死なずの公爵閣下に捧ぐ、偽装結婚と死の呪い

冬至 春化

プロローグ

第1話 歴史に残る死の呪い


 生物に付与する術式は定着しづらく、その解決策として古より呪術が使われてきた。

 術者の明確なイメージと強い感情、特定の呪文があって成立する呪術は、この数百年で、より簡便かつ実用的な現代魔術に取って変わられた。


 大規模な呪術が最後に使われた記録は、優に二百年前のことである。


 当時の王の戴冠式において、政敵の雇った呪術師が王へと死の呪いを放った。幸いにもその場に居合わせた王弟の反転魔術によって、暗殺未遂は事なきを得た。


 しかしこの事件を受けて、使い手の減少により消滅寸前だった呪術に関する知識は完全に排他、封印されることに、


「……さま、」


 封印、されることに……


「お嬢様っ」


 封印されることになった、のだった…………。





「お嬢様、起きてください! 奥方さまが怒髪天を衝きそうです!」


 侍女にゆさゆさと体を揺すられて、リンナはやっとの思いで細く目を開けた。

「いま、何時……?」

「正午を過ぎた頃でございます!」

 しょうご、と言葉がしばらく入ってこずに、明るい天井を見上げながらぱちぱちと瞬きを繰り返す。


 直後、勢いよく扉が開け放たれたかと思うと、顔を真っ赤にした母が姿を表した。

「エディリンナ・セラクタルタ!」

「はいっ!」

 一喝され、リンナはバネ仕掛けのごとく跳ね起きた。戸口のところで腕を組んでいる母は、元軍人というのも頷ける威圧を放っている。


「私の可愛い愛娘に、今日の昼過ぎに何の用事があるか、教えて差し上げましょうか」

「あ、えと……」

 四方八方に跳ねている髪を撫で付けながら、リンナは目を泳がせた。今日って何かあったっけ?


 呆れ顔で、母が歯切れよく宣言する。

「公爵閣下との顔合わせ、です」

「こ、公爵閣下? 私に用事があるんですか?」

 戸惑いながら聞き返すと、母は今度こそ完全に呆れ果てた顔になった。

「あなたの、縁談です」

 一音ずつ区切って言われた言葉を、リンナは五回ほど反芻する。


「……えんだん?」

 身に覚えがないので誤魔化し笑いを浮かべると、母の顔が赤を通り越してどす黒くなった。



 ***


「いきなり当日になってそんなこと言われても困ります、お母様!」

「半月まえには伝えたはずですし、それからも二、三回は声をかけたでしょう」

「えっと……」

 覚えがないことから察するに、考え事でもしていて生返事で流していたのだろう。侍女も後ろで頷いており、どうやら自分の落ち度のようだ。


(縁談……公爵閣下……私と?)

 言われた言葉が切れ切れのまま頭の中を回っている。要するに、どういうこと?

(……私と……公爵閣下の……縁談?)


 一瞬息が止まった。

「……嫌です! どうして公爵閣下なんて凄い人が私との縁談を持ちかけるんですか!?」

 ようやく事態を把握して、リンナは悲鳴を上げた。


「絶対におかしいわ。何か良くない企みがあるに決まっています!」

「どうしてそう人を疑うの。あなたの生涯でこれ以上は望めないくらいの良縁ですよ。こんな有難い申し出を断る馬鹿がいますか」


 手早く身支度を整えられながら、リンナは目顔で母に訴えかける。

「私みたいな、変人で地味顔で田舎者の『呪術マニア』に、そんな凄い縁談が来るはずがありません! もしかしたら妙な契約を結ばされて高額な金銭を要求されるのかも」

「そう卑下するものではないわ。仮にも王都の学園を首席で卒業したんだから、もう少し胸を張りなさい。……まあ、あなたの自己認識もそこそこ事実ですが」


 髪を結い上げられながら、朝食兼昼食の軽食を口に突っ込む。その間も、リンナは降って湧いたこの事態に思考を巡らせていた。


(公爵ってことは、王族に近しい親族の方のはずだわ。一体どなたのことかしら……この期に及んで『誰でしたっけ?』とか聞こうものなら、また怒られそう……)

