第37話 回復(リハビリ)中止・帰省

 薬子やくこは無言で電車に乗り込んだ。辛うじて残っていた気力で、できるだけ掃除をした部屋を見渡す。気分は完全に世捨て人だ。もうこの街に戻ってくることはないかもしれないにしては、あっけない別れだった。


 電車はそんな薬子の思いをよそに、北に上がっていく。一時間も乗れば、実家の最寄り駅についた。いざとなれば、こんなにも近かったのだ。


 事前に連絡してあったので、駅に母が迎えに来てくれている。薬子の家はさらに北にあるのだが、北に向かう電車は接続が悪いため気をきかせてくれたのだ。


「お帰り。電車は空いてた?」


 薬子はうなずいた。いきなり報告してしまおうかと思ったが、あまりに唐突なのでさすがに我慢する。


「まあね。都会から田舎へ行く便だもん」


 さらに北に行けば有名な温泉町があるのだが、薬子の実家はその中間地点にある片田舎だ。観光客など、たかが知れている。


 車に乗ること三十分ほど、無事に実家に到着した。


 薬子の実家は、二つある。坂の上と、少し下ったところ。一つは薬子と両親が暮らしていた家で、もう一つは祖父母宅だった。二世帯住宅ではなく、近い距離に家を一軒ずつ建てていたわけだ。薬子の家は一般家庭だから、どちらも豪邸とは程遠い小さめの家だ。


 父と離婚し一人になった母は、祖父母宅の方で生活している。離婚当初は気落ちしていたが、これでもずいぶん元気になった方だ。


 家の前の門を開けながら法子ほうこが振り返った。


「玄関先もきれいになったでしょ? おばあちゃんがろくに使ってなかった物が山のようにあってね。埃だらけのガラクタを捨てるだけでも、大変だったのよ」


 本当に大変だったのだろう、母が渋い顔になっている。何も知らない薬子は黙ってうなずくだけだった。


 家の中はしんとしている。確かに、母の言う通りきちんと掃除がしてあった。


 祖父が作った巨大な彫刻が、玄関先から消えている。その他にも結構家の中が様変わりしていて、どこに何があるかも分からない。


「あんたの部屋、二階のいつもの場所だから。荷物置いてきて」


 薬子の部屋はそのままだった。それがかえって辛くて、薬子は肩を落とす。ここにいると、幸せだった昔を思い出すのだ。


 振り返っても仕方無いことだと分かっていても、祖父母が生きていて、両親が揃っていた頃が懐かしい。


 作っていた笑みが崩れて、涙が浮かんでくる。それに対して、今はどうだろう。考えれば考えるほど、絶望的な気分になっていった。


「薬子。薬子?」


 階下から母が呼ぶ声が聞こえてくる。薬子はあわてて返事をし、下に降りた。


「帰ってきたところで悪いけど、ちょっと買い物に荷物持ちとして付き合ってもらえる? その後はゆっくりしてていいから」


 薬子はうなずいた。家主の法子に逆らうつもりはない。その足ですぐ、母の車に乗り込んだ。


 てっきりスーパーに向かうと思っていたのに、車は駅に向かって走っている。


「あれ、方向が違うよ」

「ごめん、言ってなかったわね。特急の切符を買うのよ。今度東京へ行くから」


 法子は短く言った。それで薬子はだいたいの事情を察する。


 退職する前から法子には東京の友人がいたのだが、仕事があるのでなかなか行けなかった。晴れて退職し、のんびりできる身分になったから好きなときに会いに行くのだろう。活気ある都会は、母にとっても楽しい場所なのだ。


 やがて、近所の駅に着いた。薬子の家の最寄り駅は小さすぎて発券機もないため、わざわざここへ来ているのだ。


 車の外に出ると、冬風が吹き付けてきた。手をアルコール消毒して、中に入る。きっちりしている法子はこういうのを怠らないだろうと思っていたが、予想通りだった。


 窓口は混んでいて、数人の人が並んでいる。しばらく見ていると、どうやら先頭の男性が何やらもめているらしいというのはわかった。


「どうなってるの?」

「あの人、チャージが足りなくて支払いに困ってるのよ。お金は最初にチャージしておけって、入り口に書いてあったじゃない。今更なにをモタモタやってるのよ」


 法子がびしりと言う。囁き声でなく、しっかりした会話のレベルの音量だ。


 悪い人ではないのだが、こういう段取りの悪いことがどうしても許せないのだ。娘の薬子に対しても、よくぴしりと言ってのける。しかし今回の相手は身内ではない。喧嘩にならないかと薬子はひやひやした。


