第24話 大学生⑧ 家族
きちんとした事実関係までは確認は取れていないものの、真樋は信じられない事を告白され、それを受け入れる。
相手の写真を見せて貰ったわけでもなければ、この人を好きになったのと紹介されたわけでもない。
ただ俯き暗い表情で、別の人と関係を持ってしまったという言葉と、その人との子供を身籠ってしまったという告白。
だから別れて欲しいと言われただけだ。
厳密に言えば、妊娠していたとしてその子供が本当にその相手との子なのかすらもはっきりしていない。
時期だけであれば、真樋が父親という事もある。あくまで妊娠が本当であればの話である。
他人から見れば薄っぺらい覚悟かもしれないが、真樋はお互いが納得して避妊をしない行為をする際には、結婚と子育てをする覚悟は持っていた。
その場合、大学は辞め即就職をするという人生の上では中途半端な進路変更をしなければならないのだが……
しかし、態々別れ話をしてくる以上、夢月は病院等で調べて出した結論なのだろうと納得するしかないと悟っていた。
胎児の状態でもDNA親子鑑定は可能である。うろ覚えの知識ではあるが、真樋は既知のものである。
伊達に献血マニアというわけでもない。
真樋は自分の親に夢月との別れを口にしている。
この後理由などを聞かれる事に、心が耐えられそうにないと悟ったのか、部屋に閉じこもっていた。
カーテンも全閉し灯りもつけずに、真っ暗な部屋の中に。
ベッドを背もたれにして、右ひざを立て右腕を乗せてただ目線は虚空を漂っていた。
夕飯だと呼ぶ声も聞こえずに呆けていると、業を煮やしてやってきた妹・真都羽がコンコンと素早いノックをして返事も待たずにドアを開けた。
「おにいちゃん、ご飯だよ。腹は減っては戦は出来ぬだよ……ってなんで真っ暗なの?」
真都羽は母親から真樋が夢月と別れたという話を聞いていない。
母親も真樋が「夢月と別れた。」と一言だけしか聞いていない、誰にも何も言えないのである。
そのため、電気も付けずに真樋が何をしているかなど知るはずがない。
真都羽の言葉は、普段通りの夕飯時に呼びに来る時と同じ口調だった。
「ん……あ?忘れてた。」
妹に格好悪い姿を見せまいと思ったのか、真樋は固まりかけて固くなった身体をどうにか動かし立ち上がる。
「とりあえず、冷めない内に食べないと。先に下に行ってるね。」
事情を知らぬ妹が、何かを察して先に部屋から出てくれた、真樋はそう考えた。
沈み切った中でも、家族の何気ない優しさには気が付くゆとりだけは残っていた。
「ひでぇ顔。」
電気のスイッチを押し、机の上に置いてある鏡で自分の状態を確認する。
涙と鼻水でとても人に見せられる顔ではなかった。
この鏡は中学生の時に夢月が真樋にプレゼントしたものである。
「お洒落に気を遣う年頃なんだから、鏡くらいないとね。」とプレゼントされたものだった。
その事を今思い出す事はなかったが、真樋が酷い状態なのは自身で理解出来る程である。
リビングに向かう前に洗面所で涙と鼻水を綺麗にする。
見えはしないが、家族には食事前の手洗いうがいとしか思われないように。
普段通りの世間話を軽くする事はあるものの、食事中に夢月に関する話題は一切上がらない。
日中真樋が久しぶりに夢月に会いに行くという事は、家族周知の事ではある。
前日に「ひゃっほい」と久しぶりに喜びを顔に出していた真樋を知っているからだ。
しかし、真樋から話題に出さなければ、「昼間どうだったの?」と訊ねる事は家族の誰もしなかった。
先に夕飯を終えた父親は、グラスをテーブルに置くと奇特なラベルの貼られた一升瓶を用意する。
グラスに注がれた透明な液体は、横に置いてあるその奇特なラベルの一升瓶から注がれていた。
どこかの温泉地で買ってきたコラボ日本酒との事で、可愛い女の子がデザインされていた。
真樋が夢月のヲタク趣味に付き合ったり、自身がヲタクだったりするのは親の影響も受けていたのである。
真樋は夕飯を食べ終わると、食器をキッチンへと下げるため立ち上がる。
食器を濯ぎ終えると、蛇口を閉めお湯を止め真樋は口を開いた。
「理由は言えないし聞かないで欲しいけど、俺……夢月と別れた。」
