影喰らいエルド・レッド

第1話

 黒蝕荒野に太陽は昇らない。宿場で買った栗毛の若馬は十完歩もしないうちに慄き、私を振り落として逃げた。獣の死を恐れる心が逃走を選んだのだろう。私は静かに起き上がり、一面に広がる死の大地を眺める。ここが地図の裏、人間が到達できる限界点だ。

 人間が叡智によって神秘に楔を打ったのが数十年前。空白の地図は徐々に埋まり、畏れながら語られた伝説はその正体が徐々に明かされつつある。

 そのような時代において、黒蝕荒野は最後の神秘だ。あらゆる生物が死に絶える、冥府にもっとも近い場所。駆逐されつつある病や魔、災や凶が生まれた地。そこに眠る物語を記録するため、私は旅を始めたのだ。静かに燃える期待を胸に、一歩づつ着実に足を進めていく。


 歩き続けて発見したのは、朽ち果てた石積みのいしぶみだった。隆起した大地に不安定に積み重ねられたそれは、自然の賜物だとは到底思えない。この地にかつて文明があった痕跡だろうかと考え、盛り上がった土を観察する。そこに埋まっている腐敗した物体に思いを馳せた瞬間、私の耳に届いたのは金切り声だった。


 目を疑った。積まれた石の上に立つ何者かが、睨みつけるようにこちらを見ているのだ。闇に溶けるような長い黒髪に赤い虹彩の瞳がよく目立つ、長身の青年だった。

 彼はニヤリと笑うと、眼前の闇を“腕”で薙いだ。闇夜に目が慣れれば、その正体にすぐに気付くことができるだろう。異形だ。

 本来なら人間の両腕があるべき場所には、羽毛で覆われた赤黒い翼が生えている。脚は猛禽めいた鉤爪で積み石に楔を立てているのだ。

 それは、かつて御伽噺で読んだハルピュイアによく似ていた。伝説に存在する半人半鳥の怪物だ。黒触荒野には、やはり神秘が息づいているのか?


 恐怖と好奇心が私を同時に襲った。思わず後退りしながら、反射的に対話を試みる。「害をなすつもりはない」だとか「観察を終えればすぐに立ち去る」のような言葉を繰り返しながら、私はハルピュイアの表情を窺う。その眼は敵を睨みつけるように鋭く、嘲るように口許を歪めていた。間違いなく、殺される。


「動くなよ、そこを」


 やけに老成した声が耳に届く。それはハルピュイアから放たれたものではなく、私の背後から聞こえたものだ。

 遅れて鼓膜に響く火薬の音と共に、頭の横を何かが掠める。王都の辺境でよく見るマスケット銃の弾丸だ。それがハルピュイアの身体を貫くことはなく、やがて伝説の怪物は哄笑めいて啼きながら飛び立つ。その顔は既に人間ではなく、猛禽のそれに戻っていた。

