(中編)細工師は谷間の奥へ踏み入った

 生い茂る葦に潜む沼蛇や血吸蛞蝓といった油断さえしなければ命にまでは関わらない小型生物の生息地とは違う。判断を間違えれば死を覚悟しなければならない。


 位置を見失わないよう注意深く印を残し、足を取られないようにしながら、中継地を設けては住処へ戻りまた深部に向けて進む牛歩の日々が続く。不意を突かれれば命を失う緊張感の中、時には隙を見つけた巨大な蛇や怪鳥を射止めて丸焼きにもした。一度に運ぶ荷を減らすための携行食は木の実を煮詰めてすり潰し捏ね上げ一粒の栄養価を高めたモノだが、蓄えは徐々に減っていった。




 細工師は戦士ではなく、単身の探求には限界がある。本当に危険な異形共が出かねない深みにまでは挑めない。退路を確保しながら行って帰ってを繰り返しこれまた数ヶ月、遂に竜顎鰐を見つけた。


 子供と思しき小柄な個体を含め十数体が集い群れをなしていた。陽が中天を過ぎ早くも陰りが広がる中、水面から覗く眼に僅かな光が反射して見えた。


 ーー少しは小柄な子供を仕留めるか?


 一瞬の迷いのあとに結論が出た。まだ骨肉の発達が不十分な子では素材に不十分なことは分かっている。観察すれば大人が常に側に居て、どの個体を仕留めるにしても集団に気付かれれば命を取られるのはこちらの方なのだ。むしろ子供の方が仕留めるのは厄介そうだ。


 必要な素材を持ち帰るには孤立した成獣一頭を速やかに仕留め、解体し運び去る必要がある。細工師は樹冠に身を隠した。備蓄の猶予は減っていたが、機を窺い策を練るのに費やした。


 竜顎鰐の狩猟は見事なものだった。


 沼地の畔に現れた獲物を波間に紛れる位置から視認し水面下にその巨体を紛れ込ませる。波紋が広がるかどうかという内にスイと息を合わせながら近付くや胴長の四つん這いとは思えない素早さで一気呵成に喰らいつく。全身の骨を砕かれた獲物が無惨に千切られ奴らの口内に消えて行くのに時間はかからない。


 何よりも恐ろしいのは木々さえも薙ぎ倒して獲物を引き摺り下ろしさえすることだ。近付く一団を見落としたなら、次の瞬間には潜んでいる細工師の四肢は千切れバラバラに胃袋へ収まっているだろう。




 一歩間違えれば次の瞬間は大顎の中に居るかもしれない。そんな緊張感と戦いつつ群れから付かず離れず潜伏を続けていると、細工師はやがて群れの動きに1つの規則性があるのを見出した。


 常に数頭のまとまりで縄張りに近づく獲物を探し回っているが、その1個は絶対に離れない寝床があった。沼地の中でこんもりと盛り上がった土塊の上に、高々と木々が密生している。夜になるとその陸の上に獲物の肉塊を咥えた一団が入っていくのだ。


 ーーあの陸には何かがいる。


 細工師はそこに飛び込むと決めた。


 少なくともこの危険極まりない沼地で主と称される生き物の群れが獲物を献上しにいっている。数を数えれば山の向こうが白み始める頃には群れの全頭が沼地へ出ている計算だ。こうして運良く群れから一頭がはぐれるのを待っても好機が訪れる保証はどこにもない。


 細工師は狩猟のための最低限の荷物だけを持つと日の出と供に朝霧の中へ紛れ、群れの隙間を縫ってその陸に忍び込んだ。


 ーー居た、こいつだ。俺はこいつのためにここへ来たのだ。


 そこにはこれぞまさに沼地の主と言わんばかりの巨躯が鎮座していた。狩りをしている竜顎鰐のどの個体さえ体躯の半分程度に及べば良い方だろう。顎どころか筋肉質な尻尾の一振りさえ巨木を薙ぎ払う凶器になり得る。竜顎の異名はこいつのような個体が群れを守るため、異形共に挑んだ様から来たに違いない。


 問題はこの巨獣を細工師が狩り取れるのかだ。大鰐の死角となる位置を枝葉の中に見つけ慎重に様子を伺う。


 口の開閉からして呼吸はたしかにしているし、全身の肉質は頑健に見えるが、眼窩はその実白濁としている。長く生きてはいるものの恐らく老いも随分と進行しているのだ。目線が動いている気配はない。鳥のさえずりは聞こえるが反応する様子もなさそうだ。目だけではなく耳も悪くなっているのか、動く体力は残っているだろうか。


