第207話 悪人は、逃げ出した
『なに?義輝の姿が忽然と消えただと?そんな馬鹿なことが……』
『しかし、父上。事実なのです。兵たちの話では、襖を盾にして取り囲んで、一斉に槍で突き刺そうとしたとき……なぜかそこから居なくなっていたと……』
かつて、息子の久通がそう言っていたことをヒースは思い出した。あのときは意味が分からず、御所も焼いたことだし、生きていると名乗り出られることもなかったことだしと、「まあ、いいじゃないか」と片付けたわけだが……
「……ここに来ていたのか、義輝……!」
覗き穴の向こうに見えるゴキ〇リのようにしぶとい怨敵の姿に、ヒースはうんざりしたように独り呟いた。
だが、そんなヒースの個人的な感情はさておき、眼下の広間では事態が動き出した。
「勇者様。お待ちしておりました」
神官の一人が恭しく跪いて出迎える光景。これ自体は何も問題はなかった。しかし……その男が変装術を解いて、バランド侯の姿に変わったとなれば、話が変わってくる。指名手配犯の突然の登場に、場は騒然となった。
「何をしているか!取り押さえぬか!」
ただ……予想外のこととはいっても、いつまでも呆けているほどこの国の兵士は無能ではない。現場指揮官は左程間も置かず冷静さを取り戻して指示を出し、兵士もバランド侯を捕えるべく武器を手に取り動き出した。
すると、バランド侯は義輝に言った。「勇者様!この者らは敵でございます。皆殺しでお願いします」と。おそらくは、魔法陣に仕込んであった【隷属魔法】が効いていると疑っていなかったのだろう。しかし……それに対する義輝の反応は予想外のものだった。
「は?なぜ、余が見ず知らずの貴様に命じられねばならぬのだ?」
「え……?」
義輝から思いもよらず冷たく返されて、バランド侯は表情を凍らせた。
「どういうことだ!?隷属魔法は効いておらぬのか!」
「そ、そんなはずは……」
「だったら、なぜこやつは言うことを聞かぬのだ!!」
バランド侯は周囲にいた配下の術者たちに怒鳴り散らした。早く何とかしろと。もちろん、彼らも原因不明なイレギュラーに戸惑いながらも、必死に対処しようとする。だが……この状態で修正作業をするだけの時間などあるはずもない。
「勇者様ぁ!どうかお助けを!!」
ロンバルドの兵士たちに取り押さえられる刹那、力の限り叫んだ声はどこまでも義輝を動かすことができず、バランド侯は仲間と共にあっけなく取り押さえられた。
そして……その瞬間、天井裏のヒースも目論見が破れたことを知り、肩を落とした。
(くそ……前世のみならず、今世でも祟るのか……義輝!)
いっそのこと、破れかぶれになって、予定通りに毒魔法を放って天井を崩落させようかとも考えるが、ヒースは謀反の達人だ。すぐに冷静になって、その考えを放棄した。「ご利用は計画的に」というのが、謀反を起す上で譲れない大前提なのだからと。
「さて、帰るとするか……」
ゆえに、もうこの場に用はないと考えて、ヒースは立ち上がる。帰ってやけ酒でも煽ろうかと思いながら一歩、二歩と歩き出したが……そう簡単には事は進まなかった。
「曲者!」
「えっ!?」
下から声が聞こえたのと同時に急に足元が抜けて、ヒースは自分が広間に向かって落下していることに気がついた。どうしてそんなことになっているのかわからないが……このままでは即死は免れないため、一先ず爆発魔法を眼下に放って、その風圧で直撃を避けた。
無論、その際、少なくない犠牲は出たのだが気にすることはない。そして、辛うじてだが、大きなけがをすることもなく、ヒースは広間に着地した。だが……余韻に浸る間もなく、今度は鋭い刃が迫ってくる。
「うわぁ!」
「じじいのくせに、我が奥義【一之太刀】を避けるとはな。久秀……」
「よ、義輝!?」
間一髪これをかわして、後方に飛び退いたヒースは、その一撃を放った男の姿を見て声を漏らした。そして、今の自分が前世の……しかも、義輝が生きていた時代の姿であることにも気づく。つまり、誤魔化すことはできないと。
(やばい!逃げないと!!)
かつて息子は言った。「公方さまは剣の達人だとは聞いていたが……それでもあれは異常だ……」と。何しろ、1万余の兵で余裕をもって押し入ったというのに、あっという間に2千人は義輝一人に殺されたのだ。しかも、鉄砲を用いても、鉛弾を斬ったとも聞いている。
そんな相手が今、自分の命を狙ってきているのだ。ヒースはためらいもなく背中を見せて逃げ出した。
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