第一〇三編 初めてのバレンタイン
バレンタインデーに際し、恋する乙女たちの前には数多くの困難が待ち構えている。好きな人の口に合うお菓子の選定。そのお菓子を美味しく作るためのレシピ探し。材料を買い集めて道具を用意し、いざ調理を始めてみたら勝手が分からず四苦八苦。特にまだ学生の時分、ろくに家庭料理も習得していない少女たちにとって、「お菓子を手作りする」という工程は世間的なイメージよりも存外ハードルが高かったりするものだ。
そんな高い壁を乗り越え、可愛い
――とはいかない。
むしろここからがバレンタインデーの本番。恋する乙女にとって最大の難関。
大好きなあの人へ、プレゼントに乗せた好意を贈る。半ば告白じみた行為を
「む……無理ぃ……!?」
「アンタねえ……」
二月一四日の朝。
「ここまで来て今さらなに弱気になってんのよ。ほら、さっさと立って渡してきなさい」
「無理だよおっ!? だって見て!? 久世くんのまわり、女の子でいっぱいだよ!? あの机に積まれてる箱、きっと全部バレンタインチョコだよ!? あんなに甘いものばっかり食べたら久世くん、糖尿病で死んじゃうよ!?」
「アンタが渡すのは甘さ控えめなキャンディーだから大丈夫でしょ」
「ああっ、こんなことならキャンディーよりもっと甘さ控えめなもの……唐揚げとかにしておけばよかった……!」
「バレンタインに唐揚げ持ってくる女とか
半眼でツッコミを
「(久世くんがモテるのは今さらだけど……つくづく厄介な男に惚れたな、
桃華と同様、学園の王子様に心を奪われた
「(力を貸してあげたくても、こればっかりは
誰かの力を借りて渡したって、なんの意味もない。
誰かが手助けする余地などない。
「もう、休み時間に机の中にこっそり
「…………」
戦意を喪失した様子の桃華に、やよいは小言も返さなかった。
★
「はあ……ダメだな、私……」
放課後の通学路を歩きながら、桃華は一人落ち込んだ呟きを落とす。
結局、真太郎にキャンディーを渡すことは出来なかった。机の中に
「(やよいちゃんにあんなに手伝ってもらったのに……)」
心中に波紋を生じさせるのは自分に対する嫌悪感。自分一人の力で、誰の手も借りずにここまで来たのならまだいい。だが大切な親友が夜遅くまで付き合ってくれたのに、こんな情けない結果に終わってしまったという現実が、より強い自己嫌悪となって桃華を
「(このあとはバイト……久世くんに渡せるチャンスはたぶんこれが最後、だけど)」
バレンタインデー当日の今日、〝
「(お店に
そんな桃華の予想は的中した。
カップルや女性客で
もちろん桃華や真太郎もいつも以上の真剣さで仕事をこなした。とてもではないが、途中で抜け出して真太郎にキャンディーを渡す暇などない。平日である今日は夕方からの勤務なので休憩時間もなく、ようやく客足が落ち着き始めても今度は補充や清掃業務に追われる。「CROSED」の札が入口に掲げられた時には、全従業員がぐったりした様子で事務所に集まっていた。
「うげえー……疲れたー……」
「クリスマスのときも思ったけれど、バレンタインの限定商品もすごい売れ行きだったね……」
「あの人、パティシエとしての
「あれ……こんな死ぬ思いで働いたのに、あんまり稼げてなくね……!?」
「――ってなってる」
「経営者としてはダメすぎる」
「あ、あはは……」
机に突っ伏す悠真、その隣で苦笑いする真太郎、PC前で頭を抱える一色を横目に慣れた様子で語る大学生アルバイトの
そんな男性陣の陰で帰り支度を整える桃華は、
「(悠真と新庄さんたちがいる前で渡すのは恥ずかしいし、久世くんとは帰る方向も違うから……やっぱり、もう渡せそうにないな)」
「桃華ちゃん? なんか元気ねえけど、疲れた?」
「! あ、いえっ!? だ、大丈夫です!」
なにかと気が付く先輩バイトの青年に声を掛けられ、桃華は咄嗟にそう返す。幸いなことに新庄も「そうか? ならいいけど」と深くは追及してこなかった。
「でもお前ら、もうそろそろ帰れよ。明日も学校だろ」
「はい、そうですね」
「そういう新庄さんだって、明日も普通に大学あるんじゃないんスか?」
「馬鹿言え、悠真。今日こんなクタクタになるまで働いたんだから、明日は
