第44話「いつもので」

 マンホールから出た五十郎には、すぐにはそこがどこかわからなかった。夜にあって、上も暗ければ下も暗い、ひとけのない路地裏だったからだ。

 もっとも、いまの五十郎にはどこでもよかったし、中折れ帽の天然者の仲間たちに囲まれていてもよかったし、いっそのこと、マンホールから出た瞬間に自動車にかれたってよかった。

 通りに出てみると、意外なことに、慣れ親しんだ風景であることがわかった。

 五十郎は運命を感じた。

 マンホールから出た瞬間に自動車に轢かれなくてよかったとさえ思った。

 五十郎はふらふらと、誘蛾灯ゆうがとうに引き寄せられる蛾みたいに、その看板に引き寄せられた。


 これは運命だ。

 きっと、ここに祇園が……


「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」


 高級焼肉店『和牛のしょう』の自動ドアがひらき、もはや顔見知りとなった男性店員が五十郎を出迎えた。

 五十郎は前のめりになって言いつのった。


「あの! いつもおれと一緒に来てる小柄な子、来てませんか!?」


 男性店員は特に面食らった様子も見せずに、答えた。


「いいえ。いらっしゃっておりません」


 運命などなかった。

 心当たりも尽きた。

 世界が輪郭を失う。


「お待ち合わせですか? ……」


 誰かの声も遠くなってゆく……


 ……気づくと、五十郎はひとり、いつものボックス席に座っていた。

 慣れとは恐ろしいもので、放心しているあいだに、いつものやりとりを済ませて案内されてしまっていたらしい。

 座っていると、雪崩なだれのように疲労が押し寄せて、五十郎を生き埋めにした。

 指先ひとつ動かすのも億劫おっくうだった。

 頭もろくに働かない。

 そのよどみにも、泡沫うたかたは浮かぶ。


 祇園は消えた。手がかりはなにもない。

 金城さんは死んだ。今朝、『それじゃ、またお昼に!』と笑っていたのに。

 依頼はキャンセルされ、もはや祇園に関わる理由もない。

 たった半日で、すべてが失われてしまった。

 もう、なにもない。

 それでも、まだ祇園を探している自分がいる。

 これ以上、祇園に関わりつづければ、いつかは殺されるというのに……

 なぜだ?


「……お客さま?」

「……!」


 意識が飛んでいたようだ。見れば、男性店員が気遣きづかわしげに五十郎を見つめていた。心配して、席まで来てくれたのだろう。


「あ、ああ……すみません。注文ですよね」


 五十郎は注文しようとしたが、いまの彼にできたのは、i窓あいまっどの情報ウインドウを呼び出すところまでだった。『和牛の庄』のメニューにアクセスするほどの気力はなかった。

 だから五十郎は、こう言った。


「……すみません。いつもので……」


 すると、男性店員はこう確認した。


「かしこまりました。一人前でよろしいですか?」

「え?」


 五十郎がの抜けた声をあげると、男性店員は執事もかくやの落ち着いた面持おももちで、静かに付け足した。


「今日は、ひさしぶりにおひとりでご来店いただいておりますから」


 五十郎は咄嗟とっさに顔を伏せた。


「さ、三人前で……」


 その声は震えていて、尻切れとんぼであったが、男性店員は「かしこまりました」とだけ言って深くお辞儀すると、去っていった。


 五十郎は泣いていた。


 もう、祇園と金城と三人で焼肉を食べることはできないのだ――三人で楽しく焼肉を食べることは。

 楽しかった。

 あれこそは、遠い昔に忘れ去って久しい『楽しい』という気持ちだったのだ。

 焼肉に限った話ではない。

 いつからか、祇園とふたりで過ごす日々は楽しくなっていた。

 祇園と金城と三人で過ごす日々も楽しくなっていた。

 祇園と見物人たちと過ごす日々も楽しくなっていた。

 けれど、どれも最初から楽しかったわけではない。むしろ、どれも最初は最悪だった。

 彼らが、彼らと過ごした日々が、おれに『楽しい』という気持ちを思い出させてくれたのだ。

 きっと、青春だった。

 忍学に殺され、おのが人生に訪れることは決してないと思っていた青い春が、いつのまにか来ていたのだ。

 そして、いまは去った。


 だから、おれは祇園を探しているのだ。


 いまならわかる。

 あの黄昏時たそがれどき、祇園に『相討ちでもいいんじゃないの?』と聞かれたとき、『わからない』と答えてしまった理由が。『生きてやりたいことがあるのかもしれない』と思ってしまった理由が。

 それなのに、昨日は『相討ちになってもいい』『もはや、生きてやりたいことはない』と自問自答できた理由が。

 なんのことはない。

 『あの黄昏時』から『昨日』までのあいだに、『生きてやりたいこと』をやり尽くしていたからだ。失われた青春を取り戻していたからだ……祇園と、金城さんと、みんなのおかげで。

 ずっと、忍学で犠牲になったものに見合うなにかが欲しかった。

 だから『七草』を目指した。

 でも、本当に欲しかったものは、犠牲になったもの――青春だったのだ。

 知らず知らずのうちに、もう二度と手に入らないと思い込んで諦めていたそれは、気づかぬうちに手に入っていた。

 しかし、気づかぬうちに失った。

 気づいていれば、失わずに済んだのだろうか?


 ……それはわからない。

 祇園が姿を消したいまとなっては。

 祇園はなぜ姿を消したのだろう?

 本当に『死ぬのが怖くなった』のだろうか?

 それなら、なぜそう言ってくれなかったのだろう? いくらでも相談に乗ったのに。おれは祇園を信頼していたが、祇園はそうではなかったのか? おれは『忍法五車ごしゃの術』に騙されていたのだろうか……?

 おれが楽しいと思っていた祇園との生活も、祇園にとってはどうでもいいものだったのだろうか? だから、姿を消すことができたのだろうか……?

 もし祇園が、おれとの戦で『死ぬのが怖くなった』から、姿を消したとするなら……おれたちとの生活になんの未練みれんもないから、姿を消せたとするなら……

 おれは、祇園を探さないほうがいいのか?

 おれには、祇園を探す資格はないのか?

 このまま祇園を、誰も知らないところでひとり、生き永らえさせたほうがいいのか?




 祇園を探す理由を自覚したことで、五十郎はさらに祇園を探したくなった。

 しかし皮肉なことに、自覚したことで、今度は祇園がどう思っているのか不安になってしまったのだった。

 その不安をぬぐい去ろうとするかのように、五十郎はおしぼりで涙の跡をいた。

 そのとき、五十郎の目に入ったものがある。

 というより、それはずっとそこにあった。ずっとうつむいていた五十郎には、見えていなかっただけだ。

 注文しようとして呼び出して、そのままにしていたi窓の情報ウインドウだった。

 その片隅に、Kypeけわいぷの通知が表示されていた。

 その通知がいつから表示されていたのか、五十郎にはわからなかった。祇園の部屋で意識を取り戻してからというもの、情報ウインドウを一見する暇とてなく、いまはじめて気づいたからだ。

 五十郎は震える指先で、通知に触れた。

 チャット画面がひらかれて、メッセージが表示された。

 送信者は金城だった。

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