第36話 回復(リハビリ) 中断、そして絶望
「落ち着いてくださいね。リラックス、リラックス」
エージェントはしきりにそう言うが、緊張するなと言う方が無理だ。職にありつけるかどうかが、この三十分程度のやりとりで決まってしまうのだから。
薬局にはずいぶん多くの人が来ていた。少し暖かくなったとはいえ、今も冬の気温は続いている。皆、寒そうに首をすくめながら室内に駆け込んでいた。
できるだけ目障りにならないように、
しばらく待つと、多かった患者が徐々に減っていった。そこでようやく、薬子たちに声がかかる。
「お待たせしました。薬局長の加藤です」
「
真っ先に動き出した薬局長は、ちらっと薬子を見た。すでに見た目から相手の情報を得ようとしている様子で、隙がない。
前の上司と出くわしてしまったように感じて、薬子は唾を飲み込む。無意識に手が震え始めていた。
「よ、よろしくお願いします」
やや低い声になってしまった。もう少し大きくした方がよかっただろうか。悩んでいると、薬局長が踵を返した。
「こちらへどうぞ」
薬局の奥に、パーテーションで仕切られた相談コーナーがある。薬子たちはそこへ移動した。
薬局長の方は面接に慣れた様子だった。応募がたくさん来ているのかもしれない。エージェントとも顔見知りのようで、二人の間には気安い空気が流れている。カチコチになっているのは薬子だけだった。
「では、必要な書類を拝見しましょうか」
簡単に今までの経歴を説明し、履歴書と職務経歴書が向こうに渡る。薬局長がそれを見た瞬間、顔を歪めた。
――来た。
薬子は目を見開く。どこへいっても、転職歴の多さは必ずつっこまれると思っていた。一通り、辞めた理由を説明する。残業が多すぎた、法で禁止されていたことを強要された、約束されていたはずの人員がいなかった……どれも本当のことだ。今思うと、なんて運の悪い職業人生なのだろう。
しかし恨みをこめて語っては逆効果、あくまでさらりと言うにとどめた。それでも、薬局長は厳しい顔でそれを聞いている。
「……というわけです」
複雑な思いで返答を待っている薬子に、薬局長の低い声がした。
「このご経歴なら、うちよりも大手の方がいいと思いますけどね。店舗が多いから、何かあったら移動ができるでしょう。それでもうちを選んだ理由はなんですか?」
断りの返事に近い回答だ。わかってはいたが、対面で言われるとなかなか心をえぐってくる。
「地域密着した医療で社会に貢献してみたいと、以前から思っておりました。こちらの薬局は患者さんのご相談もよく受けているとお伺いしたので、私も一緒に活動していきたいと思っております」
言い終わった後で、相手の様子をうかがう。雇うつもりになってくれただろうか。
しかし、これはあまりに相手の顔色を伺いすぎていて、薬子の本音ではなかった。本当は地域密着がすごくいいと思ったことがない。正直、知ったことではなかった。医者と国の都合で決まったことのように思えたからだ。
当然、それはあっという間に向こうにも伝わる。
「結構なご意見、ありがとうございます」
語尾に少しぴりつくものを残して、薬局長は会話を打ち切った。風向きは最悪、薬子は戦う気力を完全になくしていた。目尻に涙が浮かび、嗚咽が漏れそうなのをこらえる。
「では、追加で聞きたいことがなければ終了とさせていただきます」
「……ありがとうございました」
薬子はそう言うのが精一杯だった。静まり返った薬局の中、胸に顎がつくほど頭を垂れて出口まで歩く。
「お気をつけて」
挨拶を体に受け、薬子は薬局長に一礼する。無念さを吹っ切ることも出来ず、店を出てしばらくのろのろと歩いた。歩道沿いにベンチがあったので、そこに座るようエージェントが促してきた。
「だいぶ緊張されてましたね」
エージェントはそう言って苦笑した。薬子はわずかにうなずく。こうしてみると二十分ほどの面接だったが、あの時間は永遠のようだった。
「……話になりませんでしたね」
諦め模様になっている薬子に向かって、エージェントは苦笑する。
「あの薬局長はかなり大きなドラッグのチェーンに十年おられて、それから薬局に転向されましたからね。業界の事情を、色々ご存知なんでしょう。助言は、ご厚意だと思いますよ」
そうかもしれない。そして彼女の言うことが正しいのかもしれないが、今の薬子にはありがたくなかった。
「お疲れでしょう。今日はゆっくり休んで下さい。また結果が出たらご連絡します」
「……ありがとうございました」
