Italian American, Italian Japanese.
Bamse_TKE
Italian American, Italian Japanese.
『OK?じゃあ、行きます。』
いつも通りのテロップがPC画面下に現れる。フォントはいわゆる怖い系の水に浮かぶようにゆらゆらした明朝体。
『始まりましたYoutube、異聞怪聞伝聞Youtuberのバムオです。』
音声がないのが地味だ、そして流れる風景も地味だ。イ短調で繰り返される木琴のBGMも相変わらず地味だ。
『今回は以前からリクエストを頂いていたI県の集落に・・・』
リクエストなんか来るようなYoutubeチャンネルでもないのに、コメントたくさんもらえる人気Youtuber気取り。
しらふで見続けていると気恥ずかしさが止まらない。
タイトルも安っぽい。
【I県K市の山中に鬼を見た!!】
文句を言うならそんなYoutubeチャンネルを見なければよい?
見ないわけにはいきません。それはそう、ぼくが作ったYoutubeチャンネルだからです・・・。ぼくは暗い気分に押しつぶされる前に、ペットボトルの焼酎で自己肯定感を上げる作業に入った。
ぼくが自分のYoutubeチャンネルを作ったのは大学時代、友達と遊んだときの動画を保管する場所くらいの気持ちで作ってみた。それがどうだろう、Fラン大学を無事卒業後ぼくにとっては唯一の定期的な仕事になった。いつものぼくは安アパートの一室で閉鎖空間の支配者、生活のためときどき不定期バイトもしてますが・・・。ぼくのYoutubeチャンネルに話題を戻そう。初めのテロップは昔流行った動画のオープニングを丸パクリ、代わり映えのないオープニングはいつかチャンネルがバズッたとき過去動画も違和感なく見てもらえるように。イ短調で繰り返す木琴はもちろん僕の作曲、静かな時間のおもちゃ屋で子供用の木琴で奏でたワンフレーズを録音、現在もそれを使っている。当時はYoutubeの規定に疎く、ネットで拾った音楽は著作権上まずいと思ったから作ってみたが、このメロディだけはちょっと気に入っている。いつかのTOP Youtuberを夢見て頑張っているぼくですが、この生活を支えてくれているのはYoutubeの広告収入ではなくおばあちゃんの役員収入+年金。ぼくの生活を支えてくれているのは車いすながらも大黒柱のおばあちゃん、有難う長生きしてねおばあちゃん。さてと今回の動画も編集してみますかね、酒で上がった自己肯定感と下がった編集スキルを活かし頑張りまーす。
今回の動画はI県K市の集落に鬼がいたという視聴者からの情報で取材に行ってみた。動画上ではそういうことになっているが、実際に仕入れた情報は下記のとおり・・・
『I県K市の集落に【
という視聴者からの煽られ案件、とはいえ貴重な視聴者さんからの情報であり早速取材に向かった。いやI県K市の遠いこと遠いこと、数少ない財産の軽ワゴンが大活躍。ハイブリッドの低燃費万歳、無料宿泊できる道の駅万々歳、どこまでも走っても無料の一般道万々万歳・・・、軽ワゴンはシートを倒せばそこは別宅のベッド・・・は言い過ぎか。二日かかってようやくついたI県K市、駅前は想像以上にひらけてる地方都市。現地入りする前の情報を整理しておくか。
以上。実地調査開始となる。
まずはK市図書館にて地元紙新聞、タウンペーパーを調べると・・・
あっさり出てきた。なんか興ざめな予感。
30年ほど前のタウンペーパーに載ってる記事を読んでみると・・・
鬼男は帰化人らしい、戦後の混乱期に無理やり日本の戸籍登録された元イタリア人。苗字はないので名無しの鬼男。鬼男ってどういうネーミングセンスなのかね。
介護移設に入ったときにタウンペーパーでインタビューされたようだ。
I県K市はもともと鬼にまつわるお祭りや地名が多く、それにちなんだ小話として紹介されていた。I県K市の戦後復興にそこそこ尽力してくれた人みたいだけどそれ以上の情報はなかった。
続いてそのタウンペーパーに載っていた鬼男なる人物が入所していた施設を訪ねてみる。
残念ながら鬼男はもういなかった。施設職員によると鬼男は数年前に脳梗塞を発症、病院に入院し治療されたが、このころから上手くコミュニケーションが取れなくなり違う施設へ移されたようだった。
先ほどの施設職員に教えてもらった施設に行ってみると、一目でわかった。車いすに乗った白人の男が車いすを押す若い女子職員に必死で話しかけている。あれが鬼男か。
「ここに来る前は日本語も話してたらしいんだけどねぇ。」
先ほどの女子職員は気軽になんでも教えてくれた。個人情報の流出が懸念されなくもないがぼく的には助かる。
「いまでは何言ってるかさっぱりよ。でも老若関わらず女の人には微笑んで声掛けを繰り返してるわ。口説いているつもりなのかもね。時々歌ってくれるのよ、聞いたことあるような唄だけど・・・」
最後はちょっと迷惑そうにつぶやいた女子職員であったが、彼女の表情を見る限り鬼男は完全に嫌われているわけでもないようだ。ただこの話から得られた情報は、鬼男かなりの女好き。ぼく男なんだが質問に答えてくれるかしら?
