8.知っていた男

 翌朝の警視庁捜査一課。

 高千穂は椅子の背もたれに沈み込んで、天井を眺めていた。口には火のついていないタバコが咥えられている。

 彼女が動かないと、自分もすることがない松実。空気に耐えかねて話し掛ける。


「タバコ吸いたいんなら喫煙所行ったらどうですか?」

「んー……」

「……行き詰ってますか」

「んー」


 困った松実は、高千穂のデスクで放置されているバタフライピーを見つけた。


「そうだ! お茶でも飲んでリフレッシュしましょうか!」

「んー」


 んーしか言わないマシーンになってるな。


 彼は苦笑しながらケトルのお湯を急須に注ぐと、


「あれー!?」

「んー?」

「お茶淹れたんですけど……」


 急須を持ってきて高千穂の眼前に差し出す。彼女も横目で中をチラッと覗く。


「何これ青い。君さぁ、何淹れたの」

「バタフライピーです! 」

「あぁあの真藤さんがくれたやつ」

「そうですそうです! でもこれ偽物だぁ。紫色じゃない」

「みたいだねぇ……ん?」


 急に高千穂がガバッと起き上がる。


「わっ! どうしたんですか急に!?」


 驚く松実を取り合わず、彼女は鼻と口を両手で覆う。


「松実ちゃん、メモ確認して」

「はっ、はい!」

「検出されたのはアンフェタミン、だったね?」

「あー、ちょっと待ってください? あー、えー、はい。アンフェタミンで間違いありません」


 彼はわざわざ、そのことが記載されたページを突き付ける。


「うわ君、字ぃきちゃないな」

「今そこ触れます!?」

「まぁいいや。それで、混ぜられていたのはレモン」

「そうですね」


 高千穂はに活力が湧いてきたのか、ピョンと跳ねるように席を立つ。


「どちらへ?」

「科研行くよ科研」

「えぇ! 鹿賀先生ですか!?」

「あの人の得意は解剖だけど、まぁ話の融通は鹿賀先生が一番効くか」

「嫌だなぁ、怖いなぁ……」


 高千穂は怯える松実の方を振り返ると、その手元をビッと指差す。


「それ、忘れずに持ってきてね」

「えっ、これ? お茶?」


 相変わらず彼女は松実の疑問に答えない。





 二人が科研に乗り込むと。

 咲良は「宿直明けでしんどいです」という顔で椅子の背もたれに沈み。機械的にコーヒーを飲んでいた。

 高千穂はそれを見つけるなりとんでもないことを言い出す。


「鹿賀先生。レモンありませんか?」


 そのあまりの内容に、彼女は最大限のジト目で答える。


「何言ってんだオメェ。科研を青物屋かなんかと思ってんのか?」

「ないの?」

「あると思うか? レモネード持ってるやつでも探してこい」






「レモン果汁のビタミンドリンクもらってきた」

「よくもまぁ、本当に調達できたな……」


 高千穂が成果物をテーブルに並べたところで、松実が手招きで呼ばれる。


「なんでしょう」

「そこのビーカーにバタフライピーを注いで」


 確かにそこには、ビーカーが用意してある。


「オメェなんで急須持って歩いてんの? 頭おかしいんか?」

「ヒイィ!」


 咲良の何気ない言葉に圧を受けながら、松実はバタフライピーを注ぐ。


「できました!」

「よし」


 高千穂はまず、ビタミン飲料をビーカーに注ぐ。

 すると液体は見る見るうちに……、


「わっ! 紫になった! 僕らの知ってる色だ!」

「へぇー、おもしろいもんだね」

「やっぱりレモンで色が変わるんだ。だから現場にあったバタフライピーは紫で、普通に入れると青いまま」


 彼女は鼻と口を両手で覆う。


「松実ちゃん」

「はい」

「ちょっと暇な人員集めて。鹿賀先生も科研の人お願いできる?」

「まぁ検査の結果待ちみたいな人は結構いると思うけど」

「その人たちを集めて、早いことホテルに向かおう」

「ホテル!?」

「パーティーでもするんか」


 高千穂は余裕たっぷりに首を左右へ振る。


「早くしないと代表チームが新幹線に乗って、あちこちバラバラに行っちゃうからね。そうなるまえに、荒木選手を逮捕しないと」

「えっ、逮捕!?」

「なんかつかんだの?」


 勝手にレモン入りバタフライピーを飲む咲良に、高千穂はニヤリと笑い掛ける。


「もちろんだとも。なんたって私は……


