第2話 君、聞こえてるの?
どうしてそのことに思い至らなかっんたろうか。
再生回数32回。
声優、村川いさみ。心因性失声症。
その子のプロフィール画像は、たった一枚だけ。唇を結んで困惑した顔。若手声優特有の明るい感じは全くしない。だけど、その群青色の目の美しさでファインダーを覗くカメラマンを戦慄させたことは容易に想像できる。当時十一歳。目だけが異様に
彼女の病気の原因は記載なし。心因性失声症は、ストレスなどが原因でも発病するらしい。
俺より年下のあの子が、声が出ないことで泣いていると思うと胸が張り裂けそうになる。
所属事務所は、今は潰れているらしい。ファンレターの一つも送ることができないのか。俺とサミの接点はこの動画だけ。
でも、おかしいな。歌詞の字幕がついたのは最近だ。
肝心なことを忘れていた。ユーチューブにはコメント欄がある。今まで恥ずかしくて書いたことはない。顔の面識もない赤の他人にコメントを批判されるのは、授業で答えられないのよりきついだからだ。
でも、このミュージックビデオは俺しか見ていないだろう。この子の再生回数は俺だけが増やすことができる。10回再生で1円程度にはなるだろうか。サミが、収益として還元する未来は見えないけれど、君を見ている人がいると気づいてもらえるのなら、俺は嬉しい。
コメント
再生回数稼ぐマン「あなたの歌声が聞きたい」
もっと、マシな名前にすれば良かったと激しく後悔する。恥ずかしくて死にたい。いや、俺……実は俺……。
再生回数42回。
声が聞こえた。
彼女の歌声は、とても悲しげだった。予想通りの優しく柔らかい歌声だった。鼻から抜けるような、力の抜けるような声。それが心地良い。メロディーはエレクトロニカ。ときどき挟まる電子音。生演奏ではなく打ち込みの音楽。作詞作曲もサミと記載されている。彼女が小さな指でパソコンをカタカタ叩いて入力していると思うと、胸が温まる。
パソコンのモニターの右下には九月十七日の十一時と表示された。母さんはもう寝た頃かな。
初めて聞く歌声に多少狼狽えた俺は、マウントレーニアのカフェラッテを飲む。ついでに、ポテチでも買いに行こうとして、部屋から出ることができないと気づく。何してるんだろうな。ほんと。外は真っ暗だっていうのに。
電子音、テンポを刻むドラム、ジャズにも聞こえる。アジアの民謡にも聞こえる。ときどき、挟まれるコーラス。この声もサミ? 高音が気持ちいい。俺には裏声を使っても出せない音域。
そういえば、どうして急に音が聞こえるようになったのか。パソコンの音量調整ボタンは大にしても小にしても流れる音声の大きさは変わらない――。
あっという間に終わってしまったサミの歌。1分49秒が異空間へ閉じ込める。このトランス状態はもはや中毒症状と同じで、再生回数は60を超えた。彼女の歌声は決して上手いプロってわけじゃない、ビジュアルで売るわけでもない。ただ、一人の純粋無垢な少女がマイクの前で少し背伸びしているだけだ。
コメント欄に辛辣なコメントが掲載されていた。俺は鳥肌を立てて、文字を一字一句追う。「もっと大きく音を出せ」と書かれてバッドボタンを押されている。
サミになんてことを。彼女は勇気を出して声を出したというのに!
サミ……落ち込んでいないだろうか? そう心配してはっとする。
彼女の歌声が聞こえるわけがない! 動画の内容は変わっていないのだ。音声を収録して動画に合わせた? それにおかしい。音を出せとはどういうことか。俺にははっきり聞こえるのに、このコメント主にはほとんど聞こえていないということか。
動画の最後になると、いつもの動画と違うことが起きた。あのときの視線と同じだ。サミが俺を上目遣いに見つめてきた。俺は震えている。彼女は、俺のことを間違いなく見えている。――ありえない。
「アールグレイじゃないんだ?」
彼女の問いに俺は頭を抱える。
「サ、サミ?」
「やっぱり。君、聞こえてるの? じゃあ、どうしてアールグレイ飲んでくれないの? カフェラテ。甘いのが好き?」
返答に困る。1分49秒の動画時間が……伸びている! 時間が99時間99分99秒になっている!
「……サミなのか」
パソコンのマイクやカメラを使ったことはない。使い方も分からない。それなのに、俺の声は間違いなくパソコンの中の、それもあらかじめ収録された動画の相手に伝わる。
「うん。サミだよ。本名じゃないけど」
俺は慌てて口を開閉する。こ、言葉が出て来ない。こんなところで上がってどうする。伝えたいことはいっぱいある。どうしてアールグレイを飲まなかったんだ俺。歌詞にあるだろう。君を応援したい、君の声をずっと聞きたかった。その言葉が全部喉で押し合う。どれから口にすればいいか分からず、語彙を結ぶことなく散り散りになっていく。息が、情緒不安定に途切れる。吃音を出したら恥ずかしいぞ。俺は三角に座ったままで足裏同士をむずがゆくこすり合わせる。
「君には聞こえたら駄目だったのに」
彼女は悲し気だ。そんな顔をしないでほしい。
俺は本能で話し続けなければと思った! この動画が終わるまでに。99時間だなんて見間違いかもしれない。この動画は1分49秒のはずだ。
「ほ、本名はいさみだろ?」
彼女になんてことを言うんだ俺。プライベートなことを話してどうする。彼女は困惑しているじゃないか。
「私が話せないことも知ってるんだ?」
俺は返答に困る。でも、どういうことだ。彼女は普通に会話している。
「な、なあ、聞こえたらいけないってどういうこと。ああ……何を言ってんだ俺。君の歌声に救われたよ。お世辞じゃなくてさ。俺も君を救いたいよ。こんなに良いものを持ってるのに、誰も動画を再生しないなんて」
一気に早口で話してしまい赤面する。
「嬉しい。聞いてくれて。だけど、あなたは聞いたらいけなかったと思う。ほんとに。それにいいの?」
「いいって? 何が」
「お母さんを置いてけぼりにして」
波の音が聞こえた気がする。
「歌詞の意味を考えてみた? 君、私のこと見てくれるのは嬉しいけれど」
「素敵な歌詞だと思ったよ」
情緒不安定な感じとか、好きだ。
歌詞
『下を向いた白い花をいくつも吊り下げ幾星霜。あなたの凍えた心の花瓶にアールグレイ。
「下を向いた白い花は、たぶん。スズランのことだろ?」
「そう。花言葉は『純粋』『謙虚』『幸福の再来』。ここでは再来を強調してるの」
「へー。花言葉か。花瓶にアールグレイも面白い歌詞だよな。花瓶に水じゃないのかなあってずっと疑問だった」
「花瓶じゃなくてもよかったの。曲名は器だから。直前の詩がスズランの花だったから、そのつながりで」
「そういえば、曲名の『器』なんてどこにも出てこない。不思議な曲だと思ったよ」
「これが、何の歌か君は気づかないのね。この声が届いてしまったあなたは、もう戻れないわ」
「何のこと? いいよ。俺は君のために君の歌声を聞きたい。それができるのは俺だけだから」
「そこが問題なのよ。あなたは部屋から出られない。あなたのマンがは捨てられたんじゃない。お母さんは荷造りしているのよ。お母さんがあなたの部屋に踏み入れないのは、あなたを無視しているわけじゃない。お母さんにはあなたが見えないのよ」
「ちょ、ちょっと待て。なんでそんなこと知ってるんだ?」
「いい、教えるわ。私の歌は四十九日のことを歌っているの」
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