「し、新庄さん……」
「そんなだから、せっかくクリスマスにヨリ戻した彼女にまたフラれるんスよ」
「カハッ!? ゆ、悠真……最近お前、人の心を
「
「よく分かんねえけど
事務作業をする一色と心に傷を負った新庄の二人を残し、桃華たち三人は裏口から〝
「…………」
先を歩く真太郎たちの話し声が意識の外を流れていくなか、桃華は無言で鞄の肩紐をきゅっと握った。しかし中からキャンディーを取り出し、想い人に手渡す度胸はやっぱりなくて。
初恋に落ちて四ヶ月、初めてのバレンタインデー。恋愛の駆け引きなどなに一つ習得していない未熟な少女にとって、やはり最後の
いっそのこと、義理っぽくチョコレートを贈るほうがまだハードルは低かったかもしれない。それなら「いつもお世話になってるから」という言い訳も出来るから。
「(でも……)」
「――……あっ、やべっ!?」
「? どうかしたのかい、小野くん?」
路地を抜けた瞬間に、幼馴染みの少年が声を上げた。
「事務所に忘れもんしてきた! ちょっと取ってくる! 二人とも、また明日な!」
「ええっ? ゆ、悠真っ?」
「う、うん、お疲れ様……」
喫茶店へと戻っていく少年の背中を、真太郎と並んでぽかんと見送る。今日は悠真も学校帰りに直接出勤してきたはずなのだが、なにか大切なものを持ってきていたのだろうか。
「えっと……じゃあ
「うえっ!? い、いいよいいよっ! そんなの久世くんに悪いし、私は悠真を待ってればいいから!?」
真太郎の申し出を反射的に断ってから、桃華は「……あっ!?」と後悔する。しまった、せっかく二人きりになれるチャンスだったのに。だが時既に遅し、真太郎は「そっか、それもそうだね」と一人で納得してしまっている。
「(あうう、やっちゃった……最後のチャンスを……)」
そう思いかけて、桃華は首を左右に振った。
「(……ちがう。まだ……まだ、最後のチャンスは残ってる)」
〝今〟が。
二月一四日――バレンタインのラストチャンスだ。
「あ……あのっ、久世くん」
「ん?」
数回ほど口をパクパクさせてから、桃華は意を決して言った。
「その、あの、えっと……これ、良かったら」
「お菓子の包み……あっ、もしかしてバレンタインデーの?」
「は、はい」
さしもの鈍感少年も、あれだけ大量のチョコレートを贈られたあとなら簡単に察せてしまうらしい。
耳まで真っ赤になった顔を
「な、中身、フルーツキャンディーなんだ」
「フルーツキャンディー?」
「久世くん、甘いものそんなに好きじゃないって聞いて……これなら食べやすいかなと思って」
スライスした果物の表面に、極薄の飴衣を
「ちゃんと水気を切るのがちょっと難しかったけど……それは上手く出来たと思うんだ」
「え? これ、もしかして手作りしたのかい?」
「う、うん」
「すごいね……お店で買ったものかと思ったよ」
包んである飴を一粒取り出し、真太郎は街灯に
「――桐山さん。せっかくだから、今ここで食べてみてもいいかい?」
「ふぇっ? あっ……ど、どうぞ。久世くんのお口に合うかどうか、分からないけど……」
思わず保険をかけてしまう少女をよそに、真太郎は
「……ん! すごく美味しいよ、桐山さん!」
「ほんとっ!?」
笑顔で言った真太郎に、桃華がパッと表情を明るくする。
「桐山さんの言う通り、実は甘いものはあまり得意じゃないんだけれど……これならたしかに食べやすいね」
「そ、そうかな?」
「うん。見た目もとっても華やかで綺麗だし……作るの、大変だったんじゃないかい?」
「それほどでも……えへへ」
好きな人に真正面から褒められてしまい、ふにゃりと照れ笑いを浮かべる桃華。
本当は調理の際に何度も失敗したし、やよいからダメ出しを受けたりもした。真太郎の手に渡ったのは、何度も試作するなかで生まれた上澄みにすぎない。今も自宅の冷蔵庫には、処理し切れていない失敗作たちが眠っている。
「(でも――大変だったけど、頑張ってよかった)」
好きな人の笑顔を見上げながら、桃華はただ素直にそう思う。
彼女にとって初めてのバレンタインデーは、どうにか無事に成功を収めた。
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