 相手の正体はともかく、公爵位を持っていて自分に縁談を持ちかけるような男性に心当たりはない。


(やっぱり詐欺のたぐいに思えるわ)

 そう結論づけて、リンナは昨晩読みふけっていた呪術書の内容を思い返した。今朝の大寝坊の原因になった本だが、大変興味深かった。


 真実を吐かせる呪術がどこかのページに記されていたはずだ。呪文や儀式も、現代で再現しようとして不可能ではなかった。

(あとでもう一度確認しておこう)


 鏡の中でぼんやりとしている女が、侍女たちの手によって多少は見られるご令嬢に作り替えられてゆく。その頭の中を占めているのは、既に廃れて長い古魔術のひとつ――呪術だった。



 代々優秀な軍人を輩出することで有名なセラクタルタ家において、長女エディリンナは突然変異の賜物だった。

 父も兄弟も力こそパワーな脳筋で、母は最も合理的な判断を良しとする厳格な退役兵。

 にも関わらず、幼い頃からリンナが最も好んだのは埃臭い図書室だった。薄暗い部屋の奥で、役にも立たない魔術書ばかりを読み漁る日々である。


 下手に才があったのも、リンナの変人に拍車をかけた。名家の令嬢が数多く通う由緒正しい女学院では彼女の知識欲を満たすことができず、卒業を待たずに王都の最高学府へと飛び級で転入。


 それだけでは飽き足らず、研究院にまで進学して魔導士マジックマスターの学位まで得た彼女は既に二十歳間近になっていた。地元へ帰ってきた頃にはすっかり浮世離れした変人である。



(……もしかして、公爵閣下を呪うのって、ちょっとマナーがよろしくないのかしら?)


 公爵が到着するまでの僅かな猶予を狙って、リンナは自室に戻って自白の呪いに関する記述を確かめていた。

 方法は簡単で、片手で結べる印と特定の呪文、真実を求める心さえ揃っていれば、視線を向けられた対象者は質問に嘘をつけなくなるという。


(お母様には、言わない方が良さそうね)

 考えながら、リンナは呪文を口の中で繰り返し反芻した。記されていた形に指を組んで見る。少々不自然だが、やたら目を引くという程ではないだろう。


 部屋を出ると、母はリンナが逃げ出しやしないかとやきもきしながら待っていた。

(本当に効く呪術なのか、試さなきゃだわ)

 リンナはちょっと迷ってから、背中に回した片手で印を結び、口の中で素早く呪文を唱えた。


「お母様、今日いらっしゃる公爵閣下のこと、どう思います?」

「そうね……あまり名前も聞かない方だし少し胡散臭くも思うけれど、陛下から直接持ちかけられた縁談だし、危険なことはないと思うわ。そもそも王家肝煎りの縁談を断るなんてできないわよ」


 言ってから、母はどうして口を滑らせたのだろうと目を白黒させている。ふぅん、と内心で呟いて、リンナは指を崩した。

「分かりました。ありがとう」

 やはり、単なる縁談ではなく訳ありらしい。それにしても王家まで絡んでいたとは、随分と話が大きくなってきた。



 門扉に取り付けられている呼び鈴が鳴らされる。リンナは窓に歩み寄って外を眺めた。門の前には重厚な黒塗りの二頭立ての馬車が止められており、まるで棺のような印象を受けた。お出ましね、と目を眇める。


(その正体、見抜いてやるわ――公爵閣下!)