教科書に載ってること覚えてるか覚えてないかって言われたら。先生が語るテストに出ない豆知識だけ覚えてる人間だからね」

「まったく意味が分かりません」

「長い」






 ホテルの部屋で荒木が荷物をまとめていると、不意にドアがノックされた。


「はい!」


 荒木がドアを開けると、そこには嶋が立っている。


「どうしたんですか、嶋さん」

「お前に呼び出しだ。ミーティングルームに行ってくれ」

「呼び出し、っすか」


 監督だろうか? だとしたら待たせるわけにはいかない。

 荒木はすぐさま、ミーティングルーム用に借りている部屋へ向かった。






「失礼します、あ」


 荒木が部屋へ入ると、


「うふふ、ようこそ」

「あんたは」


 昨日の今日で忘れもしない、心底嫌なヘルメット女が席に着いていた。


「なんすか」

「うふふ、ただのお茶会のお誘いです。ささ、そこ、お座りになってください」


 高千穂は自分の対面にある椅子を手で指す。


「嫌だって言ったら?」

「新幹線に遅れることになります」

「はぁー……。訴えられてぇか?」


 体躯のいい荒木が睨みつけても、彼女には動じる様子がまったくない。


「まぁお座りになって、お茶飲んでってください」


 こういう何にもペースを乱されることがないバッターがいれば、どれほど手こずることだろう。

 彼は深くため息をつくと諦めて椅子に座った。


「いいだろう。でもあんたと会うのはこれで最後だ」」

「私もそう思います。あ、これ、クッキーです。美味しいですよ」

「へぇ」

「もうすぐお茶が入りますからね」


 高千穂が言うや否や、


「お待ちどぉさまで~す」


 松実が荒木の前に置いたティーカップの中に入っているのは、


「あ、青い」


 見覚えのある青い液体だった。高千穂が軽く身を乗り出し聞いてくる。


「うふふ、驚きました? こちら、なんだと思います?」


 悪戯が成功したみたいな顔で癪に触る。

 荒木はその鼻っ柱を折ってやることにした。


「バタフライピーだろ?」

「ご名答です!」


 高千穂は音が鳴らないような小さい拍手をする。少しはとしてくれたら溜飲も下がるのだが。


「それより、お茶会といえばお話しですよ。お話ししましょう」

「ガールズトークとか? きゃは☆」

「松実ちゃん本当に気持ち悪いよ」


 荒木からすれば一刻も早く逃げ去りたいところを、『お茶会』などと拘束された挙句。こんな笑えない漫才をされたのでは、堪ったものじゃない。


「なんすか? もういいっすか? そもそも野球しかやってこなかったなんで。あんたら若者と合う話題なんかありませんよ」


 荒木が椅子から腰を浮かせると、高千穂は引き留めず挑戦的に笑った。


「ガールズトークは置いといて。せっかくいらしてくださったんですから、荒木選手に関係ある話をしましょう」

「オレに関係ある話?」

「うふふ、例えば」


 彼女は荒木にチラリと鋭い上目遣いを向ける。


「伊野選手を殺した犯人の話」

「……」

「うふふはははは!」


 荒木はこめかみが張ってくるのを感じた。マンガ的表現も、案外リアルな人体の現象に基づくものだと思い知らされる。

 しかし今はそんなことに思いを馳せている場合ではない。目の前の相手をどうにかしなければならない。

 正直すぐにも引き上げたいが、露骨に逃げては相手の疑惑をより補強する気もする。

 彼は勝負を決断して席に着いた。


「ふーん、ついに真犯人が分かったんだな? いいぜ、話してくれよ。オレも気になるし、聞かないとだろうからな」

「ありがとうございます」


 高千穂はと人懐こい笑顔で答えた。


 そういう笑顔ができるのなら、いつもそうしてりゃいいのに。


 彼女は手をパン、と打つと、かたわらの席にあった鞄の中を漁りはじめる。


「えー、ではそのまえに。簡単な理科の実験をしましょう」

「実験?」


 高千穂が取り出したのは、黄色い容器。


「……」


 荒木にも見覚えがある。彼女はそれを商品紹介のように掌へ載せる。


「こちら、レモン果汁です。こちらは私の分のバタフライピー。混ぜます」


 高千穂は容器の蓋を開け、中身をてき、てき、てき、とティーカップへ落とした。

 すると見る見るうちに……


「うふふ。ご覧ください」

「……紫色になったな」


 高千穂はリアクションさせておいて、カップをすぐに脇へどけてしまう。


