第17話「頑張ってるよね?」

 恐怖存在は五十郎を手提げ鞄みたいに持って、アクションゲームさながら、ビルの谷間を跳んで越え、あいだに幹線道路があれば助走をつけて跳んで越える。すすとばりの向こうで日が沈みつつあるのだろう、刻一刻と迫る暮色ぼしょくは、ステージを進むにつれ変化する背景のようだ。

 もっとも、五十郎はその変化を楽しむことはできなかった。ずっとうつむいて、呼吸と心を落ち着けようとしていたからだ。

 その努力がみのったとき、五十郎は意を決して口をひらいた――俯いたまま。


「な……なんで、黙っていたんだ?」

「なにを?」


 恐怖存在が五十郎に視線を落とした気配はない。彼は、ほっとしている自分を自覚した。


「忍法のことに決まってるだろ……」

「聞かれなかったから」


 恐怖存在はいつもどおりだった。それがかえって五十郎を畏怖いふさせた。

 あのいくさ――そう呼ぶにはあまりにも一方的だったあの一幕ひとまくも、この恐怖存在にとっては見飽きた、いつものことなのだろうか? ひとをひとり、文字どおり消し去っておきながら……それも、ただのひとではない。天然の忍者だ。五十郎より強い……いや『強かった』哀れな天然者……


「この先……」

「うん」

「この先、おれが……おまえを……殺せたとする」

「うん」


 五十郎は口にしてから、気づいた。自分が『殺した』ではなく『殺せた』と言っていることに。しかし、訂正する気は起きなかったし、口は勝手に動いて、続きを話していた。


「そのとき……おれも、死んでるんじゃないのか? あの忍法で……ち、塵になって……」


 身の毛がよだつ問いだった。


「そうかも」


 答えは、いつもの調子で返ってきた。なんの感慨もなさそうな、どうでもよさそうな……


「そ、そうかもって……」

「でも、それは忍者の習いでしょ」


 五十郎は一瞬、言葉に詰まったが、


「ち、ちがうだろ。おれはおまえを殺したいんであって、相討ちになりたいわけじゃ……」


 思い直して、言い返した。確かに、殺し殺されるのは忍者の習いだ。しかし、殺されることが前提というのはちがうのではないか? 五十郎はアサニンであって、鉄砲玉ではないし、自爆テロリストでもなかった。


「そう?」


 五十郎は前後に揺れた。恐怖存在が立ち止まったのだ。

 五十郎は反射的に顔を上げた。

 恐怖存在が彼を見おろしていた。黄昏たそがれにあって、その顔容がんよううかがい知れない。

 それは、忍法みたいにささやいた。


「あなたは『ほかになにもない』と言った。

 たとえ相討ちでも、わたしを殺せたなら、あなたの誇りは取り戻される。

 たとえ相討ちでも、わたしを殺せたなら、あなたは死して『七草』になる。だって、わたしは『七草』だから。

 たとえ相討ちでも、わたしを殺せたなら、あなたの目的はぜんぶ叶って、もうなにも無駄になることはない。

 それでいいんじゃないの?」

「え……」


 ……それでいいのか?


 と五十郎は思った。恐怖存在の言うことは、なるほど、もっともらしく聞こえた。


 相討ちだろうと、こいつを殺したなら、恥辱ちじょくすすがれる。

 相討ちだろうと、『七草』を殺したなら、おれは『七草』だ。

 それで、忍学で失われた人生の……青春の元が取れる。あの日のおれは救われたと言える。

 もう、忍学で過ごした地獄の日々が無駄になるかもしれないと恐れることもない……


 それでいいのか?


「……わからない」


 我知らず、五十郎は口に出していた。彼は本当にわからなかった。考えたことがなかったからだ。相討ちになったときのことではない……『七草』になったあとのことを。

 五十郎は戸惑った。


 『七草』になったあとのことなんて、考えたことがなかった。

 『七草』になることの『ほかになにもない』と思っていた。

 それなら、『七草』になれたら死んでもいいはずだ。

 でもいま、相討ちを――死をほのめかされてなお、すぐに『それでいい』って言えなかったってことは……

 おれには『七草』になったあと、生きてやりたいことでもあるのか?