 印を結んだ片手を顔の前に立て、リンナは短い呪文を思い浮かべた。

 馬車の中から姿を現したのは、さらりとした金髪が優雅な青年である。その出で立ちを睨みつけ、彼女は好戦的に頬を吊り上げた。

 もう一度、復習するように呪文を唱える。


 二百年もの昔に消え去った、古いことばでただ一言。

『真実を顕せ』

 紅を乗せた唇が空気を震わせ、微細な振動が風となって渡ってゆく。







 深山、湖畔の湿った石造りの城をねぐらにするアルラスは、静寂と平穏を好む性質だった。

 事情を知る人間からは「爺の隠居」などと身も蓋もない言われようの生活である。


 それが、いきなりこんな開けっぴろげな畑地のど真ん中に引っ張ってこられて、彼は既にだいぶ不機嫌であった。

 乾いた耕作地帯の真ん中に、堅牢な造りをした屋敷が建っている。交易街でもない小さな街に隣接しており、全体的に派手さのない景観だ。

 視線を遠くに向ければ、地平線の少し手前に巨大な砦がそびえ立っている。


 庭先では小さな花壇を腰の曲がった老婦人がつつき回しており、どうやらこれから球根を植えようというらしい。実に生活感の溢れる光景である。


「着きましたよ、叔父上」

「随分と辺鄙なところにあるんだな、田舎貴族か」

 土臭いとぼやきながら、アルラスは体を起こす。本当は家畜の糞の臭いの方が鼻についたが、わざわざ発言しないだけの良識はあった。

 先に馬車を降りた『甥』を眺めながら、聞こえよがしにため息をつく。


「それで、ここにいる『会わせたい人間』ってのはどんなのなんだ」


「そうですねぇ……」とファランが言い淀む。

 柔らかく、輝くような金髪の優男。本当に同じ家系の人間なのか疑いたくなるが、彼が産まれるまでのことはアルラスが一番よく知っている。

 間違いなくファランは自分の血縁である。


 最小限の使用人とアルラスしか住まない城にファランが現れたのは、今日の朝方だった。先触れの使者とほとんど同時に門を叩いた姿は、まさしく襲来といってよい勢いである。

『会わせたい人がいる、きっと叔父上も気に入るから着いてきてほしい』

 断固として拒否したはずなのに、口八丁手八丁であれよあれよと転移装置に乗せられたかと思えば、馬車に突っ込まれてここまで来てしまった。


 道中、アルラスは目的の相手は何者なのか、何の用で行くのかと、何度も同じ質問を繰り返した。しかしファランは一度もはっきりとした答えを返さない。


 結局、到着した今に至ってもアルラスが知っているのは『エディリンナ・セラクタルタ』という名前のみ。世情に疎い彼には、その正体がいまいち分からない。響きからして女だろうが、いまいち覚えのない家名である。


「いい加減、どんな相手なのか教えてくれていいんじゃないのか」

 苛立ちながら繰り返すと、ファランはようやく口を開く。


「一言でいうと、変人だと聞いています」


 言ってから、ファランは「あれ?」と口元に手を当てて目を丸くした。

「言うつもりなかったんですけど、つい口から飛び出しちゃいました」

 なんでかなぁ、と首を捻っている甥を半目で見て、アルラスはため息をつくと馬車を降りた。今すぐ帰りたい。

 彼は人と関わることを殊更に厭うたちだった。同時に、無駄や手間を嫌うたちでもある。

(ここまで来たのだから、何もせずに帰るのも勿体ない、か……)


 玄関に向かってすたすたと歩きながら、彼は肩を竦める。

「なるほど分かった。お前が今まで頑なに『会ってみてのお楽しみ』だと濁していた理由がな。ろくな相手じゃないわけだ」

「お、叔父上、さっきのは言葉の綾ですよ! 確かにちょっと変わっているところはあるらしいですが、それだけじゃないんです」


 慌てて追いすがってきたファランが、人差し指を立てて唱える。

「学園を首席卒業、幼い頃から神童と呼ばれた才女です。頭の切れる人だと聞きましたし、きっと叔父上とも話が合うはず! 仲良くなれますよ!」


 ぞく、と背筋を不快な感情が駆け上がった。

 忌々しい呪いに支配された体が、静かにざわめく。胸元を掴み、アルラスは舌打ちと同時に呻いた。


「俺は、親しい人間は不要だと言わなかったか?」

 言い聞かせるように、その言葉を反芻する。

「えへへ……でも、僕だって叔父上が笑って暮らせるようになって欲しいんです。そのためなら助力は惜しみません!」

 人懐こい笑顔を浮かべた甥を一瞥して、アルラスは頭を掻いた。


 手に入れたものは、いつか必ず失うものである。何度も期待し、そして失望してきた。もう心を殺し、さながら大木のように、悠然とただそこに在り続けようと決意したはずだった。

