カフェ・ストレイシープ
木原梨花
第1話
重い扉を開くと、カランカラン、と思ったよりも軽い音が響く。店内はそれほど広くはない。年季の入ったカウンターに、椅子が六つ。そのカウンターの向こう側に、ピシッとしたスーツを着込んだ男性が立っている。上品そうでスマートだけれど、年齢不詳という感じだった。その隣には十代後半くらいの女の子がひとりと、カウンター席にゆったりと腰掛けた上品な中年女性の姿もある。店内にいたのはそれだけだ。
「ようこそ、カフェ・ストレイシープへ。おひとりですか?」
「あ……はい。えっと――」
そこまで口にしたところで、頭の奥で何かが弾ける。クラリと身体が傾いたけれど、その感覚は一瞬だった。
「どうかなさいました?」
「いえ……すみません、なんでもないです。その……ひとりです」
自分でもよくわからない感覚に襲われながら、私はカウンターの方へと歩み寄る。その頃にはもう、奇妙な感覚は消えていた。ここのところ忙しくて寝不足だったから、そのせいかもしれない。
カウンター席に腰を落ち着けると、目の前の男性が優しく微笑む。
「コーヒーでよろしいですか? それとも、他のものが?」
「そうですね……コーヒーをお願いします。さっきから、すごくいい香りがしているから」
「ふふ、そうよね。このお店のコーヒーはね、本当に美味しいのよ。生きていて一度も口に出来なかったくらい」
中年女性が機嫌良さそうに目を細める。まるで自分の手柄のように話す彼女に、なぜだか私まで笑顔になる。好きなものを堂々と語る人の顔は、見ているだけでも気持ちが良くなるものなのだ。
マスターは早速やかんを火に掛ける。入れ替わるように近づいてきた女の子が、私の前にコップを置いた。
「はい、お水でーす。あ、ケーキとかもありますけど、いかがですか?」
ニコニコ笑いながらメニューも目の前に差し出してくれた。いかにも自分で撮りましたという素人っぽさ全開の写真に懐かしさを覚える。子どもの頃、よくじいちゃんに連れて行ってもらった喫茶店で見たからだ。当時はまだ画質も粗くて、写真ではあまり美味しそうに見えなかった。だから妥協してこれでいいやと選ぶのだけど、実際に出されたものは何百倍も美味しそうで、そのギャップに大はしゃぎしたものだ。
さすがにそれよりは美味しそうに見えるけれど、微妙にピンボケしているところに好感が持てる。思わず頬を緩めながら、私はチーズケーキを指差した。
「これもお願いします。ベイクドチーズケーキ」
「はーい! ベイクドチーズケーキ入りまーす!」
女の子は早速パタパタとカウンターの内側を動き回る。その姿は忙しない。決して小柄な子ではないけれど、黒髪で童顔という見た目のせいだろうか、どことなく幼く感じる。
動きこそ落ち着かなかったけれど、彼女は丁寧にケーキの載ったお皿を置いた。マスターの入れたコーヒーも差し出され、香ばしさがふわりと広がる。
「……美味しそう」
「でしょでしょ? コーヒーもケーキもマスターの自信作ですから!」
「はは。あまりハードルを上げるのはやめてくれ。だが、味にはこだわっているから、きっと満足してもらえると思いますよ」
後半は私に向けられた言葉だった。その誇らしげな表情が私の感情を揺さぶる。心の底に広がっていくゆるい温もりが、全身を巡った。その瞬間、まるで脳を直接かき混ぜられるような感覚に襲われ、クラリとした。それもまた、一瞬で収まったけれど。
フォークを手に、チーズケーキを一口食べる。ふわっと広がるチーズの香りが心地良い。舌触りもなめらかで、飲み込めばすうっと喉を通り、身体の中へと収まるのが自覚出来た。
「すごい……美味しい」
「ありがとうございます。なかなか濃厚でいいでしょう?」
「はい! 私、こんなにチーズ! って感じのチーズケーキ、初めて食べました」
「あはは! なんか私みたいな語彙力ですね~!」
「ルカちゃん、あなたそれ、自分をものすごく下に見てるのわかってる?」
「わかってますよ~! 語彙力がないのは自信ありますから!」
「それ、誇れることじゃないわよ?」
あきれ顔の真梨子さんに、ルカちゃんはケロッとしたまま笑いかける。本当に自分の語彙力のなさを誇っているかのようで、そのやり取りにやっぱり笑ってしまった。本当にこの人たちは面白い。口元を押さえて笑っている私を、真梨子さんがまじまじと覗き込んでくる。
「ねえ、あなた。えーっと……名前は?」
「あ……カナミです。願いが叶う海で、叶海」
「へぇ、可愛らしい、いい名前ね。叶海ちゃん。名前も可愛らしいし、顔もすごく可愛いわ。よく言われるでしょう?」
