第16話「『忍法祇園梵鐘』」

 見えざる蠅の羽音だけが、路地に響いている。


 五十郎は慄然りつぜんたる思いに駆られていた。

 祇園は『核ミサイルすべてを爆発まえに処理した』忍者のひとりだと、鈴木は言っていた。あのとき、五十郎にはどうやったのか想像もつかなかった。

 しかし、二十挺以上のマシンピストルのフルオート射撃が直撃してなお、かすり傷ひとつ負っていない祇園の姿を目の当たりにしたいまでは、「祇園は落ちてきた核ミサイルを生身でキャッチして、ゴミ箱に捨てたのではないか?」というばかげた妄想さえはかどるようになっていた。

 一体なにが起こっているのか?

 あの忍者装束のように見えなくもない、塵からなる帯状のものが、バリアの役割を果たしているのか?

 あれが、祇園の忍法なのか?


「お、おい、兄弟……」


 全身網タイツの天然者が、声の出しかたをやっと思い出したかのように、かすれた声を漏らした。

 カメレオンの天然者は一発の銃声で応じた。

 放たれた弾丸は、祇園のまえで塵と散ると、たちまちそのしもべになったように、彼女の肌のうえを舞う塵の列に加わった。

 祇園が歩きだす。ひるがえっては来たりて巡る、何条もの塵の帯を引き連れて。

 カメレオンの天然者は、忍者カメレオンたちにフルオート射撃を命じた。ふたたび、横殴りの弾丸の雨が祇園を襲った。

 しかし、それは祇園の歩みを止めることはおろか、緩めることすらできなかった。弾丸はすべて、それこそ雨粒が肌に当たったときみたいに、彼女のまえでぴちょんとはじけては塵となっていった。そして、祇園を覆う塵の群れに加わってゆく。

 いまや十重二十重とえはたえ羽衣はごろものごとく折り重なった塵をなびかせて歩き、祇園はふたりの天然者に肉薄する。

 五十郎は、祇園の白く細い肩越しに見ていた。カメレオンの天然者の顔から、次第に血の気が引いていき、


「ば、ばかな……」


 すべてのマシンピストルの弾が切れ、まえに突き出したままの彼の両手の指先が触れそうになるまで祇園が近づくに至って、ついに白くなったのを。

 ――いや、いまその口のが上がった!

 ただ引きっているのではない。笑っているのだ!

 得体の知れぬ危険を察知した五十郎がなにか叫ぼうとしたそのとき、カメレオンの天然者はバク転した。

 入れ代わるように、全身網タイツの天然者が祇園のまえに割って入る。

 つぎの瞬間、五十郎の目には、全身網タイツの天然者が砂鉄を帯びた巨大な磁石――あるいは、ウニ人間と化したかに見えた。

 忍法だ。

 全身網タイツの天然者が、タイツのきめ細かな穴から――否、その奥にある人体に存在する約五百万個の毛穴から、約五百万本の毛をびゅっと伸ばしたのだ。


 その毛の一本一本、げにも、針鼠はりねずみとげと例えてなお可愛らしく、槍の穂先と例えてなお足りず、触れた大地を割ってなお、いささかもたわむことなく伸びてし。これぞ身をもって五百万いおよろずの仕込み武器となす『忍法毛暗器へあんき』なり。


 五十郎は、いま自分を縛りあげているのも、全身網タイツの天然者の毛にちがいないと思った!

 これが彼らの必勝法なのだ。カメレオンの天然者の隠形おんぎょうで敵に近づいて銃撃、弾が切れ、敵に間合いを詰められたそのときは、全身網タイツの天然者が返り討ちにする。

 祇園はその必勝法にまったのだ!

 いかに祇園の反射神経か、それに類するものがすぐれていて『体が勝手に動』こうとも、目と鼻の先で全方位に伸びる剛毛から逃れるすべはない。

 おまけにその剛毛ときたら、数も密度も速度も威力も、マシンピストルのフルオート射撃などの比ではない。

 弾丸の雨を防ぎきった不可思議な塵のバリアも、破られてしまうのではないか!?

 祇園の白く細い裸身が、黒い剛毛にあますところなく貫かれ、砂鉄を帯びた巨大な磁石、あるいはウニ人間と化す!


 かに見えた。


 だが、実際に五十郎が見たものは――彼が祇園の向こうにいた、カメレオンの天然者の眼球越しに見たものは、あらゆる思考、あらゆる想像を超越ちょうえつしていた。

 本当に見たのかどうかも、疑わしく思えるほどだった――全身網タイツの天然者が祇園のまえに立ちふさがって、忍法で全身から毛を伸ばしたことさえも、夢だったのではないか?

 いや、そもそも全身網タイツの天然者など存在したのか? 誰かの忍法がつくりだした、幻影だったのでは?

 見るがいい。いまここにいるのは、五十郎と、祇園と、カメレオンの天然者と、中折れ帽の天然者だけではないか。あとはただ、風のまえの塵。渦巻いて、祇園の装束のごとし。

 ただ、呪わしき忍者の動体視力は、五十郎の脳に、いましがた起こった事実の一部始終をコマ送りで焼きつけている。


 全身網タイツの天然者がいた。

 忍法で、約五百万個の毛穴から、約五百万本の剛毛を伸ばし、祇園を串刺しにしようと……

 その剛毛の一番槍の先端が、祇園の白磁はくじに触れた。

 触れたのか? 確かに触れた。

 それでも自らの目を疑わざるをえないのは、剛毛が触れた先から消えていったからだ。

 それも正確ではない。

 五十郎の忍者の目が見たのは、数百万本もの剛毛が、祇園の額、眉間、目、耳朶じだ、頬、鼻梁びりょう、唇、顎、首、鎖骨、肩、乳房、腹、腕、手、腰、脚に触れた先から塵と化してゆく神秘だった。