 それなのに、こうして笑顔を向けられてしまえば、浅ましくもこの心が安らぐのである。


 アルラスは強く拳を握った。この世に生きるすべてのものは、どうせ自分を置いてゆく。

(もう俺は、何にも心を動かさないと決めたはずだ)

 胸の内で何度も唱えて、迷いを振り切るように顔を上げる。




 開かれた玄関の向こうで、猫のように真ん丸な目をした女と目が合った。同じく猫毛の前髪が、風に吹かれてふわふわと浮いている。

 何度もぱちくりと瞬きをしながら、彼女は品定めしているのを隠そうともせずにこちらを見ていた。


 人の理を超えて二百年余りも脈打ち続けてきた心臓が、大きく跳ねる。



 ***


(ど……どっちが公爵?)

 にこにこしてる細身の金髪と、人相の悪い長身の黒髪。どちらも歳のほどはほとんど変わらず、二十代半ばくらいに見える。


 リンナは首を傾げながら、玄関の扉をくぐってきた二人を見比べた。

(でも、公爵位って王家に近い親族とかに与えられるものよね。国王陛下は金髪だったし、確かお顔もあんな感じだった気がするわ。つまり、こっちが王族の血縁だから……)

 母と金髪がにこやかに挨拶を交わしているのを眺めながら、リンナは結論づけた。


(こちらの金髪の方が公爵閣下で、後ろにいる黒髪の人は護衛ね!)


 仕事で来たくせに所在なさげに立ち尽くしている護衛と目が合ったので、愛想良く微笑みかける。一瞬だけ驚いたように目を見張るが、すぐにもとの仏頂面へ戻ってしまった。

(まあ、愛想の悪いこと)

 リンナは内心でため息をつく。軍人家系に生まれ育ったリンナにとっては、無骨な男はそう珍しい相手ではない。



 母に促され、リンナは努めて恭しく礼をした。

「エディリンナです。お会いできて嬉しいですわ、公爵閣下」

 金髪の青年に向かってそう告げた瞬間、背後で母が言葉にならない悲鳴を上げた。


「馬鹿!」と動転したらしい母が客前ではっきり発言してしまう。母らしくもない失態であった。

「あなた今まで話聞いてなかったの!?」

「ごめんなさい、聞いてなかったです!」

 何かしでかしたか、と青ざめると、母に腕を掴まれて引き戻される。


「公爵閣下は、あちらの方!」

 耳元で囁かれ、リンナは思わず黒髪の男を二度見した。

「じゃあ公爵閣下を差し置いて前に出てるこっちは誰なんです!?」

「王子殿下!」

「王子殿下!? 王子が何の用でついてきてるんですか!」

「知らないわよ!」

 お互い無声音でやり取りしていたつもりだったが、どうやら丸聞こえだったらしい。視線を向けられた王子殿下が笑顔でひらひらと手を振る。


「別に全然気にしてないですよね、叔父上?」

「…………まあな」

 返事はほとんど地鳴りのような低音だった。

(絶対怒ってるじゃない!)

 リンナは内心で悲鳴を上げた。


 いくら世間知らずといっても、最低限の礼儀くらいは持ち合わせている。やらかしたことも理解している。ぱくぱくと口を開閉させて言葉を選ぶが、言い訳は出てこなかった。

 出会い頭に二重の失礼をぶちかましてしまったのである。今から何とか取り繕えるものではない。


「僕は、ファランと申します。こちらがアルラス叔父上。公爵としてリェヌエール領を治めておられます」

 肩を揺らして笑いながら改めて名乗った王子と、見事なまでの渋面になった公爵。どうやらろくでもない顔合わせになりそうだ。



「おい」

「はい」

(随分と偉そうね)

 応接間へ向かうまでのほんの数歩の間のことである。横柄に声をかけられて、リンナは努めて淑やかに応じた。

 目つきの悪い公爵閣下は、じろりとリンナを睥睨して吐き捨てる。

「俺についての話は既に聞いているのか?」

「えっと……」

(何の話?)

