六章 八巡神社

6-1

 大学の夏休みが終わるのは、九月だ。つまり夏休みを満喫している間に、二か月も季節が進んでしまうのだ。俺は現在、ジレンマに陥っていた。引っ越しのために新しいアルバイトを探していたが、チューターとの兼ね合いがつくアルバイトが見つからなかったのだ。しかも、座敷童と主があまり離れていても、良くないということで、なかなか家を空けられない。椿は一緒にいることを喜んでくれているため、引っ越すことを言い出せずにいた。しかし、俺がこの部屋の主でいる限り、椿の存在を蝕んでしまう。どうしたらいいものか。


「イツキ、ヤーの話聞いてるの?」


「あ、ちょっと考え事してて」


 金髪ツインテイル美少女であるマリア先輩は、夏休みを利用して母国に帰り、調査をして再来日した。今日はその調査報告のレジメのチェックが俺の仕事だ。場所はもちろん、竹内研究室だ。竹内先生曰く、マリア先輩の話は脱線しやすいから、目の届くところでレジメの直しをしてほしいとのことだ。確かにマリア先輩の頭の中には、間違った日本がうようよしている。それにしても、頬を膨らませたマリア先輩も、かわいい。小柄だからキレイというよりも、この言葉が似合ってしまう。ちょっと失礼かもしれないが、小動物系の可愛らしさと言えばいいだろうか。


 竹内先生は、恐ろしいくらいの集中力で文献を見ながら高速でタイピングしていたが、俺とマリア先輩のやり取りを耳にして、くるりとキャスター付きの椅子を半回転させた。


「何か悩みでもあるのか?」


 竹内先生が俺の方を見やって、そう声をかける。怒られるとばかり思っていたのに、心配させてしまったようだ。俺は引っ越しを考えなければならなくなったことや、その費用がなくて困っていることを、竹内先生に打ち明けた。苦学生の中には奨学金を得ている人や、アルバイトをいくつも掛け持ちしながら大学に来ている人がいることを、俺ももちろん知っている。チューターの時給は良いが、それでも足りないなら、俺もそうするべきだろう。しかし、利息が付かない奨学金は、のっぴきならない事情がない限り支給されない。例え利子付きの奨学金に申し込んだとしても、親の年収が良ければ支給されないだろう。まさか不幸体質なので奨学金が欲しいなんて言ったら、担当の人から鬼の形相で追い返されるに決まっている。だからといって、俺がアルバイトに入ると余計な仕事を増やしてしまう。ちなみに、夏休み中に短期で入ったアルバイト先では、高価な皿を割ってクビになったばかりだ。竹内先生は顎に手をし添えて、首を捻った。


「君、冬は時間が取れるか?」

「後期は割と空いてます」


 大学の日程は、夏休み前の前期と、夏休み後の後期に分かれている。一年生はまだ力の抜きどころが分からず、前期で取れるだけ単位を取っておこうと必死になる。その結果、レポートやテストが重なって、夏休み前は地獄を見る羽目になるのだが、その分後期には余裕が出てくるということだ。俺の場合、それもあったが、保険をかけていたことが大きい。俺のことだから、周りと同じように過ごしていたら、きっとどこかでへまをして、取得できない単位が出てくるだろうと踏んでいた。だから、後で地獄を見ることは分かっていたが、可能な限りの講義に出ていた。もちろん、いくつかの単位を落とすことが織り込み済みだった。しかし、今回に限って、全ての単位が取れてしまった。テストもレポートも、何一つ落ちなかったのだ。こんなことは、今までの不幸体質な俺では考えられない奇跡だった。まあ、これもそれも、実は椿がいてくれたからだったのだが。


「冬にある集中講義に、手伝いを募集する予定だったのだが、君はどうかな?」


「手伝い? 普通は院生がやるんじゃ……?」


 院生の手伝いをTAという。ティーチングアシストの略で、先生方の秘書的な役割を負いながら、自分の研究も兼ねる。例えばこの八巡神社での実地研修ならば、参加する学生の管理や、あらかじめ調査対象へのアポイントを取ることなどが挙げられる。参加する学生の名前やメールアドレスによって、事前学習会の日程を伝えたり、物損事故などに対応するため格安の保険に入ってもらったりする。調査対象へのアポイントの取り方は、院生のフィールドワークのための貴重な経験となる。院生となれば、手取り足取りとはいかない。見て、経験を積んで、後輩を指導しながら、全てを吸収して自分の研究に生かすのだ。そんな貴重な経験を、一年の俺などが横取りしていいものなのか。現在、竹内先生の院生はマリア先輩一人だ。そうなれば本来ならば、マリア先輩の仕事になるはずだ。俺の出る幕ではない。そんな俺の考えを見越したように、竹内先生は鼻を鳴らしてから言った。


「心配はいらない。マリアと君、二人で一人前だよ」


 竹内先生の容赦ない言葉が、俺の心に突き刺さるが、マリア先輩は何故か嬉しそうだ。


「ヤーとイツキ、二人で一つだって」


「いや、それは、違うかと……」


 日常的に困らないくらいに日本語ができる人なのに、どうして重要な部分だけ間違った認識に至るのか。しかも、ちょっと恥ずかしい方向に間違えている。これはもはや、わざととしか言いようがない。しかし、先輩に激しいツッコミを入れられるわけもなく、俺は丁寧にその恥ずかしい誤解を解くのだった。


「半人前ってことです。一人では力不足とも言うかもしれません」

「ああ。なるほど。二人なら大丈夫ってことですね。ありがとうございます」

「どういたしまして」


俺の説明はどこ吹く風。マリア先輩は引き続き勘違いをしたまま、竹内先生に頭を下げ、先生も先生で、片手を軽く上げて応える。


「先生、面倒くさがってますよね? そしてそれを俺に押し付けてますよね?」


「まあ、そう言うことだから。明日、神社に実地調査の打ち合わせに行くから、授業後はあけておいてくれ」

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