「はぁい、では次」


 また鞄から何か取り出す。

 それは親指と人差し指で摘み上げられたビニール袋。中に入っているのは何やら白い粉のよう。

 見た目では判別のつかないはずのそれが、何か荒木には分かる。嫌と言うほどよく。


「こちら、伊野選手が飲まされた覚せい剤。アンフェタミンと呼ばれる薬物です」


 高千穂は様子を伺うように一拍間を置く。

 対する荒木はポーカーフェイスを貫きとおした、と自分では思う。


「そしてこちら、松実ちゃんのバタフライピー。混ぜまるとどうなるか、ご存知ですか?」

「……」


 荒木は答えなかったが、高千穂は話を先に進めてしまう。


「混ぜます」


 サーッと粉がバタフライピーに落ちていく。

 それは砂糖のように分かりやすく溶けはしないが、それでも液体はじわじわと


「いかがですか?」

「……紫色に、なったみたいだな」


 絞り出すような掠れた声に、彼女は満足そうに頷く。

 それから先ほど脇にどけたレモン入りのカップを、アンフェタミン入りと並べた。


「そうなんです。このアンフェタミンですが。覚せい剤として流通する時は『硫酸アンフェタミン』になっていることが多いんです。そしてバタフライピー。調べたところ、酸性のものを入れると、成分のアントシアニンが反応して紫になるんです。これで犯人がわざわざレモンを選んで混入させた理由も。レモンを置き去りにした理由も分かりました」

「……そうかい」


 荒木は腕を組み、足を組んだ。気持ちは平常心で固めても、体の方がじっとしていられない。


「バタフライピーは酸性の物質を混ぜるとですね。味がどうこう以前に見た目が大きく変化してしまうんです。おそらく伊野選手もそれを知っていて、犯人も彼が知っているのを知っていた。もし味が違うだけなら。えぇ、人間『何か混ぜられたりするわけがない』という前提で生きているので。気のせいと判断するかもしれない。だからレモンなんか入れない方がいい。しかし? うっかり伊野選手が溢したり、蓋を開けて変色していることに気付いたら。それは明らかに何か混ぜられているのだから、警戒して飲まないかもしれない。そこであなた、変色したのはレモンのせいだと印象付けるために! 果汁を投入し、これ見よがしに置いていった。いかざるを得なかったわけです」


 いくら図星だろうと、黙っていたら相手を乗らせることになる。

 荒木はなんとか言葉を絞り出す。


「なるほどな。でも、まえも言ったが、そもそも誰が入れたかも分からねぇレモンだ。他にどんなイタズラされてるかも分からねぇのを見て、そのまま飲むもんか?」


 しかし高千穂は人差し指をビシッと立てる。その目には確固たる自信が輝いている。


「いいえ、伊野選手には誰がレモンを入れたか伝わっていたんです」

「どうしてだ?」


 高千穂はレモン入りのバタフライピーで唇を湿らせた。酸っぱすぎたのか眉をしかめる。


「昨日も確認しましたが荒木選手。あなた事件前日、伊野選手のお宅に宿泊していますね? そのことを聞いた時に、真藤さんが証言してくださいました。彼がよくお客さんにバタフライピーを振る舞っていたことを」

「そうかい」


 荒木の勢いが削がれるごとに、彼女の勢いは増していく。


「ということは荒木選手。あなたがいらした時も、バタフライピーが振る舞われたと考える方が自然です。そこで伊野選手は今と同じことを、あなたに見せたんだじゃないですか? だからこそ彼、次の日バタフライピーの横にレモンが置いてあっても。いや、だからこそ、あなたの仕業だと。色の変化をおもしろがって入れただけ。それ以上のイタズラはないと考えて、平気で飲んだわけです」

「臆測だよ」

「いいえ、この犯行、レモンで色の変化を誤魔化すというのは。バタフライピーの色が変化することを知っている人物にしかできません!」

「あいつは普段から試合中に飲んでたって話だ! オレ以外にもその話を聞いてるやつが、ベンチにいたかも知れねぇだろ!」

「いいえ! 代表チームには伊野選手以外、東京ヘラクレス所属の人物はいません! そして課員が他の代表チームの皆さん一人一人とお茶会をして確認したところ! 誰一人このことを知りませんでした! 私達だって今朝初めて知ったくらいの話なんですから! 荒木選手! あなたが、あなただけが! この現象を知っているんです!」


