貫く。

 竜の討伐後も数多の武功を重ねた、まさに新進気鋭の若き《英雄》である。


「……道理を解せぬ愚か者め」


 故にこそ、ヒルデガルドは酷く不快そうに顔を歪めた。

 相手が誰であれ、一度だけは慈悲を見せる。

 ヒルデガルドが己に課した誓いの一つだ。

 それを受け入れぬと言うならば、それこそ相手が誰であろうと容赦はしない。

 細くしなやかな指先が、虚空を掴む。


「ならば、根の国に落ちて後悔するがいい。

 己がどれほど浅はかだったかを」

「姫君こそ、あまり私を侮らないで頂きたい」


 幽鬼の表情で睨むヒルデガルドとは対照的に、ローランディアは笑っていた。

 慢心はなく、純然たる自信と自負に満ちた笑みだった。


「我が勲の数々は、貴女様の耳にも届いておりましょう」

「あぁ、知っている。竜雷の勇者、赤き駿馬のローランディア。

 知っているとも。


 応じながら、ヒルデガルドの指が動いた。

 空を掴んでいたはずの手に、黒鉄の柄が握られている。

 ヒルデガルドの身長は、平均的な女性と同じか、それよりもやや高い。

 そんな彼女の身の丈とほぼ変わらない大戦斧グレートアックス

 淑女が持つには、あまりにも無骨で巨大な鉄塊。

 若木のように細い腕が、それを軽々と持ち上げる悪夢に等しい光景。

 凡百な戦士であれば狼狽えたろうが、ローランディアは動じない。

 彼もまた、ヒルデガルドの噂は耳にしているからだ。


「恐ろしい。その大戦斧で、一体何人の婚約者を討ち取られたので?」

「そこに墓標があるだろう。数えても構わんが、すぐに意味がなくなる」


 諧謔を含んだ声に、王女は感情のない返事を送る。

 王無き玉座の前、向かい合う二人の男女。

 両者の間に流れる空気は、強烈な敵意を受けてひび割れに似た音を立てた。


「貴様もすぐ、あの中の一つに加わるのだからな」


 一片の慈悲も与えない、問答無用の処刑宣告。

 物理的な威力さえ伴いそうな殺気を浴びても、ローランディアは恐れない。

 むしろ浮かべた笑みを深めて、槍を構える手に渾身の力を込めた。


「雷よ――――!!」


 叫ぶ。かつて討ち取った竜の血が、熱く燃え滾るのを感じた。

 肉体からは赤い炎が噴き出し、槍の穂先からは蒼い稲妻が弾ける。

 多くの吟遊詩人たちが歌い上げた、ローランディアの奥義。

 竜の雷を再現する《ローランディアの雷槍》は、必中必滅の投槍だ。

 出し惜しみはしないと、若き《英雄》は初手の攻撃に全身全霊を注ぎ込む。

 対するヒルデガルドは動かない。

 疾風迅雷の動きを見せた竜雷の勇者に、まったく反応できていないようだった。


「だが、これで終わりではないでしょう!

 麗しき御方、《忌み姫》ヒルデガルド王女殿下!」


 雷槍は必殺の一撃だと、ローランディア自身も信仰している。

 が、全力とはいえそれだけで仕留められると思うほど、《英雄》は相手を侮ってはいなかった。

 最強の槍を開幕で当てて、確実な有利を得る。

 これで相手の戦意が挫ければ良し、そうでなくとも戦いの流れは己の手中。

 竜の血を浴びた槍は、投げ放った後もローランディアの意思で即座に戻ってくる。

 挑発の声を発しながら、先ずは雷槍を手元に――。



 声は、すぐ目の前から聞こえてきた。

 竜の雷が巻き上げた、薄い煙のヴェールを突き破って。

 風を置き去りにする速度で、ヒルデガルドはローランディアの眼前に迫っていた。

 速い――いや速いだけならば、容易く不意を突かれる事などあり得ないはず。

 ならば、一体何故?


