お菓子な村へようこそ

影津

第1話 ドーナツになって消えてよ

「その土はチョコレートで、そっちの黄色い花ははちみつシロップだな」


 見ず知らずのおじいさんに言われて、私は思わず半歩下がる。踵を上げて靴裏を見る。貼り付いている砂がチョコレートだなんて、あるわけがない! 


 焦げ茶色の香ばしい香りをさせてゴム型に固まったそれは、ぼそぼそと申し訳無さそうに剥がれ落ちる。


 花壇の中の黄色のパンジーは光沢を帯びている。これがはちみつということは、茎や葉の部分は何でできているんだろう? 指で摘んでみると、ざらざらして手の汗でぬめる。砂糖菓子かな? 


 案内してくれた七十代のおじいさんは、夏日だというのに茶色のコートを着て杖を手にしている。ふぅと柔らかいチョコレートの上に腰を下ろすと、杖を投げ出して土をまじまじと見下ろす。


「まぁ、そのうちここにドーナツが生えてくる」


「ドーナツって生えるものでしたっけ?」


 私達は天気の話をするように抑揚のない声で話し合う。空は桃色。流れる雲はオレンジ色。雲はざらめが集まったものなんだって。鼻腔を甘い匂いがかすめる。リンゴ、シュガー、バニラエッセンス、はちみつ、キャラメル、チョコレート、そんな甘いものの天国のような匂いが攻めてくる。


「ここは……なんていうか」


 不思議な場所ですね、と言おうとしても出せる感想は一つしかない。


「甘いですね」


「そうだな。色んな匂いが香水売り場のように混ざり合っている気がします」


 おじいさんは私の顔を見て意味ありげに優しく微笑んだ。どうして、私が香水売り場が苦手なことを知っているんだろう。


 香水売り場は、女の色気が集まっている場所だと思う。成人した私もたまには前を通るぐらいにはなったけれど、いい匂いの香水にはまだ出会えていない。


 いい匂いというものが、いまいち分からないでいる。だって、食べ物はいい匂いでしょ? だけど香水のそれは鼻に突き刺さって、脳天にずっと傷のように残るもの。


 そういえば、マサヒコは透明な水色の香水をつけていた。さっぱりするその匂いはあんまり嫌いじゃないけれど、会うたびに濃くなるその匂いに私は辟易した。筋トレが好きなマサヒコ。汗臭くならないためにつけてると言っていた。制汗剤とかで十分だと思うんだけど。まぁ、マサヒコが香水をつけるのはすれ違う女性たちが驚いて振り返るからだとかなんとか言っていた。

 思い出すと嫌になる。あんな奴。女なら誰でもいいわけ?


 私が香水をつけない女だから? マサヒコはときどき私を学食へ誘っては男友達に私を見せびらかしていたけれど。俺たち仲がいいだろって。

 だけど、仲がいいだけ。友だち以上恋人以下。友だち以上だから、それはもう恋人でしょって私の友だちはそう言うんだけれど……。


 マサヒコのそれは、何か違う。学生時代に私達はお互い予感していたんだ。

 

 これ以上発展しようがないって。


 認めるのが怖かった。私、マサヒコしか知らない。手を繋いだことがあるのもマサヒコだけ。だけど、それ以上は何もない。マサヒコはいつも何かを欲しがっていた。隣りに座って、私の腰から太ももを触ってきたときに嫌悪感が走った。


 この人、私の何が欲しいの? 



 マサヒコは若いのにジャズが好きだった。大人になるために背伸びしていたようにも思う。私だって毎日靴擦れしながらヒールを履いた。雨の日に階段で転んだとき、マサヒコはウザそうな顔をしたのを今でも覚えている。マサヒコは私の手を乱暴に引っ張り上げて、「ヒールぐらい履けるような女になってくれよ」と言った。

 

 それが、みんなに言いふらしてまで行った初めての遊園地デートだった。遊園地のアトラクションの待ち時間の間中、話すことはあまりなかった。いつも一緒だから話すネタも尽きたのかもしれない。


 アトラクションは楽しかった。ジェットコースターで半泣きになりながら笑うと、マサヒコもへらへら笑った。だけど、そのとき思ったの。マサヒコのシュッとした細い顔を見ていると明日も学校で顔を合わすんだって。現実に引き戻された。


 夢の国に行って楽しむほど、隣りにいるマサヒコの顔が私に私を思い出させる。


 決して美人ではない私。マサヒコが私を好いていてくれる。マサヒコと私はクラスでも有名なカップル。だから、私は苦手なハイヒールも履き続ける。一度整骨院で、このまま無理な履き方をしたら将来的に足が変形するかもしれませんと言われた。それでもハイヒールだけはやめられなかった。ヒールはどんどん高くなる。雨の日に足をくじく回数も増えてきた。

  

 遊園地の次の日、私は学校に行く。隣にはマサヒコ。


 それが突然耐えられなくなった。


 昼休みに学校を抜け出した。マサヒコの香水のしない場所を探した。ぱっと思いつかない。だけど、いつまでも排気ガスを吸って雨の大通りを歩くわけに行かない。私は店に入ったんだ。ミスタードーナツに。


 ああ、もう美味しいドーナツの匂いでいいよ。あんたなんか、私のことがほんとは好きじゃないんだから。ドーナツになって消えてよ!




 私は気づけばこの甘い世界にいた。例えるなら異世界転移? 田舎の田園風景と、おじいさんの丸太小屋のダサい世界だけど。都会育ちの私には退屈に思えるこの場所、オシャレなカフェも、食べ歩きのできそうな店もない。ジュースの自販機すらないこの場所にあるもの全て、菓子でできている……。


 土がもぞもぞと蠢いた。ぎゃっ! ミミズ? と思って砂をかき分けて浮き上がってきたのはドーナツ。


「おめでとう。ドーナツが芽生えましたね。お嬢さん」


「あ、ありがとうございます」


 お嬢さんと言う言葉に戸惑いつつ、私はそのドーナツをすくい上げる。

「この場所はおかしいですね」


「お菓子ぃ? そりゃ、お菓子なだけにな。ここでは色んな感情の芽生えが、菓子を生む」


「へー」


 もっとここは貪欲に質問すべきなんだろうけど、風がカフェモカの香ばしい匂いを運んできて、言葉にしなくてもいい気分になっちゃった。


 花壇、見渡す限り何もない草原。丸太小屋。


「ねえ、おじいさんは何でここに?」


 丸太小屋の丸太はティラミスと、モンブランでできていた。どういう原理でそれらより重いコーヒーゼリーの屋根を支えているのか、さっぱり分からない。


 「さぁな。わしら、甘いものが食いたいんかもな」

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