 荒木は思わずテーブルを叩いて立ち上がる。青と紫の液体がテーブルに溢れた。


「待てよ! そもそも何で、オレがバタフライピーの変色を知ってるって決めつけてんだよ!」


 一喝すると、高千穂は勢いで乗り出していた居住まいを正す。

 推理の穴を突かれて引いたのではない。

 証拠に彼女は、ニヤリと笑みを浮かべている。


「うふふ。それは、あなた自身がそうおっしゃったからです」

「言ってねぇよ!!」


 荒木は再度テーブルを叩く。

 しかし高千穂は臆さずゆっくり余裕たっぷりに、テーブルに溢れた青い液体を指差す。



「おっしゃったのと同じです。だってあなた、ついさっき変色前の青い液体を見て。バタフライピーだと分かったじゃないですか」

「あっ」



 さっきまでの勢いを忘れ、気の抜けた声を出す荒木。

 感覚では理解しつつも、どういうことか文章で理解するまえに。

 彼女はその答えを語って聞かせる。


「私が最初の捜査で皆さんを集め、バタフライピーとしてお見せしたのは。覚えてらっしゃいますか? 変色後の紫のものです。ですから、バタフライピーが変色することを知らない選手や首脳陣の皆さん。今回のお茶会で青いバタフライピーを見て、こうおっしゃったと記録があります。『紫じゃないのか』と。でもあなたは青いバタフライピーを見て疑問に思うこともなければ。逆に最初の捜査で、紫のバタフライピーを見て何かおっしゃることもなかった」


 高千穂は荒木が口を付けていないのをいいことに。何も入っていない青いバタフライピーを優雅に口へ運ぶ。


「ですからもう一度言います。荒木選手、あなただけは。バタフライピーが元々青色で、紫に変色することを知っていたんです」

「……」

「いかがですか」


 数秒動きのなかった荒木だが、彼は結局力なく椅子に座った。

 姿勢にも力尽きた様子が浮かんでいる。


「……ゲームセット、か」

「ありがとうございます」


 荒木はホームランを打たれた投手のように、天井を仰ぎ見る。


「あーあ、完全犯罪って難しいんだなぁ」

「はい」


 彼は視線を高千穂の方へ向ける。


「でも、バタフライピーのこと気付いたのは今朝なんだろ? なのになんで昨日にはもう疑ってたんだ? そんな明らさまに顔に投げてたか?」


 全てが決着したからだろう、高千穂は人懐こい笑みで首を左右に振る。

 あの顔がそう映るほど、今の荒木は敵意も消え果て力尽きている。


「いいえ? まさか色が理由だとは思いませんでしたが。昨日も言ったように、ミルクではなくレモンを選んだ理由から。『犯人は伊野選手の持っているお茶が何か、どういうお茶かを知っている』ということには辿り着いていました」

「そうだな」


 高千穂はまた鞄を漁る。中から出てきたのは、お店で棚に並んでいるようなハーブ入りの袋。

 表面にはバタフライピーの文字と、花のイラスト。


「バタフライピーは蝶豆から作るの一種です。しかし、私は最初の捜査で皆さんを集めてお話しした時。『』としか言いませんでした。なので知らない人は普通、こう思うはずです。『黒豆茶のような』と。しかしあなたは自信を持ってこうおっしゃった。『伊野は最近にハマっていると聞いた』と。そこであなたがこのお茶について知っていると分かったんです」

「あぁ、我ながら迂闊だったな」

「昨日私が『紅茶に何を入れるか』で話を詰めていた時もあなた。『ハーブティーは紅茶じゃない』とおっしゃってましたね」

「……罠だらけじゃねぇか」


 荒木がうなだれると、高千穂は少しだけ同情するような声を出す。


「おそらく『伊野選手がプロテインを飲んでいないことがおかしいのか』という声がありましたから。『それはおかしくない、どうでもいいことだ』と流したかったんでしょうが。うふふ、あそこは黙っておくべきでした」

「ポーカーフェイスが売りだったんだけどな」


 彼はため息をついて笑うと、ふと何か思い出すような顔をする。


「そういえば」

「なんでしょう」

「オレが伊野を殺した時、あんたらはグラウンドに降りてきたけど。確か、一塁内野席から出てきたよな?」

「はい。そちらで観戦しておりましたので」

「ふーっ」


 荒木は大きくため息をつくと、高千穂にニヤリと笑い掛けた。


「伊野より先に、あんたに牽制投げとくべきだったな」


 対する彼女は自身の頭部をコン、と叩いてニヤリと返す。



「無駄です。私ヘルメット被ってるので」

「違いねぇや」



 二人の笑う振動で、溢れたバタフライピーの水面がさらに広がった。






          ──知っていた男 完──

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