「こんにちは。」
とりあえず鬼男本人に話しかけてみる。しかしこちらを一瞥しすぐあらぬ方向に目をやってしまった。どうやらぼくには一分の興味もないようだ。
「ボンジョルノ」
イタリア人と聞いていたので、ネットで調べたイタリア語でご挨拶。すると鬼男は車いすにのったまま、ぐるりとこちらに向き直った。その姿に驚いたぼくが腰を抜かすような勢いで。
「〇×△□・・・」
堰を切ったかのようにしゃべりだす鬼男、唖然とするぼく。そこにコミュニケーションは生まれない。だって鬼男何言ってるかわかんないんだもん。ひとしきり話し終わった鬼男は僕の顔を覗き込み、にやりと笑った。
あなたの言っていることがわかりません。
ぼくの気持ちを込めた笑顔を返してみた・・・
がっかりとしたように肩を落とす鬼男、笑顔に込めたぼくの気持ちだけは通じたようだった。
「Munnezz」
むねつぁ?、鬼男のつぶやきはわからないがおそらくぼくは悪態をつかれたのだろう。ぼくたちの間にはいびつながらもコミュニケーションが生まれ始めていた。
少し考え込むようなそぶりを見せた後、鬼男は左手を上に向け、人差し指を曲げたり伸ばしたりし始めた。残念、生まれたばかりのコミュニケーションはこのジェスチャーを僕に理解させるほど成長してはいなかった。
「写真とか動画とってほしいときの仕草よ。」
後ろから先ほどの女子職員が教えてくれた。ていうか君まだそばに居てくれてたのね。驚きつつお礼をすると、
「知らない人と入所者さんを二人っきりにするわけにいかないでしょ。」
そりゃそうだ。にしても暇なのかなこの娘?
「撮ってあげて、鬼男さん写真撮ってもらうの大好きだから。」
なるほど、では早速スマホを向けると左拳に軽く咳払いする鬼男。これから撮影されることが理解できているご様子。ではどうぞ。身振り手振りを使って饒舌に喋る鬼男。まったく何を言っているかわからないが、しゃべることしゃべること、さながら鬼のごとし。スマホの容量が心配になったころ、鬼男はしゃべり終えた。そして鬼男は左手でぼくの手を強く握りしめた。鬼男の目が少し潤んだように見えた。
「鬼男さんが男の手を握るの初めて見た。」
例の女子職員が不思議そうにつぶやいて僕の取材は終わった。
せっかく来た遠方の地、ゆっくり観光しながらグルメを楽しみたいがそれはTop youtuberになってからのお楽しみ。ぼくは軽ワゴンで帰路ついた。
ようやく我がアパートに戻ったぼくは取材内容の編集を始めた。といっても今回の動画はI県K市の背景の中でぼくが今回の件を説明するだけ。いつもの簡単な作業だけどこれが地味に大変。ただ人気Youtuber達も編集が一番大事と話しておられた。ぼくも頑張らねば。
【I県K市の山中に鬼を見た!!】
さっそく完成した動画をYoutubeにあげてみる。内容はあまり盛り過ぎず、あまりいじり過ぎずがぼくのモットーである。今回の動画はぼくがI県K市に移動する道中、現地の風景を背景に流しながら説明のテロップを入れるいつものスタイル。ただ今回は鬼男のインタビューが入っているのでそこだけ音声が流れる。もちろん鬼男の顔にはぼかしエフェクト。いつも動画は10分前後にまとめているので、長すぎる鬼男の話は大半カット。鬼男がしゃべり終わって手を差し伸べたところで動画は止まりエンドロールのテロップが流れ終了。
『言葉の通じない鬼男が僕に何を語りかけていたかはわからない。ただこれまでの人生が幸せであったことを切に祈る。』
『終』
さてバズってくれとは言わないが、動画収入で移動費の一部でも回収できますように。
誰にともなくやましい祈りを捧げてみた。
やはり動画はバズらない。それでも動画をあげて二週間たつと再生回数は3桁に達した。皆さんありがとうございます。どなたかは存じませんが。