それがあまりにもあっさりとした言い方で、私は思わず言葉を失う。
「あら、どうかした?」
「いえ……なんの含みもなく可愛いって言われたの、久しぶりだったから」
呆然としたまま呟いて、それがあまりにも失礼な言葉だったことに気づいて口を押さえる。でも、真梨子さんは気にした様子もなく笑った。
「あなた、顔で苦労してきたんでしょう?」
「……そうですね。こんなこと言うと何言ってるんだって思われるかもしれないですけど、私、整った顔をしているので」
「別にいいと思うけどねぇ? だって、あなたが美人なのは事実だもの。事実を口にしているだけでとやかく言われるのも困っちゃうわ」
「でもでも、それってダメなんじゃないんですか? ほら、美人だって指摘されていやだ~って思う人もいるわけだし」
ルカちゃんは不思議そうに首を傾げたけれど、私は首を横に振った。よく言われることだけど、ルカちゃんの言葉は少しだけ外れていた。
「確かに美人って言われて嫌なときもあります。けど、褒められているってわかるときには嫌だと思いませんよ。美人って言われて嫌なのは、相手から嫌味がにじみ出てるときだから」
「あー……なるほど。でも、嫌味ってやっぱ伝わるもんです?」
「うん、すごく。あ、この人は下心あるなとか、この人は本気で褒めてないなとか、上っ面だけの言葉だなとか、たぶん八割くらいは伝わってきてますね」
「八割……思ったより多い……」
感心したようにルカちゃんは唸る。かと思えば、面白がるみたいに身を乗り出してきた。
「じゃあ、私が叶海さんのこと『美人~!』って言ったとしたら、その言葉通りに受け取ってもらえるんですか?」
「そうだなあ……美人とかそうじゃないとか全く興味ないんだろうなっていうのが伝わってきます」
「うは、バレてる! 人の顔とか、基本的に覚えられないからどうでもいいんですよね」
面白そうに手を叩いて笑いながら、ルカちゃんはすっと離れていく。その言い方があまりにも軽くて、心の底からどうでもいいのが伝わってきて、もう声を抑えることもできずに笑ってしまう。
「ああ、おかしい。顔の話してこんなに笑えるの、初めてかもしれないです」
「あらあら。本当に苦労してきたみたいね」
「そうですね。最近は特に息苦しくて。人を見た目で判断するな、だけ言ってたときはよかったんですけどね」
人を外見で判断してはいけないのはその通りだ。その子が可愛かろうがブスだろうが、その子の人格には関係ない。ただそういう顔に生まれただけ。それ以外のなにものでもない。
けれど実際には、人は他人の顔で色々と判断している。可愛い子には少し甘くなったり、可愛くなければ冷たくなったり。そして同時に、それが悪いことだというのも皆、正しく理解している。そう、理解しているのだ。誰もがそれは差別に繋がりかねないとわかっている。それでも心は勝手に動く。それを冷静に受け止められる人間は滅多にいない。
「ルカちゃんって、美人を見たらどう思います?」
「美人だな~って思います!」
「それだけ?」
「それだけですね~。ほら、さっきも言ったけど、私はあんまり人の顔に興味がないから」
「なのに、美人って指摘するのはよくないと思ったんですよね?」
「そりゃそーですよ! 私だってそれくらいの常識は持ってるんですから」
「それって、どこの常識?」
「え? どこのって――」
と、一瞬言いよどんだルカちゃんが、ハッとしたように目を見開き、今度はあれ? と首を捻る。目を閉じて、眉を寄せて、うーんと唸ってから、観念したように首を振った。
「考えたことなかった……」
「誰かが言うのよねぇ、そういうのが常識なんだから従わなきゃいけないんだって。みんなそう思っているんだって。でも、じゃあみんなって誰? っていう話よね」
真梨子さんが面白そうに口角を上げる。この人はわかっているのだ。たぶん、私と同じようなことを考えて生きてきたのだろう。
チーズケーキをゆっくりと口に含みながら、私は私に問いかける。どう思う? と。その答えは、身体の底からボコッと浮き上がるように沸いてきた。
「それが常識になったのって、優しい世の中にならなきゃいけないっていう強迫観念のせいなんですよ」
私がきっぱり言い放つと、おお、とルカちゃんが腕を組む。
「確かに、ここのところ人に優しくしようって雰囲気をめっちゃ感じます」
「人に優しく。差別はいけない。全員が平等に。これが世間の標語みたいになっていて、それができない人に対しての当たりが強いんですよね」
「あ~、わかります! ちょっとでもそこから外れると、その人が完全に潰れるまで叩き潰すやつ!」