 そもそも縁談自体を数時間前に知ったばかりです、とは言えずにリンナは言い淀む。煮え切らない態度を否定ととったのか、アルラスが聞こえよがしに嘆息した。


 あいつの人を見る目はおかしい、と独りごちる。

「言っておくが、俺はこんな小娘と仲良くお友達になるほど落ちぶれたつもりはない。礼儀で席にはついてやるが、すぐに帰らせてもらうからそのつもりでいろ」

「は!?」

(私だってこんな失礼な人と仲良くなるなんて願い下げですけれど!)


 ファランと母は前方を歩きながら何やら話し込んでおり、低い声で囁いてくるアルラスの言葉を聞いた者は他にいない。リンナは唖然としてアルラスを見上げた。


「そもそも、あなたが申し込んだ縁談じゃないですか!」

 思わず言い返した瞬間、切れ長だったアルラスの目が真ん丸に見開かれた。

「縁談?」


 嫌な予感に、思わず足元がふらつく。

「誰の縁談だ? ファランか」

「あなたの、縁談です」

 数時間前に聞いた気のする台詞を返しながら、リンナは事態をようやく把握していた。

 要するに、自分たちはお互いに状況を分かっていないまま顔合わせと相成っているらしい。


 アルラスの顔が見る間に赤くなってゆく。

「俺は、そんなこと聞いていないぞ!」

「私だって数時間前に知ったばかりです!」

 私の場合はただの不注意だけど……と口の中でもごもご付け足しながら、リンナはアルラスに向き直った。

「……ちなみに、私と結婚する気はあるんですか?」

「あるわけないだろう!」

 ここまで断言されるのも腹が立つが、どうやら互いの利益は一致しているらしい。視線が重なる。


「この話、協力して破談にしましょう」

「……了解した」

 頷き合って、リンナとアルラスは堂々と応接間へと足を踏み入れた。心なしか二人揃って精悍な顔つきであった。



 ***


「俺は、誰とも連れ添わないと言ったはずだぞ」

「あれ? そうでしたっけ。まあ良いじゃないですか」

「よりによってこんな薄ら馬鹿の女に引き合わせて、結婚相手にどうだだと?」

「無理に恋仲になって欲しいとは言っていないですよ。僕にも考えがあるんです」


 目の前で白熱した論争が繰り広げられているのを眺めながら、リンナはのんびりとハーブティーを啜った。協力するとは言ったが、この分だとアルラスが一人で縁談をなかったことにしてくれそうな剣幕である。

 それにしても酷い言われようだ。


 耐えきれなくなったのか、ファランがついに声を高くして諌める。

「そのような仰りよう、エディリンナ嬢に失礼だとは思わないんですか!」

「ああいえ、お気にせず」

 にこにこと口を挟んで、リンナはかぶりを振った。


「確かに同級生でも既に嫁がれた方は多いですが、私自身、生活できる程度の収入はありますし、以前から学園の方からも教鞭を取ってくれないかと声をかけられていて。急いで結婚する気はないんです」


 笑顔でそう告げると、珍獣でも見るみたいな目でアルラスがこちらを眺める。祖父の前で同じ内容を話したときも、似たような目つきで見られたものである。

 一昔前の価値観の強い田舎では、女が家を出て一人で生計を立てるというのは珍しいものらしい。それにしたっておじいちゃんと全く同じ反応とは、格式高い公爵家の伝統文化には恐れ入る。



 もっと分かりやすい理由を伝えておいた方が納得もしやすかろう、とリンナは続けて口を開いた。


「それに、私みたいに変人で可愛くもない、不気味な呪術マニアを好んで娶る殿方などおりませんよ。はは」


 わざわざ人前で自分を卑下するな、と両親に何度も忠告されたものだが、どうしても抜けない癖である。空気が凍り付いたことに気づいて、やってしまったことに気づく。咄嗟に口を噤んだが、ファランは気遣わしげな表情でこちらを見ている。

 しんと静まり返った室内で元気に舌打ちをしたのはアルラスだった。


「おおかた、好いた男にそう言って振られでもしたんだろう。貴女の傷心も幼さも結構だが、無理やりそれを見せびらかされるのは不快だな。貴女が傷ついた埋め合わせを他人に押し付けようとしないで頂きたい。よくもまあ客人に子守りをさせようという気になるものだ。無礼だよ」