 五十郎は浮遊感を覚えた。恐怖存在が跳んだのだ。いつのまにか、五十郎の運搬が再開されていた。

 恐怖存在が問答に興味を失ったのだろう。元からなかったのかもしれない。

 五十郎はなんだかちょっと待ってほしくなり、


「お、おまえこそ、それでいいのか?」


 思わず、聞き返していた。


「なにが?」

「その……殺されたら、それで」


 『おれに』とつけることはできなかった。答えはすぐに返ってきた。


「ほかになにもない」


 五十郎は、ちがいを思い知らされた気がした。


 こいつはきっと、本当に『ほかになにもない』んだろう。そういう凄みを感じる。迷いも一切ない。一体、なにがあったらこうなっちまうんだ?

 それに比べておれはといえば、『ほかになにもない』と吹いておきながら、いざ死を匂わせられたら日和ひよりやがって、情けない。おまけにいまもなお、迷っている。

 それでいいのか?


 答える者はなかった。この世のどこにも。

 五十郎は浮遊感を覚えた。恐怖存在が跳んだのだ。着地の衝撃で、五十郎は上下左右に揺れた。寿司折みたいに吊られた彼の体は、不安定だった。孤独で寄るない彼にお似合いだった。


「さっきの忍者……」

「うん」

「おれ、あいつらに殺されそうになったんだ」


 五十郎の弱気の虫がうごめいた。


「で、おまえはそのひとりを殺した。ただ、歩いて近づいただけで」

「うん」


 いつものどうでもよさそうな相槌あいづちも、いまの五十郎の耳には忌々いまいましく響いた。『あれくらい、どうということもない』というふうに聞こえてしまっていた。その事実が、五十郎をさらなる自己嫌悪におちいらせた。


「まいるぜ……」


 五十郎は溜め息をついた。何年ぶりだろうと思ったが、ひたっている暇はなかった。


「なにが?」


 恐怖存在が、そう聞き返してきたからには。


「なにがって……」


 五十郎はまた溜め息をついた。数秒ぶりだなと思いながら、彼は覚悟を決めた。言いたくないことを、わかりやすく言う覚悟を。


「おまえ……おれに殺されられると思うか? そういう話をしてるんだよ……」


 恐怖存在にも、彼自身にもわかりやすく……


「わかるだろ? おれは、おまえが殺した忍者よりずっと――」

「可能性はある」


 五十郎は、発言をさえぎられたことに驚いた。だから、彼が恐怖存在の発言を理解するにはちょっと時間がかかった。


 ……可能性はある、だと?


「本当かよ……」

「うん。誰よりも」


 だ、誰よりも?


「……なんで?」

「諦めてないし、頑張ってるから」


 ちょうどそのとき、恐怖存在が走り幅跳びみたいに助走をつけてビルの屋上の縁を蹴り、首都高速都心環状線上を跳んだが、五十郎が動悸どうきを覚えたのは、そのためとは思われなかった。

 恐怖存在は向かいのビルの屋上に着地すると、足を止めた。


「こんなにわたしを殺しにきたのは、あなたがはじめてだし。こんなにわたしを知ろうとしたのも、あなたがはじめて」


 そう言って、五十郎を見おろす。


「諦めてないし、頑張ってるよね?」

「……」


 五十郎は目をらすように首をひねって、思案した。


 ……なにがどうなっているんだ?

 あまりにも久しぶりすぎるうえ、相手が相手だから、信じられなかったし、いまもぴんと来ていないが……

 おれはいま、もしかして……褒められているのか?

 それも、殺すべき相手に?

 というか、こいつに?


「諦めずに頑張ってた、って言い直したほうがいい?」


 五十郎はおのれを宙吊りにしている存在を見あげた。

 宵闇よいやみのなか、高速道路のLED照明灯の光であえかに浮かび上がった顔容は、いつもの、なにもかもがどうでもよさそうな無表情だった。五十郎に気を遣っているわけではなさそうだった。つまり……

 五十郎は、体の内側から震えが走った感じがした。


「おまえ……たまにあおってくるよな……はじめて会ったときもよ……」

「帰っちゃいそうだったから」

「帰ってりゃよかったよ」

「そう?」


 いまはまだ、わからない。

 でも、こいつほどの忍者がそう言うのなら……


「……とりあえず、こいつをほどいてくれ。歩けるから」


 ……祇園が認めてくれているのなら、諦めずに頑張ろう。いまはまだ、その果てに死しか見えないとしても。

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