狂犬公、またの名を血まみれ騎士
浅羽 信幸
第1話 ジュネウン・ノリスの戦い
静寂が訪れた。
そうだ。人間だ。死にもする。死なない方がおかしい。これまで先頭を走っていながら矢にも槍にも剣にも当たらなかったのは、運が良かっただけだ。いや違う。あたってきた。死ななかっただけだ。
男は、手を止め足を止め、後ろで旗を持って倒れている男、ヴィオルヌ・ベルナールを見た。
文字通りの旗頭だ。
窮地にあるランティッドに久方ぶりの勝利をもたらした男。小さな勝利だとか局地戦にすぎないとか言われてもいるが、勝利は勝利だ。騎士の遺物を漁り、女を食い物にし、邪魔な男はさっさと殺す。それがテレネレ兵だ。おそろしやおそろしや。彼らは統治などするつもりが無い侵攻から開始したのである。
ああ終わった。これでまた悪魔が暴れ出す。
神よ。おお神よ。
そう祈る男の足は棒にも関わらず攻撃が当たらないのは男も気が付かない神の恩寵か。
そんな男の目に、鉄紺のマントが映った。
ああ憎し。あの男は急に現れて、我らが女神を奪って行った。ほら。今もその女神が隣にいるでは無いか。倒れた兄を心配して、あの男を連れてきたでは無いか。
戦場で完全に足を止めてしまった男は、手だけが動いた。動いた先は自分の鎧。
男は騎士では無い。多くいる傭兵でも無い。いや、傭兵ではある。行き先を失ったからこそ、金欲しさで入ったのだ。ヴィオルヌとかいうおかしな男と出会う前は戦後の略奪が目的の一つでもあったが、まったく達成できなかった。ランティッドについたのが間違いなのだが、かと言って敵であるテレネレには行きたくもない。だからついたのだが、負け続きの側にそこまでの金を払う余裕もない。だから男の鎧はほぼ革だ。しかも傷だらけ。鎧があるだけマシなのは分かっているが、恨み言を言わずにはいられないのである。
その補修を行ってくれたのは、鉄紺のマントの男だ。
いけすかない野郎だった。
顔は良いし、貴族らしい。もちろん、本人は違うと、周りも違うと言っているが生まれが貴族ならば貴族だ。自分とは違う暮らしをしている。
貴族とは好き勝手にする輩だ。だから嫌いだ。そうは思うものの、あの男の腕が確かなのは事実。材料さえ用意すれば金を払わずとも鎧や衣服、靴の補修をしてくれるし、傷口も塞いでくれる。だから、今回も我らが旗頭を直してくれるだろう。
いやいや。
その前にあの男が前に出ればよかったのではないか。
大元帥まで上り詰めたことのある男の騎士団で三番目に強いんだろ。
男の心は、棒立ちの体と違ってせわしない。
そうだ。あの男が、閣下とか呼ばれている奴らと共に出てきてくれれば違ったんだ。
男にとって、何故それが出来なかったのかなどは関係ない。知らない。ただただ恨みを申し上げるだけ。
そんな男の耳にも、敵の門が開く音は聞こえた。
顔が動いたのは本能か。これでも戦場を生き抜いてきたからか。
良く見れば味方の攻撃がほぼ止まっていた。だから、門が開いた。突撃で振り払うために。
そうだろう。そうだろう。
ほら見ろ。立派な鎧じゃないか。あれが騎士様だ。マントなんか羽織って、着飾っている。
その上持つのは槍だ。馬に乗って突撃してくる者は結局少ないが、降りたところで男の革の鎧と騎士の金属の鎧では勝負にならない。
俺は死ぬ。奴は生き残る。
それが戦場での定め。
「ああ」
と誰かが情けない声を出した。
誰かが後ろを向くのが見える。転んだのか。顔は泥だらけ。手足はばたついて醜い。完全に背を向けたその男に矢が刺さった。悲鳴が上がる。死にたくないとも叫び、哀れな男は涙と鼻水で顔を完全に汚しながらハリネズミに変わっていく。
「とつげぃくぇ」
威勢の良い声が、間延びした声に変わった。
何で? いや、分かる。
街から出てきた男の顔に、顔面を潰すには十分な大きさの手斧が突き刺さったからだ。
ゆっくりと棒立ちの男の顔が動いた。
こちらの騎士、鉄紺の騎士の腰にあった手斧が一本無くなっている。
無慈悲にももう一本手に取り、騎士が投げた。避けようとする敵騎士たちが互いに衝突し、馬から落ちた。無慈悲にも手斧は別の騎士の鎧に突き刺さり、その騎士が受け身も取れずに落下する。嫌な音もなった。
嫌な男だ、とも思う。
あっという間に門から出てきた敵を恐怖に陥れた騎士は、百戦錬磨の笑みで我らが女神に心配無用だと伝えている。我らが神に付き添うように言っている。
その上で剣を手に、歩きながら抜いているのだ。
敵の矢も飛んでこない。
完全に鉄紺のマントに気を取られている。
「前アルデュイナ公が子にして閣下の百番弟子、クリュスエル・エーアリヒ」
ああ、と呟いた後、騎士が良く聞き取れない言葉で何かを言った。だが、「アルデュイナ」「クリュスエル・エーアリヒ」と聞き取れたので、おそらくテレネレの言葉で名乗ったのだろう。
は、これだから貴族は。
やっぱり気に食わない。俺の知らない世界だ。
そして、何かを名乗って敵からも男が馬から降りて向かってくる。
が、犬歯を見せた凶暴な笑みの後、鉄紺の騎士に蹴られ、のけぞったところを簡単に叩き割られて終わった。
見ろよ。
こんな戦いができるなら、さっさと前に来いよ。そしたら俺らの旗頭が死ぬことも無かったのに。
すっかり動くようになった足で、男は近くの小石を蹴っ飛ばした。
「何をしている?」
そんな男に、奇跡の声が届く。
硬くなりすぎた粉ひきのように、男の首が動いた。そこでは、石に当たって倒れていたはずの我らが旗頭が起き上がっている。
頭から流れているのは血。
体からあふれているのは決意。
開かれたのは、勇壮なるその口だ。
「どうして此処に集まっている? 行くべき場所は此処ではない。あの砦の中だ」
ただの声である。
が、不思議と腹の奥底から熱が湧きあがってくるような何かがその言葉にはあった。
すぐに周囲が沸き立ち、再び砦へと駆けて行く。
我らが旗頭もすっくと立ちあがり、砦へと、我先にと梯子を登り始めた。
「おおおお!」
男も叫び、鉄紺の騎士を追い抜いた。
敵の騎士? 知らん。そこらへんで馬が驚き、上の荷物を振り落としている。その荷物はただ踏まれていくだけ。他人の体重と、鎧の重さで潰れていくだけ。
こうして、ジェネウン・ノリスの戦いは幕を閉じた。
ランティッドの勝利。テレネレの負け。
この戦争で当たり前に続いていたテレネレの優勢は、もはや完全に砕けたと言っても差し支えなかった。
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