芽野さん

■7月5日(火)

◆蝶谷未散

 

 今どき珍しい公立の女子校である「華羽かばね女子高等学校」。その二年三組の教室の机で一人、未散はぼんやりとチャイムが鳴るのを待っていた。

 彼女に「昨日休みだったけど、サボりか~?」と茶化してくれるような友達は一人もいない。 

 

 未散は昨日、病欠した。六時半のアラームで一度目覚めた時はなんともなかったのに、その三十分後の七時のアラームが鳴った時、彼女は耐えがたい頭痛に襲われたのだ。あまりの激痛に、気を失ったように一日寝込んだ。

 しかし翌日の今日は、すっかり回復した。


「まさか、病気は関係ないよね……」

 心配で、未散は思わず独り言を呟いてしまう。


 彼女は脳に持病を抱えている。勉強にも運動にも支障のない病気だと医者には言われているけど、半年に一度病院で定期検査は受けている。まだ定期検査の時期ではないけど、念のため病院行った方がいいかな……。


終里町おわりちょうで殺人事件だってさ!」

 突然、生徒の一人がスマホを見ながら叫んだ。

 終里町は、隣町だ。


「うっそ、マジ!?」


「終里町のどのへん?」


「イオンモールの近くっぽい!」


「えー! うち、そこよく行くのに! こわ~!」 


 教室中がざわつき始め、生徒はおのおのスマホを取り出し画面にかじりついている。


 未散はその事件については、今朝テレビのニュースを見て既に知っていた。昨夜、終里町の路上で、少女が体じゅうを刺されて死亡したという事件だ。

 クールキャラ気取りだと思われるのも癪なので、未散も義務的にスマホを取り出し、事件に興味があるふりをしておいた。でもわざわざネットニュースを見る気にはならず、そばかすの浮いたぱっとしない顔が反射する暗い画面をぼうと眺めるに留めた。


「死んだの、高一の福田春風ふくだはるかぜって人だって! 誰か知ってる?」


 みんな口々に「知らない」と答えた。


「犯人まだ捕まってないっぽいよ! ここに逃げてきたらどうしよ~!」


「それはないない! 木を隠すなら森の中、人を隠すなら人の中って言うじゃん? 誰が好き好んで、こんな寂れた町に隠れようとするんだよ~?」


 未散が現在住んでいる華羽町かばねちょうは、綾女市あやめしのはずれの、絶妙に寂れた町だ。ここは未散の生まれ故郷なのだが、彼女が小4の時に引っ越して、各地を転々とした後に、また戻ってきたのである。帰郷して、もうかれこれ一年半が経過する。


 殺人の話題に浮かれるクラスメイトたちをよそに、未散は視線を窓際の席にやった。そこはもう、二週間近く空席になっている。


「あー! 姫奈ひな!」

 誰かが叫んだ。


 それを合図にしたように、教室がしんと静まり返る。教室中の視線が、前の扉に集中していた。


「おはよう、みんな」


 すらりと背が高く、癖毛のベリショの髪がよく似合うボーイッシュな少女が教室に入ってきた。窓際の空席の主の、芽野姫奈めのひなだった。


「姫奈ー! 寂しかったよー!」


 生徒が一人、姫奈に勢いよく抱き着いた。


 それをきっかけに、沈黙していた生徒たちもわっと騒ぎ始めた。もう殺人事件のことなんて忘れてしまったかのように、みんなが笑顔で姫奈の名前を口にする。


 姫奈は「僕も寂しかった」とほほ笑み、抱き着いてきた相手の頭を撫でた。ナチュラルに僕っ子なのだ。


 クラス中から黄色い悲鳴が上がる。


 女子校でも、こうしてモテる子は存在する。姫奈を知るまで、漫画の中だけの出来事だと思っていた。まあ、二次元から飛び出してきたような美貌を誇り、成績も素行も良くて、オマケに優しいとくりゃ、そりゃあモテるか。


 未散も自然と、姫奈の姿を目で追っていた。その時、姫奈の目がふと、未散に向いた。

 二人の視線が交差する。


「……!」

 未散はさっと目を逸らした。


「姫奈、どうして二週間も休んでたの? LINEも既読つかないし……。インフルとか?」

 べたべたとすり寄る生徒が尋ねた。


「えっと……。まあ、そんなところかな」


「そういえば、ゴールデンウィーク前くらいから元気なかったよね。ディズニーもそれで断られちゃったし。そん時から具合悪かったの?」


「う、うん。なんか、二年生になってから、体調を崩しがちでね」


 未散は、姫奈とマトモに話したことはないが、どうしてか目が合うことが多かった。そのたびに、未散は不覚ながら赤面した。

 正直言えば、思い切って姫奈に話しかけたかった。でも、それはいけない。してはならない。誰であれ、友達になってはいけない。

 だからこそ未散は、あえて人を遠ざけ、わざと孤立しているのだ。

 だって、と未散は思う。


 私と友達になってしまったら、その子は決して無傷では済まないのだから。



 放課後。

 昇降口で忘れ物に気づき、未散は教室にとんぼ返りした。その途中で、扉が僅かに開いた空き教室を見つけ、彼女は足を止めた。人の気配があったからだ。

 未散は、そっと教室の中を覗いた。


 がらんとした空き教室の中には、二人の人間いた。一人は蜂ケはちがざき先生だった。科学の男性教師である。背が高くて美形で、生徒から絶大な人気を誇る。笑顔を絶やさない、穏やかな人だ。

 もう一人は、姫奈だった。芽野姫奈。彼女は床に視線を落とし、肩を震わせている。……泣いている?