 その神秘は毛先に留まらず、根元まで侵食していった。まるで、パンをスープに浸したときのように。


「うおおおお!?」


 全身から毛を伸ばして、ウニ人間のようになっていた全身網タイツの天然者が、飛びずさった。

 着地したときには、彼は無毛になっていた。すべての毛が毛根まで侵されて枯れ果て、塵となって消えたのだ。

 そして、さらにその奥もまた。


「う、うわあああああああああああ!?」


 全身網タイツの天然者は、自らの両手を見おろした。そのときすでに、すべての指が塵になって舞い上がっていた。

 彼は助けをい、カメレオンの忍者に手を伸ばした。そのときすでに、二の腕までもが塵と化して崩れ去っていた。

 彼は倒れた。そのときすでに、両脚はなく、腰も塵に還りはじめていた。

 彼は恐怖のあまり口をいっぱいにあけ、断末魔の叫びを上げた。そのときすでに、喉は塵となって消えていた。


「あぁぁぁぁぁぁぁ………………――――――」


 だから、叫び声は上がらなかった。最後に彼が立てた音は、白い頭蓋骨が転がった音だった。それも、固まってしまった砂糖がほぐされたときのように音もなく割れ、さらさらした塵になった……


 祇園は、ただ立っていただけだった――いまも。

 黒い塵の群れが、葬列みたいにゆっくりと旋回している。

 見えざる蠅の羽音が、葬送曲だった。

 ついさっきまでひとりの忍者だった、風のまえの塵が恨みがましく祇園にまとわりついて、幾重いくえにも重なった。


「ひ……ひいいいえええええええええっ!?」


 カメレオンの天然者は悲鳴をあげ、ばたばたと逃げていった。

 中折れ帽の天然者はその無様を一顧いっこだにせず、スマートフォンを懐にしまうと、ささやかな拍手を送りながら言った。


「いつ見ても、すごいものだな。『忍法祇園梵鐘ぎおんぼんしょう』」


 中折れ帽の天然者は知っていたのだ。そして、五十郎もいま知った。

 塵の忍者装束が忍法なのではない。

 忍者装束と見えた塵の衣は、結果なのだ――『忍法祇園梵鐘』の。


 触れたものみな震わせて、塵に変える忍法! 打てば響く命の晩鐘ばんしょう


 だから、祇園はフルオート射撃を受けても無事だったのだ。弾丸はバリアに防がれたのではない。祇園に当たった先から塵と散っていたのだ。そのときの余波で、ワンピースも塵と消えたのだ。だから、祇園の体には一切れの布地も残っていなかったのだ。

 セレクトショップで投げたはずの棒手裏剣が見つからなかった理由も、いまならわかる。祇園に命中した瞬間、塵にかえったのだろう。

 五十郎がいままでその犠牲になっていないのは、ただ単に、祇園が響くほど打てたことがないだけにすぎない。

 『忍法祇園梵鐘』――それこそ、祇園が『核ミサイルを爆発まえに処理した』忍法にちがいなかった。


 五十郎は、見えざる蠅の羽音が聞こえなくなっていることに気づいた。祇園に絡みつくように漂っていた塵が、散り散りになって消え失せていることにも。

 ちょうどそのとき、中折れ帽の天然者が人差し指で上を示した。


「これはおひねりだ。ひねられたのはこちらだけどね」


 すると、狭い空から、百貨店の包装紙で包まれた箱が降ってきた。

 どうやら中折れ帽の天然者が手配して、ドローンに運ばせたものらしい。

 祇園がしゃがんで、包装紙を雑に破き、蓋をあけると、なかには一着の白いワンピースと靴が入っていた。

 ワンピースには、ツバキのような花柄があしらわれていた。

 祇園はワンピースを取り出し、袖を通しながら、


「よかったの?」


 と聞いた。


「いいんだ。わたしは止めたし、忍者は死ぬべきときに死ぬものだから」

「わたしにもはやく来ないかな」

「はやく来てほしいものだな」


 祇園は着替えを終えると、


「それじゃ」


 と言って、きびすを返した。つまり、五十郎のほうを向いた。


「ああ」


 中折れ帽の天然者はその返事を最後に、いつのまにかいなくなっていた。

 というのも、五十郎は彼のことを見ていなかったからだ。

 五十郎は、薄暗がりのなかでぼうっと白い、目のまえの恐怖存在から目を離すことができなかった。

 彼が手も足も出なかった天然者を、一瞬にして風のまえの塵に変えた恐怖存在から。

 それが一歩一歩近づいてくるさまから、目を離すことができなかった。


「行こう」

「……!」


 恐怖存在が手を伸ばしてきたとき、五十郎は反射的に、くの字になって後ずさろうとした。


「いまは大丈夫だから」


 しかし、恐怖存在は特に気にしたふうもなく、問答無用で近づいてしゃがむと、五十郎を転がしてうつぶせにした。彼をいましめている毛の余りで、腰の後ろに輪をつくり、それに右手の人差し指と親指を通して、五十郎をげる。

 それから壁に向かって跳躍、三角跳びを繰り返して上昇していき、雑居ビルの屋上まで上がった。

 直後、制服警官たちが路地に入ってきた。銃声のような音がしたという通報でもあったのだろう。


「彼らもいるし。まだ明るいし」


 恐怖存在は端的に説明すると、五十郎を寿司折すしおりみたいに引っ提げて、雑居ビルの屋上をゆっくりと渡りはじめた。

 五十郎の目に、どんよりとした黒い空が映る。

 かさぶたが割れて、傷がまたひらいたときのように、ところどころじわじわと、赤が滲みはじめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る