第7話 いつもの朝のはずだった(1)

 あの後、どうやって助かったのかタカト自身は覚えていなかった。

 しかし、今こうして生きているのは確かな事実。

 おそらく、あのお姉さんが命を救ってくれたのだろう。

 だが、それ以来、あのお姉さんを見かけることはなかったのである。

 

 ――だけど……あのお姉さんの瞳……

 それは、まるで私を忘れないでと言っているような切ない目であった。

 ――絶対に、忘れるわけがない! 忘れるもんか!

 そう、あのふくよかな胸の感触だけは絶対に忘れない。

 おそらくあの豊満な胸はFカップ! いや、Gカップなのかもしれない!

 あの素晴らしいオッパイを、もう一度!

 いまや、お姉さんの顔はハッキリと思い出せないが、あのオッパイをもう一度さわれば確実に思い出す自信がタカトにはあった。

 ――そう俺の求めるオッパイはあのお姉さんのオッパイなのだから!


 だが、あの瞬間を思い出すたびにタカトは思うのだ。

 ――なぜ、お母さんは俺を崖から落としたんだ……

 にこやかに笑いながら自分を崖下に手放す母の顔。

 そこにはタカトを忌み嫌うような殺意は全くなかった。

 いつも通りの優しい母の眼差しがそこにあっただけなのだ。

 いやそれどころか、タカトだけには生き残ってほしい……そんな切なる願いが込もっていた。

 そんな瞳は涙で潤む。

 そして、今生の別れとばかりに懸命に微笑みを作っていたのである。

 ――やっぱり、あの後お母さんも……

 おそらく、お母さんは背後から迫ってくる獅子の魔人の殺気に気づいていたのだろう。

 そんな殺気から自分を遠ざけようと一縷の希望をつないだのかもしれない。

 ――きっとそうに違いない……きっと……

 だって、そうじゃなければ……

 そう、タカトが最後に見た光景……母が獅子の魔人によって首をつるし上げられているところだった。

 おそらくもう……母ナヅナも姉カエデも生きていないのかもしれない。


 だが、あの獅子の魔人が放つ冷たい緑の目。

 ――怖い……

 それを思い出すとタカトの体は自然と硬直し無意識に震えだしていた。

 かつてタカトの目の前で、月下に赤き大輪の花を咲き散らした父は、獅子の魔人の口によって噛み砕かれたのだ。

 そんな震えるタカトの心に復讐の怒りがこみ上げる。

 ――あの魔人だけは許さない!

 あの頃の幼きタカトは確かに何もできなかった。

 しかし……

 今のオタクのタカトも大して何もできない。

 ――ごめん……母さん……

 悔しさが込み上げるタカトは、拳を強く握りしめるのが精一杯。

 だが今できなくとも、必ずきっと!

 ――殺す……殺す……アイツを殺す!

 そんな荒む心の奥底から小さき赤黒い声が這い上がろうとしていたことにタカト自身は気づいていなかった。

 ――殺せ……殺せ……すべてを殺せ!

 

「何ぼーっとしてんのよ!」


 バキ!

 我に返ったタカトの視界が一瞬、天井の梁にかかる蜘蛛の巣をとらえた。

 反りかえるタカトの足元には、先ほどまでベッドの上でビン子が抱きしめていた枕がポトリと落ちている。

 

 そう、この枕はビン子が投げたものである。

 というのも、先ほどから目の前でタカトが怖い顔をしながら物思いにふけっているのだ。

 しかも、よく見ると小刻みに震えているではないか。

 ビン子はタカトの過去を詳しくは知らない。

 だけど、かなり辛い経験をしたのは聞かずともよく分かった。

 そんなタカトが過去の記憶を思い出す度に徐々にもちまえの明るさを失っていくようなきがしていたのだ。

 それはまるで別の何者かがタカトの身体を徐々に支配していくかのようにも思えたのである。

 ――イヤ……タカトをとらないで……

 ビン子はそんな恐怖からタカトを引き離すかのように、枕を思いっきり投げつけた。


 「いてえぇぇぇぇ!」

 タカトは枕が直撃した鼻を押さえて叫び声をあげた。

 これは相当のダメージ。

 押さえる鼻は赤鼻のトナカイのごとく腫れあがっていた。

 だが、鼻血は出ていない! まだイケる! 俺はイケる! イケてるんだァァ!

 ――ということで、今度は俺のバトルフェイズ!

 反り返った背骨を力いっぱいに元の位置まで引き起こすと、タカトは禁断のカードを引き抜いた。

 ――俺のターン! ドロゥ!

 そう、それはビン子が最も気にしている呪いの言葉!

「断じて、お前のような『ド貧乳』は俺が探し求めるオッパイではないわ!」


 ビン子の胸は同じ年頃の女の子と比べてかなり小さい、いや……まな板並みと言ったところだろうか。

 そのため、ビン子はことあるごとに巨乳の女を目の敵にしていたのである。


 当然、それを聞いたビン子の堪忍袋の緒はブチッと切れた。

 ぶッちーーーーーん!

 いや、緒が切れるどころか、堪忍袋そのものが風船のように爆発したのだ!


 奴は『貧乳』にわざわざ『ド』までつけよったのだ。

 ――タカト! マジで許すまじ!


 ビン子のバトルフェイズ!

 間髪入れずにベッドの上に飛び上がった体が、きれいな弧を描いていた。

 それは荒川静香さんも驚くほど美しいイナバウアー。


「朝から、下劣なことを叫ぶな!」

 怒号と共に空中より振り下ろされたハリセンが、鋭い半円を描ききる!


 ビシっ!

 ハリセンがタカトの頭をクリーンヒット!

 これは会心の一撃だぁぁぁぁ!


 首からカクンと前のめりに折れたタカトの視界。

 そんな視界が、足元に落ちていた小さなネジを発見した。

 ――あっ、団扇のネジ、こんなところにあったのか……


 仁王立ちのビン子は顔を真っ赤にしながらタカトを見下ろしていた。

「これは貧乳ではない。発育途中だ! 言い直せ!」


「いてぇな! そんなに叩くなよ。あぁ分かった! 分かった! 発育途中だよ発育途中ぅっ!」

 片目をつぶるタカトは頭をこすりながら仕方なしに答えた。

 やむえまい、ここはいったん引き下がろう。

 だが、これは敗北ではない、戦術的撤退というものだ。

 こうでも言わないと、ビン子の怒りは当分、収まりそうになかったのである。

 だが……

 だがしかし……

 なんか腹が立つ!

 このままでは引き下がったのでは、俺のイケてるプライドが納得いかない。

 もうこの際、ビン子を責める理由など何でもいいのだ。

 とりあえず、奴にゴメンと言わせれれば勝ちなのだ。

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