そしてコメントもぽつぽつ付き始めていた。僕のチャンネルにつくコメントは視聴者に心を病んでいる人が多いのか、単に僕の動画がつまらないからなのかはわからないが、お行儀のよろしくないコメントが8割を超える。それでもコメントしてくれる=視聴してくれているってことでポジティブに考えるぼく。そして珍しく横文字のコメントがついた。なんだこれ?ぼくの語学力では英語でないことしかわからない。こんな時はWebで翻訳、なんとも便利な時代だ。
コメントはイタリア語、そうか鬼男がイタリア人だから見てくれたイタリア人がいたんだ。しかしコメントの内容は。
『このイタリアン(Byネット翻訳:多分イタリア語のこと)は変です。』
あれ?
確かに僕も動画編集の際、鬼男がしゃべった声をWeb翻訳で翻訳させようとしたけど翻訳不能だった。
そしてその後イタリア語と思われるコメントが数件続く。
そしてその中に答えがあった。
『これはナポリ語です。』
コメントの内容がやけに丁寧なのはWeb翻訳が丁寧だから。
ていうかナポリ語ってなに?
そんな国あったっけ?
しばらくすると動画のリンクからぼくにSNSのダイレクトメッセージが来た。
『おにおさんの話していること全部見せてもらえますか?』
ほんとうにWeb翻訳は丁寧だ。どうやらメッセージをくれたイタリア人と思われる人物、ナポリ語とやらがわかるらしい。断る理由もないし、続編動画のネタになるかも。ぼくは喜んでインタビュー動画全部、もちろん鬼男の顔にはぼかしエフェクト付けて送らせてもらうことにした。
返事はぼくが予想していたよりずっと早かった。鬼男のインタビュー動画を送ってからわずか一日でお返事のメッセージが来た。やっぱりイタリア語で。しかし驚くべきはそのお返事の早さではなくその内容だった。
鬼男の本名はトニオ、彼は1900年代ナポリの鉄道技師一家に一人息子としてその産声をあげた。彼の父ジュゼッペは優秀な鉄道技師で、ナポリ人の誇りであるヴェスヴィオ山登山列車の保守点検に携わっていた。当時のナポリではナポリ・カラブリア語、いわゆるナポリ語が主に使われており、父ジョゼッペ、母マリーアともにイタリア語ではなくナポリ語しか話せなかった。トニオはそんな中両親の愛を一身に受け幸せに成長していった。しかし彼ら親子に悲劇が訪れる。最初の悲劇はマリーアの突然すぎる死であった。その頃のイタリアは第二次世界大戦前、ファシストによる圧政が民衆を苦しめていた。マリーアは飢えて死んだ。マリーアは夫や息子に内緒で自分の栄養をすべて彼らに差し出していた。その結果がマリーアの夭折を産んでしまった。父ジョゼッペは悲しむ暇もなく、最後の家族であるトニオを守るためイタリアをナポリを捨てる決意を固めた。希望が持てるであろう国アメリカへ向けてジョゼッペとトニオ出発したのはマリーアが亡くなってからわずかに二週間後のことであった。
長い船旅のあと彼らはアメリカ東海岸に辿り着いた。そして橋の町、イタリア系移民の多いブルックリンのはずれにその居を構えた。生活は楽ではなかったものの、ナポリにはなかった自由がブルックリンにはあった。ナポリ語しか話せないジョゼッペは他のイタリア系移民と会話が難しく、イタリア人同士でもっぱら英語によるコミュニケーション。言葉の壁に苦しみながらもジョゼッペは懸命に働き、トニオもその手伝いをし続けた。トニオはアメリカに来てから学校に通うこともできなかったが、父と働くことで父の技術や経験、そして歌を愛し故郷を愛する父からナポリの歌や文化を吸収した。トニオは父から直接仕事を学び、かつ自由なアメリカの空気に幸せを感じていた。ある日トニオは父と働きためたお金でアメリカでは労働者の定番、デニムを買った。