雪中松柏

 ごとりと荷台が揺れ、儂は目を覚ました。青幕の中で寝入っていたらしい。

 顔を出すと、車は開けた場所で止まっていた。黒く塗られた地面に白線が引かれ、他に何台かいる車たちは線の囲いの中に行儀よく並んでいる。横には石の箱のような建物があり、硝子張りの入口の上に「釜崎葬祭センター」の白文字が見えた。

 動く車がないことを確かめ、飛び降りる。猫のしなやかな身体は、幸いにも痛み一つなく着地してくれた。入口へ向かえば、傍らに確かに「故白神健一郎儀 式場」の立看板があった。

 だが肝心の、健さんの気配がない。通夜祭で遷霊の儀が行われるまで、魂は身体の周りを漂っているはずなのだが……そういえば通夜祭は十八時からだったか。今、陽はまだ高い。

 儂は、しばし周りを散策して時間を潰すことにした。




 道に沿って少々歩けば、大通りに出た。雑多な商店が道の両脇に並び、上には半円状の透明な屋根が架かっている。吊られた大看板には「釜崎西通り商店街」と丸みある文字で書かれており、マスクと厚い上着を着けた大勢の人々が下を行き交っていた。

 不意に、香ばしい匂いがした。見れば、通りの入口の店が鶏を揚げている。


「クリスマスチキン当日販売分 五本入1350円 十本入2700円 なくなり次第終了」


 きつね色の肉が次々と赤い箱に詰められ、多くの若い客――ここでの「若い」人々は、本当に若い二十代や三十代だ――に渡されていく。猫の身ゆえか、濃厚な肉の香りに抗いがたい誘惑を感じる。

 長居は危なそうだ。儂は商店街の中を散策することにした。




 商店街には様々な店があった。食堂や服屋は言うに及ばず、菓子屋、花屋、化粧品屋……そして一軒の例外もなく、入口に同じ飾りを掲げている。


「Merry Christmas 2021 西通りのクリスマス」


 そう赤地に金文字で書かれ、左上にはひいらぎの葉と金の鐘の絵がある。下の空欄には、店の名が手書きされている。

 クリスマス。入口の店もそんな名の揚げ鶏を売っていた。

 気付いてみれば、随所にクリスマスと名の付く品が並んでいる。菓子屋はクリスマスケーキ、化粧品屋はクリスマスコフレ、などと名付けた何かを売っているし、クリスマスクーポンとやらを出している店もある。商売繁盛の願掛けの類だろうか。

 いぶかるうち、商店街の終わりまで歩いてしまった。ゆっくり散策したおかげか、陽はだいぶ西に傾いてきた。とはいえ冬至の翌々日、十八時までにはまだあるはずだ。儂は、もう少し足を延ばしてみることにした。




 商店街出口から少し歩くと、一群の露店があった。入口の立看板に「釜崎紺屋町聖教会クリスマスバザー」とある。揚げ鶏とはまた違う旨味の匂いに引き寄せられてみると、服や雑貨が並ぶ机の奥で、黒服の若い娘たちが豚汁を大鍋からよそっていた。湯気と共に漂う旨味が、猫の敏感な鼻には毒だ。隙間を空けて並ぶ客に、娘たちは一椀の汁と一枚の紙を差し出す。


「ありがとうございます。よろしければクリスマス礼拝にもお越しくださいね」


 クリスマスとは何かを拝むものなのか。大鍋の脇、簡素な椅子に積まれた紙を覗く。


「釜崎紺屋町聖教会 クリスマス&イブ礼拝のご案内 今年のクリスマスは教会で過ごしてみませんか? クリスチャンでない方もご参列いただけます。イブの礼拝後にはケーキの用意もございます。イエス・キリストのご生誕日を皆様でお祝いいたしましょう。 日時~」