「あるわね~。間違ったことをしたら二度と社会に戻って来ないようにってされるとか、犯罪を犯したら一族郎党全員罰しようとするとか」
「それから恵まれている人は、生きているだけで監視の対象になるとか」
そう口にした瞬間、またぐわっと脳がかき混ぜられた。さっきまでとは少し違う。まるで身体が重力を失ったかのように、ふわっと浮かぶような気がした。意識がどこかに飛びそうになる。慌てて両足に力を入れて、床があることを確かめた。
コトン、と。マスターが何かをテーブルに置いた。砂時計だ。サラサラと砂が落ちていく。それをじっと見つめる私に、マスターがそっと声をかけた。
「恨みを買っていたんですね? ただ、そこにいただけで」
「……わかります?」
「あなたの言う通りですから。世の中は、恵まれている人に冷たい」
「昔はバランスがよかったんですけどね。可愛いことを理由に、ちやほやしてくれる人もいたから。片方からは過剰にちやほやされて、片方からは過剰に恨まれて。これでちょうど半々。だから私もバランスよく生きられたんです」
「ですが、時代は変わった」
「そう。時代が変わって、ちやほやするのはよくないということになってしまった。平等じゃないから。表立って顔を褒めることが、悪い事になってしまった」
生まれ持った私の恵まれた顔は、正直、私には何一つ役に立っていない。そもそも顔がいいだけで有利になるのは写真に写る瞬間だけだ。あれは黙っているだけだから、ただぼんやりしていればいい。
でも、それだけ。他の努力は人と同じようにしなきゃいけない。勉強をするのも、運動をするのも。他の人と条件は同じ。いや、場合によっては顔で勝手に決めつけて優秀であることを求められたりもするから、人並み以上の努力をすることが欠かせない。
「この顔で、例えば頭が悪かったとするじゃないですか。なんて言われると思います?」
「顔だけで世の中渡っていこうとしている……ですかね。あとは、可愛ければなんでも許される、とか」
「そう。そうやって文句を言われる。でも顔がいいのを利用するのって悪い事ですか?」
私の問いに、マスターは少しだけ考える素振りを見せる。そうして、フッと笑った。
「わかりません。悪い事ではないように思うし、悪い事であるようにも思う」
「そう。使い方次第でどっちにもなるんです。だから私は、悪用してると思われないように勉強もしました。運動もできるようにひととおりは練習しました。だから学校の成績はよかったんです。でも、なんでもできるようになると別のことを言われるんです」
「どんなことを言われました?」
「ずるい、って。大した努力もしないでなんでもできるようになったんだろう、って」
私の言葉にマスターは特に反応しない。代わりに真梨子さんとルカちゃんが、怒ったようにため息を吐いた。
「酷い話! ずるいってどういうこと!? って感じですよね!」
「見た目で苦労するタイプの典型ね……努力しているところを見ていなくて、結果だけ見ているから。だからなんでもできる子なんだって決めつけたんだわ」
「それなんですよね、私が嫌なのは」
ため息を吐くと、サラサラと砂が落ちるのが目に付いた。砂時計は刻を切り崩して、下へ下へと移動する。あと半分くらいだろうか。その砂を見ているうちに、私の心にも何かがサラサラと降り積もってくる。
サラサラ、サラサラと。それは驚くほど心地よく私の心に貯まって――そして、どろりと溶けていく。
唐突に視界が狭まって、耳に幕が張られたように音が少し遠くなる。眉間をカナヅチで殴られたように、強い衝撃が脳を走った。
「何かひとつでも恵まれていたら、私はずっと卑屈に生きていないといけないの?」
その言葉は、無意識に出てきた。
「努力して能力をつけてそれで掴んだ自分の居場所に胸を張っちゃいけないの? そんなのおかしいじゃない」
まくし立てる私の言葉に、三人とも黙ったまま聴き入っている。ドロドロとした感情が生き物のように口から出ていくのを、三人ともただじっと見つめていた。
そして私も、マグマのように煮えたぎる心がダラダラと飛び出して行くのを他人事のように眺めている。
「何かを手に入れられない人がいるのは知ってる。でもその人に配慮しろって言われるのは違わない? 美人は恵まれてるんだから今回は譲ってくれって、どういうこと?」
「……そう、言われたんですね?」
マスターが静かに私に尋ねる。その瞬間、私の脳裏に弾けるように記憶が横切る。
――叶海って美人じゃん? だから今までもうまくいってきたでしょ? だったら今回くらい私に譲ってくれてもよくない?