その日からこのデニムはトニオの宝物となり、大好きな父とそろいのデニムを履き、貧しいながらも働くトニオにはいつも笑顔が絶えなかった。しかし彼ら親子をまたしても悲劇が襲う。第二次世界大戦直前、日本とドイツ、そしてイタリアは日独伊防共協定を結び、事実上母国イタリアはアメリカの敵になった。日を追うごとにイタリア系移民への風当たりは強まっていった。結果ジュゼッペ親子はまたしても国を追われることになる。かといってファシストの支配するイタリアナポリには戻れない。アメリカ側の連合国に行っても同じ目に遭うだろう。かと言って当時のドイツは初めから論外であった。このときジョゼッペとトニオは新天地日本への渡航を決めた。
日本への渡航は苛烈を極めた。それでも彼らは日本に最後の希望をかけていた。ようやく日本にたどり着いたとき、さらなる悲劇がトニオを襲った。船中での感染症がもとで、父ジョゼッペが日本について数日で亡くなってしまった。初めての異邦にて天涯孤独となってしまったトニオは絶望にくれた。だが若き悲劇の主人公トニオに日本人は優しかった。日本流のやり方ではあるものの父ジョゼッペを弔ってくれた。思い出のデニム以外の衣食住すべてを持たないトニオにその善意ですべてを補ってくれた。そしてトニオが鉄道工事に詳しいことがわかると、働き場所まで世話してくれた。I県K市の銅鉱山に鉱山列車が作られ、その設営に携わることとなった。トニオはこの地を永住の地と決め、父の墓をI県K市の寺に移してもらった。カトリック信者であった父ジョゼッペを遺骨を寺に預けるのは本意ではなかったが、菩提を弔うにあたりカトリックの祝詞を唱えるトニオに寛容な寺の住職は聞こえないふりをしてくれていた。優しい日本人たちの温かいもてなしが傷ついたトニオの心を少しずつではあるが癒してくれていた。戦争が始まるまでは。
日本が戦争を始めて何かが変わり始めた。
苦しい日々は長くは続かなかった。いつの間にか収容所の監視や見張り、尋問官がすべて若者から高齢者に代わったころから、意味のない尋問は中止され、無駄な作業は芋やカボチャ作りに変更された。トニオがいた外国人収容所はすこしずつ雰囲気が変わり始めた。だがそれでも日本語以外の言語禁止、これだけは変わらなかった。外国人収容者による畑仕事は順調で、近所の子供たちが野菜のご褒美目当てに手伝いに来るようになっていた。和服の子供たちはトニオの何年も愛用しているデニム、父の形見とも言うべきデニムに興味津々であった。当時の日本ではデニムが珍しかったのだろう。
「すごく丈夫なズボンだね。トニオさんのズボン長持ちしそう。」
トニオは楽しく子供たちと労働した。労働しながら歌を教えた。そう、父ジョゼッペも仕事をしながら歌を教えてくれた。
「わーたしの太陽♪」
トニオの故郷ナポリの歌が日本語になって山野にこだましていた。
トニオ達がいた外国人収容所でも飛行機の音や爆撃の音が聞こえるようになってきた夏の日、いつもなら夕方前に押しかけてくるはずの子供たちが来なかった。理由はわからなかったがトニオはこの日もほかの外国人収容者たちと額に汗しつつ働いていた。次の日もその次の日も子供たちは来なかった。子供たちが来なくなってからいつの間にか外国人収容所に秋が訪れ、一緒にアメリカ人が訪れた。
「あなたたちは解放されました。日本は我々連合国に敗北したのです。」
トニオは混乱のなか数年ぶりの英語を聞いていた。狂喜乱舞するアメリカ人やイギリス人の元収容者たち。だがトニオは喜べなかった。
「日本が負けた?イタリアはどうなった?いつも畑に来ていた子供たちはどうなった・・・?」
トニオの口から久しぶりのナポリ語が漏れた。
