第3話 彼女の野生に、分からせられてしまった私

 結果として私は、その獣を食べる事ができなかった。なたとどめをすには、はあまりにも美しかったから。もし見た目が恐ろしいひぐまだったら、私は解体して鍋料理でも作っていたのだろう。彼女の切れ長の瞳は私を見据みすえていて、その視線は胸の中で、これまで知らなかった感情をしょうじさせていた。あれが私の初恋だったのだと、今もそう思う。


 足を折ったエゾシカ。茶色と黒の毛皮に包まれた生物が、雪にまみれてうずくまりながらなお荘厳そうごんとしか言いようがない視線を私に向ける。令和となった現代も、私を落ち着かない気分にさせる、あの視線。うそも何も無い、唯々ただただ、美しさだけが伝わってくる眼差まなざし。北の地方でエゾシカは神の使つかいだと言われていたそうで、ならば同じく神様の使いである、精霊の私が彼女に恋をしたのも自然な事だったのだろうか。


 いつのにか無意識に、私はなたを雪の上に落としていた。あとで探したのだけど結局、見つからなくてこまった覚えがある。それはどうでも良くて、私は無防備に、彼女の前まで歩み寄った。その気になれば、彼女は私の腹をつのせただろう。そうしなかったのは彼女も、私の姿を見て何かしら、特別な感情がしょうじたのだろう……たぶん。


 うずくまった状態でも、彼女の角は私の頭をすほどの高さまで伸びていた。その彼女の前に、両膝を雪にうずめて私は座り込む。放っておけば命を落とすのは確実で、なのに彼女の尊厳そんげん微塵みじんおかされていない。彼女の肉厚のお尻にも目が行く。美しい。彼女の全てが美しかった。


「……に、なって……」


 彼女に話しかけようとしたが、くちが上手く動かなかった。雪が激しく降ってきていたけれど、寒さでくちが回らなかった訳ではない。なたが雪にもれた事にもづかない程、私は羞恥しゅうち一杯いっぱいだったのだ。言わば生まれて初めての告白こくはくじみた事を、私はおこなおうとしていた。


「……お願い! 私の従者じゅうしゃになって! ずっとずっと、私と一緒に居て!」


 私なら彼女を精霊にする事ができる。そして不死と言って良い程の長き時を、彼女と共に過ごす事ができる。ただ、それは私のエゴかも知れない。私は将来も続きそうな、ひとりぼっちの状態が恐ろしくなってきていたのだ。空腹よりも恐ろしい、孤独という状態を私は人間のように理解し始めていた。


 私の懇願こんがんは、誇り高い彼女への侮辱ぶじょく行為こういなのだろうか。彼女は死を自然のものとして受け入れようとしていて、そこに私が傲慢ごうまんにも介入かいにゅうしてしまったのかとも思われた。申し出を拒絶されたらあきらめるしかない……そう覚悟を決めようとしていたら、『許可』のサインが出た! 眼差まなざしや緊張状態の緩和かんわ生体せいたいオーラの変化などを含めた総合的な見た目からの判断。そういうものだ。自分の初恋がみのったのだと理解して、私は胸を高鳴たかならせる。あわててはいけない、早く彼女を助けないと。


 許可が出てからは簡単で、私は光の球体を作って、その中に彼女を入れる。エネルギーを送り込んでいって、人間や動物が持つ肉体より、もっとこまかい粒子りゅうしの集まりで全体を再構成────これで精霊体せいれいたい出来上できあがり。私と同じ、精霊の体を持った彼女が誕生した。


 見た目は依然いぜんとして、エゾシカのままである。しかし折れた足は治っているし、もう寿命じゅみょうという概念がいねんは無い。習熟しゅうじゅくしていけば、彼女自身の意思で人間の姿にも変身できるようになる。が、それには、まだまだ時間が掛かるのだった。だから私は彼女と、この山奥で長く過ごしていこう。


 まだ彼女は精霊としては赤ん坊だった。私と暮らしていって、冬に神様から与えられる私の仕事──人間の子供達に食べ物を運び与える──を手伝う事で、私と彼女の関係も神様から祝福してもらえるはずだ。私は彼女の背中に乗って、エゾシカの彼女は私をせ、私達は空に浮かびちゅうを駆けていく。ずっと一緒に、この疾走感しっそうかんが未来まで続いていく事を私は願った。




 目が覚める。いつものように、脱ぎ散らかした私達の服がコタツの外にあって、コタツの中には私達が居た。普通の人間なら風邪をひく格好だが、冬でも冷水シャワーを浴びている私達には関係ない。隣で寝ている、彼女のお尻を手ででていたら、向こうも目が覚めた。


「……ねぇ。もう、撫でられてるから、率直に聞くけどさ。そんなに、私のお尻が好き?」


「好き。だって昔、初めて会って、貴女の背中に乗ったでしょう? もう伝わってくるのよ。私に、貴女の腰の動きが」


 エゾシカの背中に乗った事のある人って、どれくらい居るのか分からないけど。野生動物の腰の動きは、人間と比べ物にならないくらい凄い。あの律動りつどうを知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れないのだ。『これが野生か! これが命か……』という感動があって、ふわふわした存在である精霊の私にはカルチャーショックなのであった。


「あー、初めて会った時ねぇ。私も覚えてるよ。貴女、赤い着物で綺麗きれいだった」


 私は、自分の着物の色は覚えてなかった。白や黒で無かった事は確かだ。さびしい色が嫌いなのだったと思う。そして寂しさが嫌で、彼女を従者にした事も確かだ。


「……逆に聞くけどさ。最初の私の印象って、どうだった? その、何処どこか魅力を感じたりした?」


「魅力って言ったら、それこそ全部。だって貴女、自分の事を分かってる? 究極の系にして、女神めがみさまじゃない。死にかけた私の前に現れて、永遠みたいな時をくれた存在。そりゃあ全身全霊でつかえる事をちかうわよ」


 女神様って。私は神様の使いに過ぎないのだけど、彼女は神様なんか関係ないようで、今も私の事だけ考えている。と言うか、あの時の私はなたを持ってたんだけどなぁ。ゆるふわ系女子は、そんな死神の装備みたいな武器を持たない気がする。

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