再生回数5回のミュージックビデオは音が出ない
影津
第1話 再生回数5のミュージックビデオ
その歌の再生回数はたったの5だ。投稿されたのは二〇一五年八月三十一日。
――サミ『utsuwa』music video――
背景は白一色。白いヘッドホンをした黒髪の女の子が目を閉じてリズムをとっている。年は十三歳前後だろうか。息継ぎをするような拙い口の動き。そこから吐息の一つでも出てくるかと期待した。
くそ、パソコンから動画の音が出ていない。音量設定をいじってみたが、音量が上がったことを知らせる警告音が虚しく鳴るだけで女の子の声は一向に聞こえない。
その子は目を閉じたまま顔をしかめているので今は高音域に差し掛かったのだろうか。
だけど、再生回数5で(俺が押したから6か)そもそも音が出ない公式ミュージックビデオって、どんな宣伝方法だよ。音が出ないから再生回数が伸びないんだろ? もういいや。クローズボタンにマウスポインターを運ぶと、ちょうど女の子が目をゆっくりしばたいた。その瞳はウルトラマリンブルー。ラピスラズリ鉱石を彷彿とさせた。その穏やかな双眸がパソコン画面右上を注視して止まったように見えた。そう、ブラウザを閉じようとしていた俺を咎めるように。
音量を最大にしても流れることのないメロディー。彼女が黒のポップガード付きマイクに向けて口を大きく横に開いた。
あれは『イ』の口かなぁ。読唇術はないが、予想を立てる。
清涼な白のノースリーブに包まれた華奢な身体。白く細い手がずれ落ちそうになったヘッドホンを抑える。彼女は慟哭する。その細い体躯から生まれた音を聞きたいという衝動に駆られた。
彼女の群青色の瞳が潤んで、
彼女の涙の理由は何だろう。1分49秒の無音を時計の針の音に重ねて聞いてみた。再生回数8になった動画。涙の色はウルトラマリンブルーを乱反射して、俺に何度も問いかけてきた。
水はきれいだった? 俺は清涼な水と、泥水を交互に思い浮かべて首を振る。そんなことより、この子がどうして涙ぐむのか、教えて欲しい。
彼女の泣き顔が広がるその動画に、歌詞が字幕で表示されるようになったのは九月十日。
『下を向いた白い花をいくつも吊り下げ幾星霜。あなたの凍えた心の花瓶にアールグレイ。
そのことを知ったのは、俺が家から離れられなくなってからだ。食事も摂らず自室の回転椅子の上で膝を抱える。擦れた俺は抜け殻になって、もう動けない。何もかも上手くいかない。部屋のライトもつけないし、まぁ、つかない。
母さんは俺の大事なマンガ本を捨ててしまった。廊下で母さんの物静かな足音がする。フレグランススティックのボトルに、アロマ液を継ぎ足している母さんは寡黙。何を思って俺の部屋の前を行き来するのだろうか。
塾に通う本当の意味が分からなかった。勉強、学力、将来のため? 俺には自分で何かを決定する意思がないのかもしれない。何のための大学受験なのだろうか。高校受験のときは、やりたいことが分からないまま、合格ラインの学校に進学した。何か大きな目標に向かって突き進んでいる感じは全くしない。あの音のない動画の女の子「サミ」の動画を見る片手間にマウントレーニアのカフェラッテをすする。本来なら感じるであろうコーヒーと、舌から喉まで広がる甘味がしない。
学校の向こうには『社会』があるのだろう。『社会』って何? 「君たちは学校で守られている」って先生が言っていた。食うために仕事に就くことが『社会』の一員になるってこと? 「夢を叶えるための努力の一つ」とも言っていた。
矛盾している。俺は歯噛みする。
ガキの頃に保育園の先生が無理やり答えさせた質問は何だ? 『将来の夢は何ですか?』だ。プロ野球選手、女の子はお花屋さん。あと、男女ともに人気だったのはユーチューバー。叶う夢もあれば叶いそうにない夢もある。でも、その場しのぎの発言だ。プロ野球選手って言っていた友達は塾に行き、医者になると手の平を返した。花屋になると言っていた女の子は、高校生になった途端に帰宅部になって、そのうち登校拒否になった。
俺はというと、何をしている? 帰宅部だ。塾もない、アルバイトもない。それなのに『やることがない、目標がない――』
このサミっていう女の子の無音のミュージックビデオだけが救いだった。
音が聞こえないミュージックビデオとしてギネスに申請すれば、再生回数が稼げるんじゃないか? 世の中には『4分33秒』という全く演奏しない曲も存在するらしいし。
「下を向いた白い花をいくつも吊り下げ幾星霜」
どこをどう切って歌おうかと、好きに口ずさんでみる。俺の声は低くて野暮ったい。
終盤になると必ず涙を溜めるその女の子。惹かれて何度も見てしまう。ラストのサビだろうか。最後の歌詞は『お願い生きて。ずっとずっと、まだ見ぬ先まで。
此岸ってなんだろう。彼岸じゃないのかと、辞書を牽いた。なるほど、「私たちのいる世界」か。
何でそんな回りくどい歌詞なんだろう。彼岸と此岸であの世とこの世を彷彿とさせる。そんな意図でもあるのか。
サミについても調べてみた。ミュージックビデオというからには、有名な歌い手? プロの歌手? レーベルに所属していないのだろうか。
再生回数は俺のおかげで20にまで増えた。だけど、再生回数20の初心者同然の音楽動画がプロであるはずがない。他の曲はないのか?
「サミ」という名前だけじゃ特定できない。Twitterのエロい人とか、キャバクラ嬢、普通の女子高生から幼稚園児まで出てくる。検索の海は越えられそうにないな。
この子は何故音を流さない? 見ていると痺れを感じる。喉が張り裂けそうに見える箇所があり、そこがたまらなく好きだ。この子の喉に負荷がかかって苦しんでいる。そんな妄想をすると俺はいたたまれなくなる。じっとしていられない。
「この子を救えるのは俺だけだ。俺にしかできない」
再生回数21。この子は、自分だけの歌姫。ただ、大きく口を開けて涙ぐむだけの。
何で俺は一日中、部屋の中にいるのかって?
声のない彼女に答える。
「もう、学校に行く意味がないから」
先生に机を蹴られた。体罰ではないけれど、ギリギリアウトだと思う。俺は生真面目すぎて反論できなかった。授業もちゃんと聞いていた、それでも応えられなかった。直前まで聞いていた出来事が頭から砂が溢れるように抜け落ちてしまった。
正解が分かっているのに、答えることができない。隣の席の男子が鼻で笑う。後ろの席の女子が俺を冷やかす。嘲笑が波紋してクラスの半分が敵に見える。
解答は喉の奥に沈んだまま出てこなかった。
そんな俺は音楽の授業でも痛い目にあった。声が出ない。本番になると歌えないんだ。家で口ずさむことはできる。今流行の高い声は出せない。古ぼけた声質。残念だけどジャニーズ事務所には入れそうにないよ、サミ。
サミ、もしかして君も声が出ないのか?
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