8-3
大家さんの家を出て、アパートに戻る。鍵を回し、玄関で靴を脱いでいると足音が聞こえた。こっちに向かって走って来る、小さな足音だ。
「お帰りなさいませ、主様!」
嬉しそうににっこりと笑うのは、紫色の着物を着た黒髪が美しい幼女だ。
「お前、何で?」
菫は、八巡神社に祀られている神様のはずだ。つまり菫の居場所は、八巡神社の本殿であるべきだ。そこを抜け出して、こんなところにいて良い存在ではない。
「今、説明させて頂きますね」
菫は愛らしく小首を傾げて見せる。椿は本当にわがままな子供といった印象だったが、菫には妙な艶がある。話し方も、拙かった椿よりもはっきりしている。よく出来た幼稚園児といったところだろうか。俺がとりあえず机の前に座ると、菫は俺と向かい合うようにして腰を下ろした。
「結論から言うと、私と椿の立場は入れ替わりました」
そう言い切った菫に、俺は「入れ替わり?」とおうむ返しするしかなかった。それに対して、菫は「はい」と頷いた。
「椿は巡行神として八巡神社の本殿にいて、私がここの座敷童になりました」
「じゃあ、八巡神社に行けば、椿に会えるんだな?」
俺が立ち上がろうとすると、菫は俺の足にしがみついた。
「会えません! 今主様に会ったら、本当に彼女は消えてしまいますよ!」
「何だよ、それ? どういうことだ?」
「ですから、私の話を聞いて下さいと言ってるじゃないですか!」
俺はついに観念して、菫の話を最後まで聞くことにした。その場に崩れ落ちるように座ると、菫も俺の傍に座った。
「福の神と貧乏神の昔話を知っていますか?」
俺は力なくうなずく。一番有名なのは、貧乏神が福の神や財産に変身する物語だろう。ある日、貧乏神が汚い身なりの老人となり、裕福な家を訪ねる。しかし、裕福な家の人々は老人を泊めるのを断る。次に老人が宿を求めて訪れたのは、貧しい家だった。貧しい家の者は、この老人に宿を貸すことを承諾する。すると翌日、貧乏神が福の神となって、泊めてくれた家に金銀財宝を授けて、家を守ってくれるようになるというものだ。この昔話にも、他の昔話同様に、多くの別バージョンが存在するが、俺が知っているのはこの話だ。この昔話を思い出すと、いくつか椿と菫に重なる部分があることに気付く。貧乏神は柳だが、それを考慮せずに置き換えると、椿と菫の立場そのものだった。良くない神様が、宿を得ることによって、良い神様に変身する。つまり、菫は宿を得ることによって、座敷童になった。一方の椿は宿を失ったから悪い神様として、神社に追いやられた。俺は八巡神社の神様は、偉い神様だとしか聞いていないが、菫は巡行神と言った。巡行神が悪い神様だったら、この立場の入れ替わりは、成立するということか。巡行。つまりその字の通り、歩き回って行く神様だ。一体何の神様だったのだろう。
「巡行神は、天然痘の神様です」
「て、天然痘って、今は克服された病気じゃないか」
「でも、昔はそうではなかった」
「伝染病だったから、巡行神?」
「はい。その通りです」
日本では昔から、生きている人間に仇なす存在を神様として崇めることによって、その存在を良いモノに転じるようにしてきた。御霊などがその代表格だろう。そして御霊とされたのは、人間の荒魂だけではなく、疫病もその範疇だった。つまり、この八巡市で天然痘が猛威を振るい、人々が感染して死んでいった。そこで、天然痘の神である巡行神を、偉い神様として、神社に祀ったのだ。菫の話を信じれば、これが本当の八巡神社の起源であり、八巡市の名前の由来だ。八というのは数字の八ではなく、数が多いと言うことを表す神聖数だ。
「今、八巡神社の本殿では、椿が人々の信仰によって存在を何とか保っています」
「じゃあ、俺は近づけないんだな」
「残念ながら」
不幸体質の俺が、存在が曖昧になっている椿に近付けば、椿は今度こそ本当に消えてしまうかもしれない。つまり、椿が八巡神社に訪れる人々の信仰心によって、力を補充できれば、椿は巡行神として存在できるというわけだ。何だ、全部俺のせいじゃないか。おそらく、決定づけたのは、俺が菫の名前を呼んだからだろう。あれほど椿に、誰にも名前を与えてはならないと約束したのに。
「ですからお願いです、主様。私と一緒にいて下さい」
菫は俺の手を両手に包み、瞳に涙をたたえて言った。
「主様のためなら何でもします。もう、一人は嫌なんです」
寂しがり屋なところは、椿と一緒だな、と思う。人間はどんなに豪華な部屋を与えられても、そこが檻の中だと知ったら逃げ出したくなるという。八巡神社の本殿は神々にとって、まさに豪華な檻なのだ。普段は誰も開けてくれはしない本殿の中で、誰とも合わず、もちろん話をすることもなく、ただただ人の願いを聞くだけの日々。眠ろうにも、鈴が鳴らされれば、強制的に願い事を聞かなければならない。そんな日々を、暗くて古い本殿の中で一人で過ごす。それはまるで拷問だ。椿が座敷童として存在していた間、菫はその拷問に耐えてきた。それは分かる。しかし、だからと言って、現在進行形でその拷問を椿が受けなければならないのは、納得ができない。
「ごめん、菫。俺はやっぱり椿を見捨てられないよ」
俺は縋りつく菫を引きはがした。菫の大きな瞳からは、涙がこぼれた。
「お互いに、勘違いをしているんだよ、菫」
「かん、ち、がい……?」
「そう。菫が主にしたかったのは、俺じゃないだろ?」
「そんな、違います! 主様は私の主様です! だって、私はずっと主様を守ってきました。私は八巡神社に入る前まで、主様の守護神だったんですから、間違えるなんてあり得ません! 主様だって、私の夢告を受け取ったはずです!」
俺はゆるゆると首を振った。俺はこれから残酷なことを、菫に言わなければならない。それはとても残念なことだが、必然と偶然が重なっているならば、俺は責任を持って言ってやるべきなのだろう。
「確かに俺には記憶も曖昧な頃に、守ってくれた女の子がいたよ。でも、その子の名前は菫じゃない。すみれちゃんだったんだ」
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