一度聞いていた母親は初めて聞いたような態度で、父親と妹も真樋の言葉に開いた口が塞がらなかった。
どんな理由があるかは追求しない家族。
それは、家で見ていた限り真樋に要因があるとは思っていなかったからだ。
大学やバイト先で何かあれば流石に与り知らないが、昨年漸く告白出来た真樋が別に好きな相手が出来るとは微塵にも考えられないからである。
遠距離ならぬ中距離恋愛故の何かがあった事は察するが、真樋がやらかすとすれば中距離故にろくでもない事を言ってしまったくらいの事である。
しかし、最近全然夢月と連絡が取れないと漏らしていた事もあり、変な事を言うという線はかなり低い。
つまりは真樋に非があって別れたとは殆ど考えられない。
しかしそれでも、夢月が悪いとも言えない家族の面々である。
それは夢月の両親が隣人であり、学生時代からの友人でもあるからだ。
真樋達元カップルと、黒川達カップルが結婚して隣人になったような関係である。
いつもなら、「どうせおにいちゃんが変態的な事して怒らせちゃったんでしょ。」と軽口を言ってくるのだが、先刻の真っ暗な部屋の状況を見ているが故に何も言う事はなかった。
「変な勘ぐりとかはしなくて良いよ。夢月の両親は今でも隣人だし、これからも隣人なんだから。それに親父達は学生時代からの友人なんだろ?」
その言葉を聞いた母親が、背中から聞こえてくる真樋の声に対して返事をする。
「子供が変な気を遣うんじゃないよ。私達の事は私達の問題なんだから気にするんじゃないよ。そりゃ真都羽には気遣わないといけないけど。」
「そうだぞ。俺達は確かに昔はバカな事をしたり殴り合いの喧嘩をした事もあるけど。友情と家族は別の問題だ。」
中頃まで減った晩酌のグラスをテーブルに置いた父親が話しに参加する。
「だからって夢月の両親には態々言わなくて良いから。それぞれの親には自分から伝えるという事になっているからさ。」
真樋は嘘をついた。喫茶店で真樋は、夢月には自分の両親には自分の口から報告をしろと言っただけである。
真樋が自分の家族に別れた事を伝えるとまでは言っていない。
それでもいずれ分かる事なのだから、恋人解消の事だけは真樋も自分の口から言うべきだと思っていたのである。
「暫く落ち込んでるかも知れないけど、変な気は起こさないから安心して。」
変な気とは、恨んで隣家に嫌がらせをするとか、自暴自棄になって暴飲暴食したり自殺しようとしたりという意味である。
「気持ちが冷めたわけじゃないなら……辛いかも知れないけど、私達で出来る事があったら何でも言いなさいよ。」
単純な恋人同士の別れであれば、学生であれば大抵の人が体験する。
殆どの人が一度は掛かる麻疹みたいなものでもある。
その学生時代の良くある話であるはずの、付き合った別れただという恋愛失恋話は、当人にしてみれば半身を失ったようなものだ。
隣家で幼少から一緒で、漸く想いが繋がった真樋にとって、失うにはあまりにも大きい半身であった。
「その時はそうする。ありがとう。」
真樋はそのままキッチンを後にする。真樋の背中を見た真都羽が立ち上がり声を掛ける。
「おにいちゃ……」
最後まで言い切る前に真樋の姿はリビングからもキッチンからも消えていた。
「おにいちゃんがありがとうだって。明日は夏だけど雪が降るかもしれない。」
真都羽のジョークは冷房以上の働きを発揮していた。
「初恋は実らないって本当に残酷だね。」
真都羽は2階の真樋の部屋を見上げて呟いた。
真樋が喫茶店を出た後、店内に残った夢月は暫く下を向いたまま顔を上げる事はなかった。
「俺の名前とか出さなかったんだ。俺との事の経緯も詳しくは話さなかったな。」
夢月は後ろからの声にビクリと肩を震わせる。
「本当に俺の子で間違いないんだな?」
夢月は小さく首を縦に振ると、化粧を気にする事もなく涙を流した。
「それなら仕方ない。世間体もあるしな、一応責任を取る形で結婚はする。その代わり俺の生活には口を挟むなよ。」
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