第44話「いつもので」
マンホールから出た五十郎には、すぐにはそこがどこかわからなかった。夜にあって、上も暗ければ下も暗い、ひとけのない路地裏だったからだ。
もっとも、いまの五十郎にはどこでもよかったし、中折れ帽の天然者の仲間たちに囲まれていてもよかったし、いっそのこと、マンホールから出た瞬間に自動車に
通りに出てみると、意外なことに、慣れ親しんだ風景であることがわかった。
五十郎は運命を感じた。
マンホールから出た瞬間に自動車に轢かれなくてよかったとさえ思った。
五十郎はふらふらと、
これは運命だ。
きっと、ここに祇園が……
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」
高級焼肉店『和牛の
五十郎は前のめりになって言い
「あの! いつもおれと一緒に来てる小柄な子、来てませんか!?」
男性店員は特に面食らった様子も見せずに、答えた。
「いいえ。いらっしゃっておりません」
運命などなかった。
心当たりも尽きた。
世界が輪郭を失う。
「お待ち合わせですか? ……」
誰かの声も遠くなってゆく……
……気づくと、五十郎はひとり、いつものボックス席に座っていた。
慣れとは恐ろしいもので、放心しているあいだに、いつものやりとりを済ませて案内されてしまっていたらしい。
座っていると、
指先ひとつ動かすのも
頭もろくに働かない。
その
祇園は消えた。手がかりはなにもない。
金城さんは死んだ。今朝、『それじゃ、またお昼に!』と笑っていたのに。
依頼はキャンセルされ、もはや祇園に関わる理由もない。
たった半日で、すべてが失われてしまった。
もう、なにもない。
それでも、まだ祇園を探している自分がいる。
これ以上、祇園に関わりつづければ、いつかは殺されるというのに……
なぜだ?
「……お客さま?」
「……!」
意識が飛んでいたようだ。見れば、男性店員が
「あ、ああ……すみません。注文ですよね」
五十郎は注文しようとしたが、いまの彼にできたのは、
だから五十郎は、こう言った。
「……すみません。いつもので……」
すると、男性店員はこう確認した。
「かしこまりました。一人前でよろしいですか?」
「え?」
五十郎が
「今日は、ひさしぶりにおひとりでご来店いただいておりますから」
五十郎は
「さ、三人前で……」
その声は震えていて、尻切れとんぼであったが、男性店員は「かしこまりました」とだけ言って深くお辞儀すると、去っていった。
五十郎は泣いていた。
もう、祇園と金城と三人で焼肉を食べることはできないのだ――三人で楽しく焼肉を食べることは。
楽しかった。
あれこそは、遠い昔に忘れ去って久しい『楽しい』という気持ちだったのだ。
焼肉に限った話ではない。
いつからか、祇園とふたりで過ごす日々は楽しくなっていた。
祇園と金城と三人で過ごす日々も楽しくなっていた。
祇園と見物人たちと過ごす日々も楽しくなっていた。
けれど、どれも最初から楽しかったわけではない。むしろ、どれも最初は最悪だった。
彼らが、彼らと過ごした日々が、おれに『楽しい』という気持ちを思い出させてくれたのだ。
きっと、青春だった。
忍学に殺され、おのが人生に訪れることは決してないと思っていた青い春が、いつのまにか来ていたのだ。
そして、いまは去った。
だから、おれは祇園を探しているのだ。
いまならわかる。
あの
それなのに、昨日は『相討ちになってもいい』『もはや、生きてやりたいことはない』と自問自答できた理由が。
なんのことはない。
『あの黄昏時』から『昨日』までのあいだに、『生きてやりたいこと』をやり尽くしていたからだ。失われた青春を取り戻していたからだ……祇園と、金城さんと、みんなのおかげで。
ずっと、忍学で犠牲になったものに見合うなにかが欲しかった。
だから『七草』を目指した。
でも、本当に欲しかったものは、犠牲になったもの――青春だったのだ。
知らず知らずのうちに、もう二度と手に入らないと思い込んで諦めていたそれは、気づかぬうちに手に入っていた。
しかし、気づかぬうちに失った。
気づいていれば、失わずに済んだのだろうか?
……それはわからない。
祇園が姿を消したいまとなっては。
祇園はなぜ姿を消したのだろう?
本当に『死ぬのが怖くなった』のだろうか?
それなら、なぜそう言ってくれなかったのだろう? いくらでも相談に乗ったのに。おれは祇園を信頼していたが、祇園はそうではなかったのか? おれは『忍法
おれが楽しいと思っていた祇園との生活も、祇園にとってはどうでもいいものだったのだろうか? だから、姿を消すことができたのだろうか……?
もし祇園が、おれとの戦で『死ぬのが怖くなった』から、姿を消したとするなら……おれたちとの生活になんの
おれは、祇園を探さないほうがいいのか?
おれには、祇園を探す資格はないのか?
このまま祇園を、誰も知らないところでひとり、生き永らえさせたほうがいいのか?
祇園を探す理由を自覚したことで、五十郎はさらに祇園を探したくなった。
しかし皮肉なことに、自覚したことで、今度は祇園がどう思っているのか不安になってしまったのだった。
その不安を
そのとき、五十郎の目に入ったものがある。
というより、それはずっとそこにあった。ずっと
注文しようとして呼び出して、そのままにしていたi窓の情報ウインドウだった。
その片隅に、
その通知がいつから表示されていたのか、五十郎にはわからなかった。祇園の部屋で意識を取り戻してからというもの、情報ウインドウを一見する暇とてなく、いまはじめて気づいたからだ。
五十郎は震える指先で、通知に触れた。
チャット画面がひらかれて、メッセージが表示された。
送信者は金城だった。
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