トニオはアメリカ人のふりをしつつもトニオに懐いて畑仕事を手伝ってくれていたあの子供たちを探した。残念なことにI県K市に疎開していたあの子供たちは戦争が終わり田舎にいる理由が無くなり都会へ帰っていった。寂しさを感じたものの子供たちの無事に胸を撫で下ろすトニオであった。
トニオは進駐軍の下父から譲り受けた鉄道技師としての技術を活かし、戦後日本の復興に力を注いだ。もう誰もトニオに労働を強制するものは無かったがトニオはそれでも懸命に働いた。そして進駐軍が去っていったころトニオは日本人になっていた。カタカナでは登録が難しかったため響きの近い【鬼男】を名乗った。苗字はなかった。自分には父と母からもらったナポリの苗字がある、それは絶対に捨てられないとトニオは思っていた。トニオの考えは明快であった。母マリーアはナポリで荼毘に付され、今後もナポリ人たちによる追悼ミサでその魂を慰めてもらえるだろう。だが父ジョゼッペは違う。だからトニオは日本に残り父の墓を弔い続ける。そのことがトニオを日本に留まらせていた。トニオはイタリアナポリで生まれナポリ人の誇りを得て、アメリカブルックリンで父ジョゼッペから技術と知識、そして故郷の歌を学び、それを日本で活かす。そんな人生を選択したのであった。
『このビデオを見たり聞いたりしたイタリア人は、私の名前で母の墓に感謝お願いします...』
これがトニオの言葉の結びだったみたい。
ぼくは鬼男=トニオのすさまじいまでの人生に絶句・・・。
続くメッセージにはこうも書かれてあった。
『どうしても日本に行って、トニオと直接話したいです。トニオがどこにいるか教えてください。』
ぼくはトニオのいた施設に連絡を取ってみた。
しかしながら・・・
トニオはぼくがお邪魔した数日後に亡くなったとだけ教えてくれた・・・
動画をあげて、謎のイタリア人からトニオの壮絶な人生を教えてもらい、トニオの残念なお知らせを聞いてから数週間後トニオがいた施設が連絡くれた。
「鬼男さん残念だったね。うちの施設に来る前に取ってあった鬼男さんの動画見つかったから送ってあげる。」
と、あの個人情報漏洩ガン無視でいろいろ話してくれたトニオがいた施設の女子職員さん。
送られてきたDVDにはトニオら高齢者と子どもたちとの触れ合い会が催されており、この時鬼男の歌声が確かに残ってた。ていうかこの動画トニオにも子どもたちにも顔を消すエフェクトなし、すげーなあの娘、これ第三者に見せてもよいもの?
「とにーおのパンツはよいパンツ、強いぞ~、強いぞ~。百年履いても破れない・・・」
これはぼくも知ってる【鬼のパンツ】・・・。Webはなんでも簡単に教えてくれる。通称【鬼のパンツ】はイタリアナポリの鉱山鉄道の歌、【フニクリフニクラ】の替え歌だったのだ。Webの百科事典には【鬼のパンツ】の翻訳者不明とある。
トニオは望郷の思いに駆られながら禁じられた故郷の歌【フニクリフニクラ】を日本語にして歌ってたのだ。アメリカで日本でひどい目に遭わされ、戦争で破壊された鉄道の復旧に従事しつつ、死んだ父ジョゼッペを弔い続けるため日本に残ったトニオ。そして日本人のだれもが口ずさんだことがあるであろう替え歌を残してくれたトニオ。この替え歌が広まったのはトニオが日本の子供たちに教えてくれたから、トニオが大事にしていた父の形見のデニムが鬼のパンツに、それが童謡【鬼のパンツ】として日本人たちに愛唱されてるなんて・・・
さてこれをどんな動画にまとめようか?ペットボトルの焼酎をガブリ飲んで誰にともなくトニオの冥福を祈りつつ、ぼくは続編の構想を練ることにした。
Italian American, Italian Japanese. Bamse_TKE @Bamse_the_knight-errant
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