 そこから先が、頭に入らない。

 紙面には大きく、忘れられない忌まわしき印――キリシタンのクルスの紋が描かれていた。


「あら。猫ちゃんもお祈りしたい?」


 一人の娘が儂の前に屈み込む。


「聖なる日に、猫ちゃんにも主のお恵みがありますように」


 娘が胸の前で手を動かす。かつて島原で見た一揆衆と同じ、十字の形に。

 かっと、頭の芯が熱くなった。


「きゃ!」


 娘が小さく叫ぶ。気付けば、殴りつけていた……猫の手で。

 後ずさる娘を、さらに引っ掻こうとして思いとどまった。


「どうされました?」

「野良猫を見ていたら、急に――」


 娘たちのざわめきを背に、儂はその場を駆け去った。



 ◆  ◇  ◆



 こつ、と足元に小石が跳ねた。

 振り向けば、歳の頃十二、三ほどのわらわが幾人か、柱の陰でこちらを窺っている。

 ぱらぱらと石が飛んでくる。だが骨の浮いた腕では、まともに飛ぶのは半分ほどだ。残り半分も狙いは逸れ、臑当すねあてを叩くのはひとつかふたつ。

 儂は刀を握り直した。彼奴らは降伏の求めに応えぬ。わかっている。

 大股に歩み寄れば、いたのは四人だった。男児二人、女児一人、母と思しき女一人。石を投げ続ける男児たちを、母が肉のない手で招き寄せる。

 全員が静かに手を合わせた。母の手が十字の印を切った。

 こうなればどうにもならぬ。

 親と子、いずれを先に討つのが、まだしも慈悲があるといえるか。はじめの頃はそんなことも考えた。もはや意味はない。これほどに殺し続けたなら。

 袈裟懸けに四人、斬り捨てた。親と子は、わずかに声を上げただけで地に転がった。

 母親の懐に、鉛玉を熔かし合わせて作った、いびつなクルスが見えた。

 これさえなければ。

 この者たちが正気でさえあれば。

 せめて命乞いさえしてくれれば。死を喜ぶ狂気に囚われてさえいなければ。

 また足元に石が跳ねる。総数三万七千の一揆勢は、いくら殺せど尽きることがない。

 儂は、石の飛んできた方を振り返った。



 ◆  ◇  ◆



 街が、沈みかけた陽の色に染まっている。道や石壁の色は、まるで炎か血だ。

 関ヶ原、大坂冬の陣夏の陣。いずれよりも島原の一揆はこたえる戦いだった。

 蜂起の原因は悪政と重税であり、一揆勢すべてがキリシタンでなかったことは知っている。だがそれでも、あの宗門さえ関わっていなければ、多くの者は救えたのではないかと今でも思う。

 一揆鎮圧後、儂は主君に誓った。釜崎の地を悪しき習俗から守り抜くと。松柏が雪中でも緑を失わぬように、いかなる厳しい時代でも人々の模範となると。

 死後、藩士たちが儂を神社に祀ったのも、そのためなのやもしれなかった。


 空を見れば、たなびく雲が赤く燃えている。

 七十数年前、社が燃えた夜のことが思い起こされた。空から降る炎で、釜崎の街は焼き尽くされた。あれは敵国の――キリシタンの神を奉ずる者たちの――戦闘機だったと聞く。


 頭を振り、儂は西通り商店街へと向かった。通夜の時間も近づいている、そろそろ葬祭センターに戻らねば。

 すべての店が掲げる「西通りのクリスマス」の札を、儂は見ないように歩いた。なぜ皆がキリシタンの祭りを祝うのか。わからないが、わかりたくもない。

 商店街の半ばあたりに人だかりができていた。見れば人垣の中に、奇妙な赤服をまとった老人がいた。いや、本物の老人ではなく、老人の仮装をした中年男だった。

 赤服に白の縁飾り。口元は、不自然に豊かな人造のあごひげで覆われている。胸まで届く純白が、あの日の健さんの髪色に重なる。


「それでは良い子の皆さん、サンタさんからクリスマスプレゼントです! 間隔を空けて二列で並んでくださいね」


 傍らの娘が言えば、偽老人は大袋から菓子の小箱を取り出し、居並ぶ子らに渡しはじめた。受け取った者の笑顔が、マスク越しでさえはっきりわかる。

 すべてを叩き壊したい衝動に駆られる。大袋を裂き、偽老人を殴り、子らを「クリスマス」のない所へ逃がしたかった。猫の身でさえ、なければ。


 地面だけを見ながら、商店街を駆け抜けた。

 入口を抜け、揚げ鶏の匂いもしないほど遠くへ逃れたところで、儂は鳴いた。ぶにゃああ、と濁った声が、奇妙に虚しかった。

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