 蜂ケ崎先生は、慈悲深そうな困り顔で、姫奈の頭上を見下ろしている。手にはスマホを持っており、画面が姫奈に向けられている。


 ……どんな状況、これ? もしかして恋愛的修羅場? 姫奈が先生にフラれた、とか?

 

 やがて、姫奈は踵を返すと、後ろの扉から廊下に飛び出した。未散がいる扉とは逆で、しかも廊下の向こうへ走っていってしまったので、存在を気づかれることはなかった。


 未散は今一度、教室の中にチラリと視線をやった。すると、扉の僅かな隙間を通して、蜂ケ崎先生と目が合ってしまった。


「蝶谷さん? いつからそこに?」


「ついさっき、通りかかって……」


 未散はぎこちなくペコリと頭を下げた後、急いで二年三組の教室で忘れ物を回収し、昇降口へ向かった。


「……びっくりした」


 未散は昇降口で靴を履きながら、大きく息を吐いた。心臓がまだどきどきしている。見てはいけないものを見てしまった気がする。

 

 昇降口を出た時、未散は、ふわりと甘い香りを感じた。さりげない、だけど思わずうっとりしてしまうような香りだ。


「動くな」


 直後、背後から声をかけられた。剣呑な響きのある、女性の低い声だった。


「おっと、振り向くな。こいつが火を噴くぞ」


 未散の背中には、何か固い物が押し付けられている。小さな筒のような何かだ。

 まさか、銃口……?


「蝶谷未散」

 背後の人物は続ける。

「君は見てはいけないものを見た」


「……え?」


「目撃者は消すのが、僕のルールでね」


「……芽野さん、なんのマネ?」


 声と、あと一人称でバレバレだった。


「へえ、察しがいいね」


 未散の背中から、筒のような感触が消えた。


 ゆっくりと振り向くと、想像していたよりずっと近くに姫奈の顔があって驚いた。

 姫奈は、片手にリップクリームを持っていた。背中に押し付けていたのはそれだろう。


「蝶谷さん。さっき、のぞき見してたよね?」

 

 バレていたのか……。


「ごめん。悪気はなくて……」


「いいよ。特別に消さないであげる」


 姫奈は、リップクリームを右手で宙にひょいっと放り投げた。それからワイシャツの胸ポケットを指で軽くひっぱり、スペースを作った。宙のリップクリームは最高到達点を経て落下に転じ、姫奈が作った胸ポケットのスペースにまっすぐ収まった。


「胸が平らだからできる技なんだ。蝶谷さんは立派なものを持っているから、無理だろうね」


 そう言うと、姫奈は未散の胸に視線を落とした。


「そ、そうかな……」


「あ、ちょっとそのままジッとしてて」

 姫奈は手を伸ばし、未散の髪に触れた。


「ひゃっ」


 未散は反射的に、なぜか気をつけのポーズをとってしまった。髪を触られただけなのに、なぜか全身に甘い刺激が走った。


 変態か私は!?

 たぶん、それだけ長いあいだ、人と触れ合っていなかったせいだろう。


「とれた」

 姫奈は未散の髪から取った埃を、ふっと吹いて飛ばした。


「あ、ありがとう……」


「さっきの反応、かわいかったよ」


「え、いや、その……」


 ああ、それにしても、なんていい香りがするのだろうと未散はうっとりした。

 芽野姫奈は、本当に現実の人間なのだろうか。エルフとかフェアリーの類ではないのだろうか。

 ……いかんいかん。足元が沼にずぶずぶ埋まっていくのを感じる。沼の奥は百合畑に繋がっている。


「め、芽野さんはさ」

 未散はとにかく何か言わないとという気になった。

「その、えっと、大丈夫だよ!」


「え?」


「芽野さんには、もっといい人がいるよ。蜂ケ崎先生は確かにイケメンだけど、なんていうか、ちょっとサイコパスっぽいし。うん。付き合って二年目くらいで本性現しそうだし。手を引いて正解だよ」


 学校の生徒相手に、ワンセンテンス以上の言葉を投げつけたのは何ヶ月ぶりだろう。一気にまくし立てた後、未散はそんなことを思った。


「ふふふ。蝶谷さんは、優しいんだね」

 姫奈は笑いをこらえているようだった。


 なんだか馬鹿にされているようで、未散はちょっとムッとした。


「蝶谷さんは勘違いしてるよ。僕と蜂ケ崎先生は、そんなんじゃない」


「でも、さっき空き教室で……」


「僕は剣道部。で、先生は、剣道部の顧問なんだよ」


 そう。姫奈は剣道部で、一年生の時からレギュラーとして活躍している。ついでに言えば、我が校の剣道部は全国レベルだ


「そっか。じゃあ、なんか部活のことで相談してたんだね?」


 姫奈はそれには答えず、笑顔で肩をすくめた。だけど両目に、一瞬だけ悲しげな光が宿ったように見えた。気のせいかもしれないけど。


「なんであれ、元気が出たよ。ありがとう」


 べつに自分は何もしていないのだがと、未散は思った。


「蝶谷さんは、やっぱり興味深いな」


 姫奈は謎めいた言葉を残し、校門に向かって軽やかに歩き去っていく。


「ねえ、芽野さん。部活にはいかないの?」


 未散の問いかけに、姫奈は振り返る。そして答えた。


「今日で部活は辞めたんだ。これからは、華の帰宅部生活さ。それじゃ、また明日学校でね!」

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