第40話「うん」

 祇園が、転んだ。


 どうやら事実のようだった。

 最初に「転んだ」と言ったひとの右隣のひとが、その右隣のひとに確認するかのように、「転んだ」とささやく。囁かれたひとは、またその右隣のひとに「転んだ」と囁く。囁かれたひとは、またその右隣のひとに――伝言ゲームのようなそれは、あっというまに見物人の輪を一周した。それだけ目撃者がいるということだ。

 それなら、五十郎の貼山靠てんざんこうが外れた理由もわかる。祇園は、右前蹴りをさばかれたときにバランスを崩して前のめりに転倒し、五十郎の背後から消えることになった……

 しかし、五十郎は背を向けていたから、転倒の瞬間を見ていない。

 それもあって、にわかには信じられなかった。『七草』の祇園鐘音が、転んだという事実が。ずっと戦ってきたからこそ……


 祇園の身になにか起こったのだろうか?

 さては忍者の不意打ちか?

 文字どおりの大穴、急に足下からモグラが顔を出したとか?

 ……なぜ、まだ倒れている?

 なぜ、起き上がらない!?


 こんなことを考えながら、


「お、おい……大丈夫か?」


 五十郎が声をかけ、近寄ろうとしたそのとき。

 祇園が、ゆっくりと立ち上がって言った。


「うん」


 とだけ。何事もなかったかのように。


 それからのことといえば、祇園が衛生兵よろしく駆け寄ってきた女性陣に包まれて見えなくなる一方、五十郎は男性陣に囲まれ、祝福された。五十郎がなんのことかと面食らっていると、彼らは口々に言った。

 「初勝利、おめでとう!」というようなことを。


 言われてみれば、そう受け取ってもよいかもしれなかった。

 貼山靠こそ外れたが、そのとき祇園はすでに転倒していて、隙だらけだった。

 尋常じんじょうの勝負であれば、五十郎の勝利だろう。

 実際に、長きにわたって尋常の勝負と思って観戦しているひとびとも、五十郎の勝利だと言ってくれている。

 そう思ったとき、五十郎の胸に込み上げてくるものがあった。

 達成感だった。

 五十郎は、まさかこんな気持ちになる機会に恵まれるとは思ってもみなかった。達成感が得られるような結果を出したとき――つまり祇園暗殺に成功したとき、自分は死んでいるものとばかり思っていたからだ。

 さらに彼を驚かせたのは、見物人たちも彼と同じか、それ以上の喜びのようなものを味わっているらしいことだった。なぜか涙している者までいた。その酷い顔を見て、五十郎は笑わざるを得なかった。

 悪くない気分だった。


 その日はそれでお開きになった。誰が言いだしたわけでもないが、祇園がすたすたと歩きだしたからだ。珍しいことではあったが、祇園ならとするに足りなかったので、みな手を振って見送った。五十郎もなんとなくいい気分で、彼らに会釈えしゃくしてから、祇園のあとを追った。

 祇園の背が近づくのを見ながら、五十郎は思った。


 やった!

 いや、まだってはいないけれど、やった!

 それに、近々れるような気がする。

 祇園の五十手目は捌けたし、祇園が転んでさえいなければ、貼山靠は当たっていた。

 なにより、祇園の全自動戦闘プログラムは、きっとまだ貼山靠を学習していない! 祇園は貼山靠をかわしたわけではないし、見てもいないからだ!

 それなら、つぎは当てられる。

 祇園を殺せる! 死なせてやれる!

 ……今日は、たまたま祇園が転んだことで、思いがけず味わえるはずのない達成感を味わうことができた。それも、みんなと。

 また、祇園に借りができた気がする。そろそろ、返さなくっちゃあな……


 こんなことを考えながら歩いているうちに、五十郎は祇園に追いついた。女性陣たちから特に申し送りがなかったので、なにも問題はなかったのだろうと思いながらも、念のため問いかける。


「おまえが転ぶなんて、珍しいこともあるもんだな?」

「……」

「……? 聞こえてるよな?」

「……うん」

「大丈夫なのか?」

「うん」

「どうして転んだんだ?」

「うん」


 五十郎は「運?」と思いながら、祇園に付き従って、タワーマンションのエントランスの自動ドアを通り抜ける。


「それは運がよかったって意味なのか、悪かったって意味なのか、わからないけれど……おれにとっては、よかったかもしれない。おかげで、今日はいい目を見させてもらったよ」

「うん」


 エレベーターに乗り込む。五十郎が行先ボタンを押す。控えめな浮遊感が訪れる。密室が五十郎の背を押した。


「その……いつも、ありがとうな。借りは膨らむ一方だけれど……」

「うん」

「近々、必ず死なせてやるから。それでチャラにしてくれ……利息も含めて」

「うん」

「……」


 五十郎は祇園の横顔を覗き込んだ。いつもどおりの無表情のように見える。

 だが、祇園と遭うまえ、いつかどこかで見たことがある表情のような気もした。

 エレベーターが停止し、扉があき、祇園が歩きだす。五十郎は慌ててついていきながら、物は試しと言ってみた。


「うん」


 祇園が生体認証で、部屋の玄関ドアを解錠する。


「……勝負は時の」

「うん」


 祇園が玄関ドアをあけ、なかに入る。五十郎もつづく。


「……風間忍者がつかえた後北条氏ごほうじょうしの祖は、北条そう

「うん」


 靴を脱ぎ、廊下に上がったところで、五十郎は祇園のまえに回り込んだ。


「おまえ、本当に大丈夫なのか?」

「うん」


 なにを言っても「うん」ばかりである。小学生だったら「うん子」と呼ばれていじめられそうだ。見るかぎり外傷はなさそうだが、とても大丈夫だとは思われない。

 そこで五十郎は、リビングダイニングキッチンに通じるドアをあけながら、つけぐすり代わりに、ちょっとした悪戯心いたずらごころをブレンドした質問をしてみた。


「もしかして、死ぬのが怖くなったのか? 今日、危なかったもんな?」


 祇園は答えた。


「うん」

「そうかそうか、おまえにも人間らしいところが……はぁ!?」


 五十郎の視界が、一度大きく揺れてから暗転した。

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