頭に響くその声が、私の心臓をグチャグチャに握りつぶす。
「私が美人だから何? だからうまくいったなんて、なんでそう思えるわけ? あなたが美人で羨ましいって言われるならわかるよ? ただの感想だもの。でも、美人だからって得してきただろうとか、譲れだとか、おかしいでしょ? どうしてそんな結論になるの?」
「美人であることがズルだということなのかしらねぇ?」
「顔なんて生まれた時から変わらないですし、どうしようもないのに」
真梨子さんとルカちゃんが、しみじみとそう呟く。そうだ。その通りだ。私はむしろ損をしてきた。顔で勝手に判断されるから。だからこれ以上損をしないように、他の人と同じ努力をして――いや、それ以上の努力をしてきたのだ。それなのに。
「勉強もできて運動もできる。なんでもできるっていいよね、って……そりゃ、努力したからできたんだよ! 何もしないでできるわけないじゃない! 昔からずっとそう。小学校からずっと知ってるけど、できないと思ったらその場で諦める! だからいつまでたっても勉強も運動もできないままだし、オシャレだって自分で考えてやらないからいつまで経ってもダメなままなんじゃないの!」
溢れてくる。溢れて、溢れて、溢れて、溢れて……グツグツ、ドロドロと、私の口を通って零れるその感情は、醜くて、汚くて、見たくもない。それでも私には止められない。
マスターは、二杯目のコーヒーを入れてくれた。砂時計はサラサラと砂を落とし続ける。鼻先に爽やかなコーヒーの香りが漂うのに、私の視界はどんどん闇に閉ざされる。
息が出来ない。苦しい。私は必死で手を伸ばし、コーヒーカップをひっつかんだ。そのまま勢いよく流し込む――
「叶海さん。落ち着きましたか?」
「……まさか」
「なぜ、落ち着かないのですか?」
「腹が立つから。あの子、いくらなんでもふざけすぎだもの。私のことをバカにして……顔のクオリティが同じだったら、あの子と私は同じ舞台に立てたとでも思ってるの?」
「あなたは努力し、彼女はしなかった。だからどんなことがあっても彼女はあなたには追いつけない……そうなんですね?」
「ええそうよ。だからあの子はいつでも私に負けていた」
あの子――小学校の頃に出会った、隣の家に住んでいる子だ。母親同士が仲良くなって、それが原因で私とあの子は友達になった。内気だから友達がいなくて、金魚の糞みたいに私にいつでもくっついていて……でも別に、嫌いじゃなかった。嫌いだったら、二十八まで仲良くしたりしない。彼女だって、私の顔がいいからって、特別扱いをしてきたことなんてなかった。
「……二割」
「二割?」
私の言葉にマスターは不思議そうに首をかしげる。
「そう、二割……私は、世の中の八割の人の嫌味や下心がわかる。でも、残りの二割は見逃してしまう。あまりにも上手く隠されたり、距離が近すぎたりすると、わからない」
「では、気づけなかったんですね? あなたのそばにいた、彼女の気持ちに」
「そう……気づかなかった。気づけなかった! あの子はずっと、私の顔がいいことを利用して生きてたの。勉強ができることも、運動ができることも。褒めてくれてると思ってたのは全部嘘だった! 嘘で……本当は――」
――だって、叶海と一緒にいるとおこぼれが貰えるんだもん。
「私の努力も全部利用してた!」
――叶海のおかげで宿題も見せてもらえたし、難しいところは全部やってくれたし。
「ただの便利な道具としか思ってなかった!」
――でもさ、私は叶海の隣にいることで比べられてたんだよ? ずっと損をしてたの。
「私がどれだけ頑張ってきたと思ってるのよ!」
――叶海は可愛いけどね、って言われてたんだよ。ずっとずっと、私は貶められてた。
――だからいいじゃん。どうせ叶海はすぐ恋人できるでしょ?