 嘆息して、アルラスが大きな動きで足を組んだ。リンナは身動ぎできずに硬直する。


「叔父上っ!」

 悲鳴を上げて、ファランが立ち上がった。隣で母が口を覆って絶句する。二人揃ってリンナを振り返る。

「なるほど……」

 リンナは顎に手を添えて呟いた。


 言われてみれば、確かに思い当たる節はあった。

 些細な話である。学園にいた頃、級友の男子生徒たちが賭け事をしていた。――リンナに交際を申し入れて、受け入れるか否か、と。

 頬を染めて頷いた直後、物陰からわらわらと湧いてきた人影とその笑い声を、リンナは今でも覚えている。呆然として立ち尽くすリンナに、彼らは腹を抱えて笑ったのだ。

『本気でお前に告白する訳ないだろ! 呪術なんてやってる薄気味悪い女に、誰が好き好んで近づくかよ!』


 どっと湧くような嘲笑が耳の底に蘇った。なんてことない悪戯だと思っていたが、きっと自分で思っていた以上に傷ついていたのかもしれない。



 リンナは真顔でアルラスを見上げた。

「ありがとうございます。教えて頂かなかったら私、ずっと気づけなかったかもしれません」

「ふん、苦しゅうない」

 芝居がかった仕草で鼻を鳴らしたアルラスを一瞥して、リンナはこれ見よがしに頬杖をついた。


「同時に、閣下がご結婚を望まない理由も察せられましたわ。言葉を選ぶという芸当は、実直・・な閣下には少し難解すぎるみたい。女性に限らず、閣下と生活を共にするには並大抵の忍耐力では務まりませんわね。それこそ聖母のように無償の愛を注ぎ続けられる方を探した方がよくってよ……実在すれば、ですけど」


 はん、と息を吐きながら放言すると、アルラスは一瞬呆気に取られたように絶句した。それから苛立ちも露わにこちらに身を乗り出す。


「どうして俺が、相手の顔色を窺って媚びへつらうような真似をせねばならんのだ」

「人は一人で生きられませんのよ。双方が円滑な人間関係を築く努力をするのが最低限の礼儀じゃありませんこと」

「どうやら貴女も、その最低限の礼儀を果たせていないように見受けられるがな」

「あら、私、礼儀を失している方に払うべき礼儀は持ち合わせていませんの」


 あわわわ……とファランが勢いよく両者を見比べて狼狽える。


「だいいち、人間関係なんていう無意味なものにかかずらって己を殺すことの方が余程愚かしいだろう」

「分かった、閣下って友達いないでしょう!」

「友達などという下らない関わりは俺には不要だ」

「あー、それって友達がいない人の常套句だわ!」

「どうせいつか失う友を得て何になる!」

「真心で接すれば、一生の友達だってできるものよ!」


 売り言葉に買い言葉。どんどん声が大きくなり、仲裁するファランや母の声も耳に入らない。

「友達があなたから離れていくのは、あなたのせいなんじゃないの!?」


 立ち上がって言い放った瞬間、恐ろしいほどの沈黙が落ちた。息をすることさえ躊躇われるような静寂だった。心持ち顔を伏せたアルラスの目元には影が落ち、表情は分からない。