「聞こえるよ。向こうが怒ったらどうするの。お願いだから」


 薬子は法子の腕をつかんでわざとおどけてみせたが、母は憤懣やるかたないといった顔だ。これ以上諌めても逆効果とみた薬子は撤退を決める。


「……列が長くなってもいけないから、私は外で待ってるね」

「そうしてちょうだい」


 駅の出口のところまでやってきて、薬子は足を止めた。流石に出口はがらんとしていて、誰もいない。薬子の視線が下にさがり、自然と口からため息が漏れる。


「全然変わってないわ、あの性格」


 昔からそうなのだ。母が腹を立てるポイントは決まっている。ルールを守らないもの、正しくあろうとしないものに大して、彼女はストレートに怒りを示すのだ。教師や警察官に向いた性格といえるだろう。まさに「法」の字は、彼女の名前にふさわしい。


 ただ、それが怖がられたり、遠慮される一因でもある。一時は生徒に目の敵にされ、だいぶ学校で揉めている時期もあった。その余波が娘の薬子にくることはなかったが、そういう親の評判が聞こえてくるとやっぱり悲しく思ったものだ。


「私のことも、情けないと思うんだろうな……」


 薬子は胸の痛みを感じた。心なしか、呼吸が苦しい。攻撃されることに怯えている自分がいる。娘でも憎んでくるのだと恐れている自分がいる。


 もう結果はよくわかった。このまま打ち明けずに我慢していた方が、いいのではないだろうか。


 言ってから死のうと思っていたのに、それがもう萎えかかっている。そういう根性のない自分が恨めしかった。


「あ、あの人……」


 文句をつけられていた男性が駅を出ていくのを見て、薬子はやっと安堵の息を吐く。誰も怪我をしなくて、本当に良かった。


 そのしばらく後に、法子も戻ってきた。目的を達成したからか、けろっとした顔をしている。


「ねえ、怖くないの? うっかりしてたらひどい目にあうかもよ」

「いいのよ。ああいう人は言われないと分からないんだから」


 淡々と言う母の横顔を見て、薬子は呆れることしかできなかった。親子だが、こういうところはさっぱり分からない。


「さ、早く車に戻って」

「……うん」


 親子を乗せた車が進むうちに、日が地平線へ沈んでいく。




「夕飯、レトルトのハンバーグにしたけどいい?」


 サラダの野菜を洗いながら母が言う。元から期待していないし、正直どうでもよかった。


「いいよ。帰るって決めたの急だったしね」


 薬子はちらりと夕食の準備をする母を見つめた。


「何か手伝うことある?」

「ないわ。完成するまで待ってて」


 薬子は母の言葉に甘え、炊事の音がやむまでテレビを見ていた。


「できたわよ。ご飯は自分でよそってちょうだい」


 呼ばれて見ると、十分すぎる量の食事が、卓の上にずらっと並んでいる。いつもの薬子の食事は一汁一菜だが、この日は五品くらいおかずがあった。食べ切れるだろうか、と逆に心配になる。


「野菜から先に食べなさい。血糖値の急激な上昇を抑えてくれるわ」

「はいはい」


 一度健康診断でひっかかってから、法子は健康管理に極めて厳しい。薬子は、目の前にある山盛りの生野菜に箸をのばした。


「……はあ、お腹いっぱい」


 久しぶりに薬子は、腹がぱつぱつになる感覚を味わった。満腹になって、とろんとした空気が漂う。しかし完全にぼーっとしていては、また法子の叱責が飛んでくるに違いない。


 薬子は気合いを入れて、上体を起こした。自分が使った食器を重ねる。


「食器洗うね」

「自分の分だけ、先に洗ってちょうだい。自分の分はやるわ」


 薬子は息を吐いた。並んで作業しているうちに話してしまおうと思ったが、腰を折られた。


 さほど時間はかからずに食器洗いが終わった。薬子は窓の外を見る。


 外の夜の闇が濃くなってきていた。駅前通りといえどもさびれた田舎のこと、街灯は少なく道は暗く闇に沈んでいる。懐中電灯がなければ、行き交う人の顔もよく見えないだろう。


 薬子が自分の食器を棚にしまっていると、後ろから声がかかった。


「お茶沸かすわよ。緑茶だけどいる?」

「もらう。ありがと」


 この年になって親になにかしてもらうというのは、なんだか妙に照れくさい。


 母は急須に茶を注ぎながら、薬子の前の皿をちらっと見た。彼女の眉間に皺が刻まれるのを見て、薬子は身構える。一気に血液が顔に集まる感覚がした。

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