――今回くらい譲ってよ。叶海が言えば、きっと彼は私と結婚してくれる。
――ねえ、譲ってくれるでしょ? 叶海は可愛いんだから、それくらいいいよね?
……雪崩のように私を巻き込み流れて行く。怒濤のように。私の心をえぐり取って、どこまでも押しやってしまう。私の気持ちを。あの子の声が。どうしても、思い出してしまう。あの子が私に言ったことを。そして……
――なんで譲ってくれないの!? ずるいよ! なんで全部手に入れようとするの!
「そう……彼女は、叫んだ。あなたがあなたの恋人を、彼女に譲ろうとしないから」
マスターの言葉が脳に直接響いてくる。どうして知ってるの。そう訊ねようとしたけれど、雪崩に飲まれた私はピクリとも動けない。
マスターの声はまだ聞こえる。
「あなたには恋人がいた。とても素敵な人で、その恋人を自慢したくて彼女に会わせた。そうしたら彼女は彼に惚れた。どうしても欲しいとあなたに強請り……でも当然、イエスと言うはずがない」
「当たり前でしょ。初めてだったの。私の顔に興味がなくて……それどころか、好きじゃないとすら言った。なのに私と一緒にいたいって、恋人になって、毎日楽しくて……」
「そんな彼を奪われたくない、と?」
「当然! なんであの子に取られなきゃいけないの!?」
「そう。だからあなたは拒絶した。その結果、彼女は何をしましたか?」
「その結果。その結果、あの子は私を――」
――だったら死んでよ!
唐突に聞こえた。絶叫。その手に、何か。光っている。鉄。違う。刃物。包丁。真っ直ぐに私に向けられてその刃が近づいてきたと気づいた次の瞬間私は――
「……ッ!」
首筋が引き裂かれる。何かがちぎれる音がした。生ぬるい何かが噴き出す。赤黒い。鉄臭い。それは――
「血だ」
呟いた瞬間、私の右半身は赤黒い血に染まっていた。
「……なに、これ」
全身から力が抜ける。一瞬で喉が冷たくなって、呼吸をすることもできなくなる。頭の奥で鐘が鳴る。ガーン、と。瞼の裏まで真っ赤に染まる。その向こうに、顔が見えた。
虚ろに歪んだ白い顔。あの子だ。
『仕方ないよ、叶海』
あの子はうっすら笑っていた。
『ずっと私から奪い続けていたんだから、今度はあなたが失ってよ……何もかも、全部』
「……あなたは、切られた。彼女の手で」
「え……? でも、私は……」
「あなたは彷徨っている。生と死の狭間を。だからここに来たんですよ。この、カフェ・ストレイシープへ」
「ストレイシープ……迷える羊……」
ふと顔を上げると、辺りには何もなくなっていた。そう、何も。漆黒の空間に、私はカフェのマスターと二人、漂っている。何がなんだかわからない。でも、それが正しいような気がする。これで正しいような気がする。全身から力が抜けて、ふわりと身体が浮かび上がって、それが心地良くすらある。
マスターの口は動かない。でも、声ははっきり聞こえてくる。
「あなたは迷っている。このまま死ぬか、それとも生きるか」
「……死ねば、楽になれるから」
「そう。もう迷わなくてもいい。大丈夫、彼女だってちゃんと終わります。あなたを殺したのだから。平穏な人生など歩めるはずがない」
「でも……」
「あなたは迷っている。なぜ?」
「だって……」
確かにこのまま私が死ねば、あの子は殺人犯として生きることになる。この世界は残酷だ。一度でも足を踏み外せば、二度と元の場所には帰れない。だからあの子は社会的に死ぬ。ハッピーエンドだ。
本当に? それで、ハッピーエンドになる?