 咄嗟に口を噤んだリンナの眼前で、アルラスは低い声で呻いた。


「――何も知らない女に、とやかく言われる筋合いはない」


 その声のあまりの暗さに気圧されて、リンナは言葉を失う。

「し、知らないも何も、言われていないんだから知るはずがないじゃない」

 臆したことを悟られまいと、返事は必要以上に強くなった。短い舌打ちとともに、威圧がふっと掻き消える。


「帰る」

 肘掛けを押して立ち上がったアルラスに、ファランが「待ってください!」と悲鳴を上げた。アルラスの腕を掴み、目顔で説得するように視線を向ける。

「だ、駄目です」

「何がだ。こんな無礼な女と俺が結婚できるとでも思っているのか」

「エディリンナ嬢じゃなきゃ駄目なんです。彼女は、その……」

 ちら、とファランがこちらを窺った。聞かれたくない事情があるらしい。リンナがそっと耳を塞いで後ずさると、ファランがアルラスの耳元に手を添えて何事か囁いた。


「何だと! 俺が、こいつに助力を乞うなど……!」

 耳を塞ぐ手を丸っきり貫通する怒声だった。リンナは目を見開いて様子を見守る。

「叔父上!」とファランが負けじと大きな声を出した。

「どうしてここに来て急に頑なになるんです。普段は仰らないような暴言ばかり吐いて、一体何が目的なんですか!?」


 耳に手を当ててはいるが、こうなると会話は丸聞こえである。リンナは少し考えてから、そっと片手を下ろして背に隠した。

『真実を顕せ』

 口の中で呪文を唱え、指を絡めて印を結ぶ。時を同じくして、アルラスは立ち上がって吼えた。




「どうせ俺は永遠に死ねんのだ、必ず置いていかれると分かっている相手に心を開いて何になる――俺はもうこの二百年で十分罰を受けた。もう誰も見送りたくはない、……これ以上何も、失いたくはない!」




 叫んでから、彼は時が止まったように硬直した。リンナは片手を背に回したまま、大きく目を見開いて動けない。

「……貴様、何を……した」

 油の切れた蝶番が軋むみたいに、ゆっくりと、ぎこちない動きでアルラスがこちらを振り返る。


「な、なにも」

「喋るな。一言でも口を聞けば殺す」

「あなたが訊いたんじゃな、っ」

 大股で机を回り込むと、リンナは無理やり腕を掴まれて立ち上がった。踵が浮く。大きな手で顔を掴まれ、掌で口を塞がれた。

「リンナ!」

 母が甲高い声で叫ぶ。ファランが非難の声を上げた。


「――自白の呪術だな? はっ、尋問官気取りか」

「んぐ、むむ……!」

 指を組んでいた片手を捻りあげられながら、リンナは必死に首を捻ってアルラスを凝視していた。


(……にひゃく、ねん)



 脳裏をよぎるのは、かつて聞いた都市伝説である。この世で、呪術が歴史に刻まれた最後のできごと。口の端、僅かな隙間からリンナは呻いた。

「ロルタナ・A・アドマリアス……!」

 時の王弟であり、兄の戴冠式の際に暗殺者によって放たれた死の呪いを、身を呈して跳ね返した英雄。


『死の呪いを逃れたという例は他に記録されていない。まさに奇跡のような出来事だった。そのときの死の呪いが妙な形で作用して、ロルタナは不老不死となって今も生き続けている、だなんて言っている人間もいるくらいだ』

 恩師は呪術の専門家ではなかったが、胡散臭い噂を含む豊富な知識を持っていた。


『何だってそんな荒唐無稽な噂話が……』と呆れ顔をしたリンナに、教授は悪戯っぽく指を立てたのだ。

『言う人がいるのさ。今もなお、若いときの姿をしたロルタナが街を歩いているのを見たのだ、とな』



 ロルタナ・A・アドマリアス。

 書物に記されている、二百年前に生きていた人の名である。その名を口に乗せた瞬間、アルラスの顔色がさっと変わるのを見た。

 苦虫を噛み潰したように顔を歪め、喉の奥で唸る。どうやら自分は良くないことを言ったらしい。一同の顔を順に見回す。

 リンナの母は両手で口を塞いで絶句し、ファランは覚悟を決めたように目を見開いている。


 最後に顔を後ろに向けると、アルラスは微笑もうとでもしたのか、一瞬だけ頬をぴくりと動かした。


「……随分と察しが良くて、聡明なお嬢さんであることに間違いはないようだ」

 全く思っていなさそうな苦々しい口調で吐き捨てる。


 くるりと体を反転させられ、母の方に向けられる。母は必死に悲鳴を飲み込む仕草をみせた。


 アルラスは実に嘘くさい爽やかな口調で言ってのけた。

「気に入った、結婚しよう。なに、れっきとした恋愛結婚さ――つい一目惚れしてしまってな」


 片手で口を塞がれ、反対の手で両手首をまとめて掴まれたまま、リンナは目顔だけで必死に拒否を示した。

(何を言っているの!?)


 さっき、協力して破談にしようって言ったじゃない!