 首裏、脳幹を一撃で刺し貫き仕留めるための銛を取り出すと、細工師は頭上を取りに移動を始めた。


 山嶺の向こうから徐々に日が差す。微かな陽光が大鰐の巨大な眼球に当たった。


 ーー反応なし。決まりだ、こいつはもう目が見えていない。


 意を決して飛び降りるその瞬間、細工師は大鰐と目線が合うのを感じた。




 鋸角鹿の角を研ぎ澄ました穂先が細工師の体重までをも威力に換えて大鰐の急所に埋没する。


 細工師はたしかに大鰐が反応するのを感じたが、避ける動きには至らなかった。傷口から血潮は吹き上がり四肢が跳ねる。尻尾が背面へ振り回され、さきほどまで細工師が潜んでいた樹木の数本が巻き込まれていく。掠めればただではすまなかっただろう細工師にも木片が降り掛かった。


 死を待ちゆく身だったのは間違いないのに、大鰐の最期の足掻きは嵐のようだ。荒波に呑まれないよう船員が必死にマストへしがみつくのと同じ様に、細工師は銛の柄を支えにした。


 前後の肢が地鳴りのような音を打ち鳴らすと巨躯が突然に動き出す。暴れる肢の勢いそのままに浮き上がって大岩に背がぶち当たる。空を向いた後肢がゆっくりと垂れると、束の間の災害がようやく過ぎ去った。


 岩と鰐の間で潰される寸前、細工師は振り回される力を利用して空へはねた。一時自身の生死さえ判じかねたが、手足の震えと轟音を立てる心臓の動きを感じ、転がった地面で自分がまだ生きていると気付いた。


 耳鳴りはするが、まだ揺れている葉の音と遠くから聞こえる鳥類の金切り声の他は静かなものだ。細工師は四肢の先から具合を確かめていく。


 ーー動け。


 これだけの音を響かせたのだ。近くの一団が襲いくるはずだ。それまでに身を隠さなければならない。異形と並ぶだろうこの素材を持ち帰ろうと細工師は必死に手足に力を込めた。


 遠くから跳ねる水音が細工師の耳に届く。一向に静まらない鼓動を抑え、ふらつく脚を叱咤しながら抉れた地面を掻き分けるように進み倒された巨木へ手をかける。どうにか乗り越え木々の上へ身を隠そうとするが一瞬に力を出し尽くした体はまだ思うように動かない。一呼吸、二呼吸。心身を賦活させ命を繋ぐため肺の空気を入れ替える。


 ほんの僅かな弛緩。その後に指先へぐいと力を入れる。


 と、同時に細工師の背後で不気味な呼気の排出音が聞こえた。地面を鳴らす足音が続く。震えて擦れ合う茂みの葉音に向けて、細工師は肩越しに目をやった。


 巨大な頭部を支える太い喉の奥から抜けて巨大な顎を震わせる重厚な排気音が茂みから再び上がると、次の恐慌が始まった。竜顎鰐の鳴き声が次々に上がり枝葉を千切り飛ばして巨躯を現す。先陣を切った一頭が細工師を圧殺しようとその胴体を横薙ぎにするのはそれと同時に近かった。


 細工師が初撃を生き残れたのは、音源に目をやるや否やの勢いで身を倒木の上へ跳ね上げたおかげだった。跳躍が十分でなければ、遅れていれば、下半身は潰されていたに違いない。


 へしゃげて大きく揺れる木の上を、落ちないよう姿勢を低くしながら細工師は走った。ある個体は四肢で上体を打ち上げ、ある個体は仲間が木に寄せたその背を乗り越え、次々と必殺の突進を仕掛けてくる。


 恐慌を背に、細工師は必死に樹上へと手を伸ばした。枝を掴んで脚で胴体を持ち上げていくが、その幹も硬い鱗の激突で削り取られる。


 2本、3本と倒れそうになる木々を飛び移り、小島の縁まで逃げ続けた。さらに外へと逃げるか一瞬の迷いを得てようやく、細工師は木々がゆるりと倒れる音が静まっていくのに気付いた。


 枝々の隙間から覗き込むと、大鰐達は上へ突き出た眼球をぎょろつかせ屠るべき獲物を探していた。何頭かは自分たちで倒した木の下敷きになり抜け出そうと動いている。けれど、立っている木々や倒木の密度が集団の動きを阻むだろう。


 細工師は遅れてきた全身の痛みと共に、ふと命を永らえた感覚を得た。

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