「……あなたは何を迷っている?」
「私は……私は、あの子に何もしないで不幸せになってほしいわけじゃない」
「では、どうなってほしい?」
どうなってほしいのか。自分の心に問いかける。雪崩に襲われて雪に埋もれて、もう助からないと思っているのに……それでも私は、願っていた。
「私は、あの子に不幸せになって欲しい。私の手で、地獄に送ってやりたい……!」
誰かの手で社会的な死を迎えたって、私が救われるわけじゃない。私を利用し、道具にし、ゴミのように捨てようとしたあの子を、徹底的に叩き潰さないと気が済まない。
だから私は、まだ死ねない。
「お聞きしましょう。あなたはこのまま死にますか? それとも、まだ生きますか?」
「……生きる。私は生きて、復讐する!」
そう宣言した瞬間に、急に光が降ってきた。あっという間にホワイトアウトして――
さっきの喫茶店に戻っていた。
私の身体は血みどろのままだ。それでも突然生きる希望に満ちてきて、今すぐにでも駆け出したい気持ちになる。
バンッ、と。扉が開いた。真っ白な光が私の視界に広がり、向かう先を示している。
「さあ、行ってください。あれがあなたの進む道だ」
「生き返ったらキツいと思いますけど、負けないでくださいね! 絶対ぼっこぼこにしてください!」
「うん……頑張る。これまでだって、人並み以上の努力をしてきたんだから。復讐を果たすまで、絶対に負けないから」
そう告げると、マスターもルカちゃんも笑って手を振ってくれた。真梨子さんだけは呆れた顔をしていたけれど、親指を立てて言ってくれた。グッドラック、と。
そうだ。グッドラック。私の未来にピッタリな言葉だ。絶対に私は幸せになる。顔がよくて努力してきた。そんな私は肯定されるべきなのだ。
立ち上がり、歩き出す。その光の向こう側へ――
バタン、と扉が閉じると、カランカランと軽いカウベルの音が鳴る。私の営むカフェ・ストレイシープには、いつもの時間が戻ってきた。
「今回はなかなか壮絶なお客さんでしたね、マスター」
カウンターに残された食器を片付けながらルカが言う。迷える羊を導いた直後だから、彼女の背中には真っ白な羽が生えていた。背中の感触から言うと、恐らく私にも黒い羽があるに違いない。
この店の中でただひとりの人間の真梨子は、そんな私たちを見ながらニコニコと笑っていた。
「相変わらず鮮やかな手法ね。生死の狭間を彷徨う人から心の内を引きだして、生きるか死ぬかを選ばせる。それがあなたたち狭間の世界の住人の役目なのよね?」
「ええ、そうですね。私たちはそのためにここにいる」
このカフェには、さまよえる人がやってくる。既に死んだはずなのに、未練がありすぎて死にきれない。もっとも、生き返ったとしても地獄の苦しみが待っているだけ。それでも生きるか、それとも死ぬか。選ばせるのが、私のここでの役目だった。
今日もその仕事を果たした。それだけのこと。しかし――
「問題は真梨子さんですよ、真梨子さん!」
「ふふ。私は未だに決めていないものね。生きるべきか、死ぬべきか」
「そうですよ~! ここに居座って何ヶ月ですか!? そろそろ選んでくださいよ!」
ルカが必死で説得するが、真梨子は穏やかに微笑むとさらりと言った。
「あのねえ、ルカちゃん。生きるか死ぬかはそう簡単に選べるようなものじゃないの。生きても地獄、死んでも地獄。それならもう少し迷ってからでもいいじゃない?」
そう言ってコーヒーに口を付けると、彼女はこの世の春とばかりに息を吐く。
「ここのコーヒー、本当に美味しいんだもの。生き返ったら飲めなくなっちゃう」
「マスター! このままじゃ真梨子さん、身体が朽ちるまでここにいますよ!?」
「はは……これもまた、迷える羊の生き方なのかな」
すっかり腰を据えてしまった彼女のために、私は新たなコーヒーを淹れる。居座られてしまうのも困るのだが、こうして彼女がいる日常を失いたくないと思う私がいることにも、少しだけ気づき初めていた。
ここは、カフェ・ストレイシープ。迷っているのは、きっと私も同じなのだ。
カフェ・ストレイシープ 木原梨花 @aobanana
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