 声にならない絶叫を上げて、リンナは足をばたつかせる。その拍子に踵が爪先を踏みつけ、アルラスが背後で「ぐっ……」と声を漏らした。


「閣下! あ……あんまりですわ! 確かにリンナは至らぬところのある娘ですが、大切な我が子です! 少々不興を招いただけでそのような当てつけをなさるなど、閣下の品性を疑います。受け入れられようはずがございません!」

 母が憤然として立ち上がり、目を怒らせてアルラスと対峙する。顎を引き、中腰になった姿はさながら豹のようである。今にも飛びかかりそうな母の姿に、リンナは青ざめる。


「あなたに拒否権があるとでも思っているのか?」

 冷水を浴びせかけるように、アルラスが頬を釣りあげて吐き捨てた。

「そういえば、セラクタルタ家でようやく思い出した。王都の騎士学校に、三男坊が通っておられるだろう。卒業後の配属は、学内の成績や適性を踏まえて軍部の上層部で決定されるが、俺はそちらの方面に顔が効く」


 恫喝の色を帯びた声音に、リンナは毛を逆立てるような思いで歯ぎしりする。

「ところで、南部の前線では随分と人手が不足している。どうしても人員の補給が追いつかず、この二十年余りで戦線は五度に渡って後退し続けている。卒業直後の新米の手だって借りたいそうな」


(南部戦線……魔獣の住む荒野と人の居住地を分ける巨大な砦……)

 とんでもない辺境にあるという南部戦線は、一度足を踏み入れればおいそれとは帰って来れないという。

(国内のどこよりも死亡率が高くて、五体満足で任期を終える者はごく僅かっていう、あの『魔境』……!)


 結婚の話を受け入れなければ、リンナの弟を最も危険な前線に送り込んでやるということらしい。

(こんなの、脅迫じゃない!)

 身動きも取れず、リンナは鼻息荒くアルラスを睨み上げた。腕を振り払おうと肩に力を入れるが、びくともしない。


 アルラスはなおも嘘くさい薄ら笑いで語り続ける。

「同時に、儀仗兵の人員に空きがあるという話も聞いている。剣技、家柄、品性や容姿、全てが揃った者のみが任命される花形の役職だ。もし結婚を承諾して頂けるなら、義兄のよしみだ、彼を誉れある地位に推薦することも、やぶさかではないのだが」

(この、男……ッ!)

 リンナは目を剥いて、内心でありったけの罵倒を並べ立てた。聞こえていないはずなのに、まるで全て承知したような顔でアルラスが目を細める。


「聡明な才女殿なら、正しい答えは分かるな?」

 耳元で、低い声が囁く。口から手が外され、答えを促すようにアルラスが首を傾げた。

 母は蒼白な顔で立ち尽くしたまま、しかし部屋の壁に飾られている剣との距離を視界の端で測っているのが分かる。装飾的な剣に見えるが、あれは紛れもなく鍛え抜かれた真剣である。万が一母があれを取って、公爵あるいは王子に向けたら、まずい。


 リンナは低い声で口汚く悪態をついた。それからひとつ深呼吸して、努めて穏やかな声で告げる。



「……分かりました、閣下。そのお話、謹んで受けさせていただきます」

 今にも喉笛に噛みつかんばかりの形相で、リンナは食いしばった歯の隙間から声を絞り出した。


「愛してますわ、アルラス閣下。実は私もさっき一目惚れしちゃったんです! うーん、これでお母様も安心ね。お父様やお兄様たちには、私が運命の出会いを果たしたって言っておいてください」

 母が息を飲むのが聞こえた。小さく首を振る母の顔から目を逸らして、リンナはアルラスを睨みつけた。

「そりゃあ結構。格別の寵を授けてやるさ、――どちらかが死ぬまでな」

 鼻先が触れ合いそうなほどに顔を突き合わせて睨み合う。

 耳の奥が強く脈打つほど頭に血が上る。リンナはいつになく怒り狂っていた。



(どんな手を使ってでも、一年以内にでも離縁してやるわ!)

 決意に燃えるリンナの背後で、母とファランがへなへなと同時にへたり込んだ。

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