「……お前の事は知っていると、そう言ったはずだ。若く、愚かな《英雄》よ」


 唖然とした顔のまま、ローランディアの首が地に落ちる。

 断たれた傷口から真っ赤な血を噴き出して、胴体も遅れて倒れ伏した。

 果たして、彼は最後の瞬間に理解できたろうか。


「貴様のご自慢の雷槍も、これまでどのように強敵を討ち倒してきたのかも。

 詩人たちはつまびらかに歌い上げ、その武勲は王城にいる私の耳にも届いていた。

 ――それを知らずば、もう少しは戦えたやもしれんがな」


 既に物言わぬ屍に、ヒルデガルドは静かな声で語りかける。

 彼の首を断った大戦斧を右手に、そして雷の余韻を残す槍を左手に握り締めて。

 武勲の数だけ歌われた詩に、ローランディアが初手での雷槍投擲を好む事は記されていた。

 故にヒルデガルドは、「最初にその一撃が来る」と分かっていたのだ。

 後は投げ放たれた雷槍を左の手で掴み、相手が槍を引き戻すのを利用して間合いを詰めた。

 やった事は、ただそれだけだった。


「……下らん」


 吐き捨てた言葉には、指先一摘み程度の憐憫。

 かくして、竜雷の勇者ローランディアの物語は、あっけなく幕を下ろした。

 身の丈を知らずに《王器》を求め、狂乱の忌み姫ヒルデガルドに討たれて死んだ。

 あまりに愚かしい結末を、ヒルデガルド自身はそっと憐れむ。


「骸を弔え。未練を嗅ぎつけた《隠れたる者》に、《死》を盗まれる前に」


 誰もいないはずの玉座。

 その前に立ち、ヒルデガルドは何者かにそう命じた。

 すると、彼女の足元で蠢く影が一つ。

 地の底から這い出るように現れたのは、大きな鴉だった。

 翼を羽ばたかせ、首を断たれたローランディアの亡骸の上へと降り立つ。

 鴉が音の無い声で鳴くと、その姿が変化する。

 一羽だったはずの鴉が二羽に、更に三羽、四羽と数を増やしていく。

 真っ黒い羽の群れは、あっという間に伏した骸を覆い尽くした。

 時間にして、およそ十秒ほど。

 群がった鴉が再び一羽に戻ると、そこにはもう何もなかった。

 残されたのは、ヒルデガルドが手にしたままの雷槍のみ。


「これで良い。死せる巨人に抱かれて、今は静かに眠れ。

 時が来たならば、再び生を得る事もあるだろう。

 運命が紡ぐ糸よ、旅立つ者にどうか恩寵を賜わし給え」


 そう言って、ヒルデガルドは大いなる巨人に祈った。

 祈り、左手の槍を床に突き立てる。

 新たな墓標が一つ増え、短い葬送が終わった。

 ローランディアの名は己の内に刻んで、後は一切考える事はしない。

 ここにまた一つ、婚約は破棄されたのだ。


「……弱い。誰も彼も、王たるに相応しくない者ばかり」


 唇からこぼれた言葉には、暗い感情が複雑に渦巻いていた。

 嫌悪、憤怒、後悔、憎悪。

 もしこの場に常人がいたなら、声を耳にしただけで気を失うかもしれない。

 それほどまでの激情を炎と燃やし、ヒルデガルドは玉座を見ていた。

 かつては王――ヒルデガルドの父が座し、今は空席となった《王器》を。

 《緋の玉座》とも呼ばれる、赤みがかった黄金の座。

 バルド王国が誇る《王器》の前に立ち、ヒルデガルドは沈黙した。

 《王器》は、受け入れるべき王を待っている。

 他に誰もおらず、ヒルデガルドはそうすることも選べた。


「……私もまた、王に相応しい器ではない」


 だが、彼女は自らで否定する。

 王配となる事を望み、婚約という大義名分を掲げて挑んできた英雄豪傑。

 彼らの全てを屠り去ったヒルデガルドなら、力の資格は十二分。

 まして、彼女は先王の正統なる嫡子だ。

 誰も文句など、言えるはずも無いというのに。


「私では、ダメだ。私は愛されなかった。愛無き者に、王たる資格はない。

 私は、《王器》を得るべきではない」


 掠れた声。聞く者は、《王器》の眷属たる鴉のみ。

 主に命じられない限り、意思を発する事はない。

 故に、姫君は王のいない玉座に一人。

 誰かに届く事のない言葉を、独りきりで口にする。


「王は、何処だ?」


 切実な願いは、しかし祈る神もなく空しく響くのみ。


「王は何処だ、何処にいる?

 私よりも強く、《王器》に相応しい、理想の王は何処にいる。

 欲に塗れ、浅はかな野望を求める愚か者は不要だ。

 例外なく、一人残らず、私がこの手で葬り去ろう」


 呪いにも等しい誓いは、決して違える事はない。

 だからこそ、ヒルデガルドは《緋の玉座》の前に立ち続けているのだから。

 三十を超える武具の墓標は、何も語らない。

 恐るべき怪物が此処にいる事だけを、空しく証明するのみだった。


「王は――王よ、何処におられるのですか。

 我が王配となり得る、真なる王よ。

 願わくば、愛なきこの身を引き裂いて、《王器》に捧ぐ贄として欲しい。

 そうなれば、私は……」


 続く言葉は声にならず、微かな風となって消えた。



 ……古き伝説に曰く、かつて大地の始まりには大いなる巨人があった。

 巨人は、足元で生きる小さき者たちに多くを与えたという。

 与え続けて、最後はその心臓すら恵みとして捧げたが故に命を落とした。

 天に燃える巨人の心臓を巡って神々は争い、心臓は半ば砕け散る事となる。

 そして地上に散らばった心臓の欠片を奪い合い、小さき者たち――人間同士の戦が起こった。

 心臓の欠片はやがて《王器》と呼ばれ、それを得た者は王として民草を支配した。

 そして長きにわたる戦乱の中、超常の力を持つ王や英雄たちが多数現れた事で、地を焼く戦火は衰え始めた。

 《凍てついた火》とも称されるこの時代は、終わらぬ戦の上に薄く敷かれた、仮初の平和の時代でもあった――……。


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