薬子は歩いて行くエージェントを見送り、止めていた足をのろのろと動かした。実際は家に帰るしかないのに、どこに行ったらいいのか分からないような思いだった。
家に戻ってきた薬子は、スーツを脱いでハンガーに掛ける。どこか今日のことが現実でないような気がして、呆然としていた。全ての気力を失うとは、こういうことをいうのだろう。
改めて今日の面接の問答を思い返してみた。ずっと記憶をたぐっていくと、恥ずかしくて頬がほてってくる。今考えてみればこう言うべきだったと分かるが、その時には何故か気づかなかった。
いつの間にか完全に日が落ちて、夜になっていた。
落ちたことをほぼ確信しつつも、それでも何かあるのではと期待してしまう自分がいる。大丈夫だと言い聞かせるような状況の時は大丈夫ではないのだと、この時の薬子は忘れていた。
数日経って、薬子の携帯が振動した。エージェントからの電話だ。
話しはじめから、エージェントの声が低くなった。
「あの後、薬局長から返答をいただきまして」
薬子は拳を握りしめる。一瞬、どうっと色々な感情が押し寄せて、とっさにうなずくことしかできなかった。電話だから、相手に見えるはずもないのに。
「今回は採用を見送る、という結果になりました」
胸が痛い。わかってはいたが、一番聞きたくなかった言葉だった。もう、自分は求められる立場ではないのだ。
歯ぎしりをこらえる薬子の耳に、エージェントの声の続きが飛び込んできた。
「今後のご活躍をお祈りしております、とのことでした」
やんわりと言われたが、薬子にとって衝撃が大きいのは変わりない。一つの望みが、今完全に絶たれたのだ。自分は結局、第一関門も突破できなかった。
具合が悪くなった気がした。自分で自分が何をしたらいいのか、わからなくなってくる。なんのために毎日のリハビリをしてきたのだろう。自分はこのまま、誰にも必要とされず死ぬしかないのか。黒い絶望と未来予測が、薬子の胸に満ちていく。
「今回はご縁がありませんでしたが、決してこれで終わりではありませんから。お預かりした履歴書を企業に送って、反応を見てみますね」
本当にそう思っているんですか、と薬子は聞きかけてやめた。
「……はい」
「これからもサポートしてまいりますので、よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
世話になったのだから、もっとましなことを言わないと。これからどうしていくか言わないと。そう思うのだが、口が上手くまわらない。
「なに、やってんだろ」
子供のように泣きわめくことができたらどんなに楽だろうか。薬子はあまりに呆然としてしまって、電話を切った後、しばし液晶画面を見つめたまま固まっていた。
やはり薬局長に気に入られなかったのがまずかったのだろうか。とにかく自分の何もかもが許せなかった。
「忘れなきゃ。次にいかなきゃ」
言葉だけではそう言うが、それは薬子の中にちっとも染みこんでこない。
逃げたいとも思わない。むしろ消えてしまいたいという、極端な思考に走っていく。あと一歩で崖から落ちそうなところに、今の薬子の心は限界ぎりぎりで引っかかっていた。
魂が抜けかかったようになっていた薬子の耳に、電話の着信音が飛び込んできた。なんとか床に散らばる物の中からスマホを探し出し、耳に当てる。
「ああ、私。今日は有給って聞いてたから。今、大丈夫?」
「うん。何の用?」
電話は母からだった。それから近況報告の他愛もない会話が続いた。薬子は泣きそうになるのをなんとかこらえる。
「なに、声が聞こえにくいんだけど、どうしたの?」
「……ごめん、ちょっと鼻風邪ぎみでさ」
薬子は壁にもたれて天井を見上げ、なんとかまともに聞こえるように声を絞り出した。
「あんた、長くは無理でも少しは帰ってこられない? 荷物の整理をしてほしいんだけど。土曜の休みがあれば一泊して帰れるでしょう」
薬子の胸の鼓動が激しくなる。いっそ帰って、母に何もかも打ち明けてしまおうか。それでボロカスに批判されれば、自分の人生に幕を引く覚悟もできるかもしれない。
「……そうだね。今度の土曜日、たまたま休みなんだ。その時にでも、いい?」
とうとう言った瞬間、薬子の中で何かが開放されたような気がした。欠けた心から、最後のプライドがこぼれ落ちようとしている。
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