 漆黒の砂地にへたり込む私を尻目に、銃声の主は石積みの碑に駆け寄る。厳しい表情の老人だ。片手に提げたカンテラの光が盛り土を捉え、不確かに揺れる。


「……失敗か。やられた」


 老人は舌打ちをすると、くるりと私の方を向く。老成した顔立ちに鋭い眼光が特徴的な男だ。硬い表情のまま、ゆっくりと口を開く。


「何者だ? この近辺に生物が寄り付くことは滅多にないぞ」

「……私もそう思っていました! 黒触荒野に生命は存在しない、不毛な大地だと!」

「質問に答えろ。……いや、いい。無謀な旅人なら、瘴気に冒される前に立ち去れ」


 そうは行かない。定説が変わる瞬間を目撃したのだ。それに、先程の怪物の生態も気になる。この地に残る物語を記録しなければ、生きている甲斐などないのだ。

 私が熱を込めてそのような事を語る間、老人の表情は動かない。少し変化が訪れたのは、私が懐から羊皮紙を出した時だ。


「これはルロー海溝のクラーケン伝説です。船を沈める巨大な怪物を退けた1人の勇者に同行し記録したもので……」

「覚悟はあるか?」

「……はい?」

「覚悟はあるか、と聞いている。俺がアイツ……“影喰らい”エルド・レッドを殺す瞬間を、記録に残す覚悟だ」


    *    *    *


 荒野の中央に建てられた小屋は風雨によって崩れ、辛うじてその姿を維持している状態だった。マスケット銃を壁に立てかけ、黒触荒野の住人——ガントウは私を屋内へ招く。


「50年前、この一帯は集落だった。その頃には充満している瘴気など無く、太陽も顔を出していた。俺の父親は、その集落で墓守をしていたんだ」

「……人類の未到達点ではなかったのですか?」

「ここまで来たならわかるだろ? この周辺は険しい山と気候条件のせいで隔絶されている。俺がガキの頃は山を越えた街道や宿場が未発達で、外の世界なんて知らなかったさ。地図に記されてないのも、そういうことだろうよ」


 ガントウは部屋の壁に干して吊るされた植物の根を千切り、咀嚼する。どこか胎児を模したような膨らみのあるそれは、私の目には見覚えのない種類だ。ペンを持つ手が揺れる。


「これか? マンドレイクだよ。この一帯にしか生えない、薬効成分のある草だ」

「引き抜いた者を絶命させると言われている、あの……?」

「その口ぶりだと、外に伝わる話も尾鰭が付いているのだろうな。死以外の万病に効く薬の元だ。乱獲を防ぐために、胡乱な噂を流すしかなかったのだろう」


 ガントウは干したマンドレイクを私に投げ渡すと、「ひと口だけ食え」と指示を出す。黒触荒野に蔓延する瘴気は数時間で肉体を破壊し、あらゆる生物を死に至らす。それに少しの間耐えるために、この根があるのだという。

 覚悟を決めて口に入れる。舌の上に乗った瞬間、背筋が凍った。体に害はないのかもしれないが、脳が拒否反応を起こしている。口内に広がる苦味や気持ちの悪さを言語化することができないまま、私はそれを飲み下した。


「最初は慣れないだろう? どうも人間の無意識的な忌避感が作用するらしい。マンドレイクには一つ特徴的があってな、人間の死体の埋まった土でしか育たないんだ」

「死体……!?」

「皮肉なものだな。無数の死を見守ってきた墓守が、生きるために墓を荒らす必要があるとは」


 所々に存在した碑は、ガントウが建てた墓なのだろう。彼は毎日見回りをしながら、カンテラを片手に祈るのだという。それなら、あの場にいたハルピュイアとはどういった関係なのだろうか?


「マンドレイクの種だが、手に入れるためには骨が折れる。“影喰らい”……お前が見た鳥のバケモノだよ。アイツらの胃の中にひとつだけあるんだ。手に入れるためには、戦わないといけない」

「……それって」

「殺したよ。生き残るためにな。アイツらの生態は、気に入らないんだよ」


 ガントウがハルピュイアを“影喰らい”と呼ぶのは、その生態からであるという。その怪物は墓を暴き、死体を啄むのだ。影を喰らった怪物は、人間の頭を手に入れる。死者の生前の似姿を取るかのように。


「黒触荒野の連中は殺し尽くした。この場所に生き残っている生命は、俺とアイツだけだ。赤い眼の古株、エルド・レッド。アイツは、ガキの頃の親友の影を喰ったんだよ」


 ガントウは憎々しげにマンドレイクを噛み、吐き捨てるように呟く。

 生存のためとはいえ、ひとつの種を滅ぼしかねないほど殺し尽くすのは余程の執着か狂気でもないと成し得ないだろう。老いた墓守の眼は、妙に澄んでいた。生半可な言葉で止めることもできないほどに、彼の積み重ねてきた碑は血で染まっているのだ。


「……因縁があるんですね。ガントウさんと、エルド・レッドの間に」

「話せば長くなる。構わないな?」


 私は羊皮紙を広げ、静かに記録を始める。黒触荒野に生を受けた、1人の人間の生涯を。

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