*オリバー×ノア*
番外編① 凍った心を解かす者(序)
【本編82話(オリバー視点)の続きです】
――私の希望の光、ルシア。
二十年待たせてごめん。今、会いに行く。
凍った湖面に降り立ったオリバーは、氷柱を作り勢いよく泉に突き刺した。青い閃光が放射線状に延びていく。
泉の表面全体に雪の結晶「樹枝六花」が浮かんだ。いくつものヒビが入る。ぱきぱきと割れる音が鳴りだし、やがて、厚い氷が崩れはじめた。
「ねぇ、どうして泉の氷を溶かしているの?」
凍り漬けにされた母ビアンカを助けたノアは、純朴な目をオリバーに向けた。
「この泉の奥深くに、私の大切な人が眠っている」
「大切な人?」
「私の妻ルシアが、凍ったままなんだ」
ノアは目を見開いた。
「ルシアは私の姉、ノアの、叔母さんよ」
青白い顔でビアンカはノアに教えた。
「この下に凍ったままでいるの?」
「ああ。二十年間そのままだ」
「……あなたの本当の目的は、王位を奪うことではなく、姉を救い出すことだったのですね」
オリバーはビアンカに非難するような目を向けられたが、少しも心が痛まなかった。
「やっと、理解したようだな」
ビアンカの眉間にしわが寄る。ノアは足元の氷をじっと見つめていた。
「母様のお姉さん、可哀相……」
ノアは顔を上げ、母親に目を向けた。
「母様。カルディア兵がこの国にケンカしに来ていると、さっき、侍従たちから聞きました。皇妃として、陛下を手伝うんですよね?」
「あなた、どうしてそれを……」
「陛下と母様が話をしているとき、ぼく、そばにいたよ」
ビアンカは「そうだったかしら……」と困惑している。
「陛下の命令は絶対なんでしょ? ここはぼくに任せて、早く行ってください」
「任せてって、あなたは残って、どうするつもり?」
「叔母様をここから出してあげます」
オリバーは母親にまっすぐ意見する小さな男の子を見て、密かに感心した。
「ノア。さすが王家の子だ。年齢の割にはずいぶんと聡い」
ノアはきょとんとした顔で首をかしげた。
「助けるのはあたりまえだろ?」
オリバーは「そうか」と答え、苦笑いした。
自力で母親を助け、今は氷の下に眠る人を可哀相だと同情している。人のためならいくらでも、勇気と力を発揮できるタイプのようだ。
リアムの幼少期を思い出させる子だった。
……自分とは違って、やさしい。
「この子は、クロフォード家の血が濃いのでしょう。ですが、ノアの魔力は……」
「風を操る力だな」
ビアンカは黙ったまま頷いた。
「ノア。氷を溶かすのを手伝ってくれるんだろ? 割れた氷の隙間に風を送ってくれ」
「速く溶かすんだね。わかった」
ノアは、割れた氷に向かって小さな手をかざした。オリバーが魔力で氷を融解するよりも数倍速く、氷が溶けはじめる。
「母様。ここにいては危険です。凍ってしまいます」
「だけど……」
「さっき、イライジャ様がジーンさまと一緒に南門にいらっしゃいました。きっと、陛下の元へ連れて行ってくれるはずです」
ビアンカはノアではなく、オリバーを険しい目で見た。
「ノアが手伝えば、本当に姉は助かるのですか?」
「助ける」
地面の氷が溶けて、足場が不安定になってきた。
「一気に奥深くまで溶かしたい。じゃないと、ここに氷のプールができるだけだ」
氷の宮殿地下はいくつもの階層でできている。排水する空間は上部と下部、数カ所合ったはず。全部溶かさないと水を宮殿の外へ、街がある方へ水を排出できない。
「炎の鳥がいれば、一気に溶かし、蒸発できて簡単なんだがな……」
オリバーは手の中で鈍く光るだけの小さな赤い魔鉱石を眺めた。
……クレア魔鉱石はおそらくリアムが持っているんだろう。さて、どうやって奪おうか。あいつが持っているなら骨が折れる。
「ビアンカ。君の息子の言うとおりだ。早くリアムのもとへ行け」
「……私のノアを、危険な目に遭わせないと約束してくれますか?」
ノアは風を操るのをやめて、顔を上げた。母親を見つめる瞳に光が射している。
「ノアに、君を傷つけないと約束した。今度はビアンカ、君に約束をしよう。ノアのことは守る」
「……姉に、会いたいからですね」
「ああ、そうだ。私は妻しか愛せない」
ビアンカはぐっと唇を引き結ぶと、深々と頭を下げた。しばらくその姿勢でいたあと、手で目元を拭った。
十歳下だったビアンカは自分が八年間、冷凍睡眠していたために、二つ違いになってしまった。
二十歳のまま時が止まっている姉ルシアの歳をずいぶん前に越え、大人の女性だ。
オリバーは、自分などに出会い関わらなければ、ビアンカは幸せになっただろうにと同情した。
「ビアンカ。君を幸せにできる男は私じゃない。ノアだ。息子に、惜しみない愛情を注げ」
「あなたに言われなくても、わかっておりますわ」
ビアンカは息子の肩にそっと片手を置いた。ノアは驚いて顔を上げる。
「クロム様は、誰よりもやさしい人でした。息子は彼に、とてもよく似ています」
彼女は、愛しむような目を息子に向けたあと、睨むようにオリバーを見た。
「夫が私に向けてくれた分と、本来ノアに惜しみなく注ぐはずだった分の愛情を、これからは私が、ノアに注ぎます」
オリバーはノアをちらりと見た。頬を朱に染めて嬉しそうに顔を綻ばせている。ビアンカもやさしい母親の顔で息子を見つめていた。
「だったら、早く行け。また凍り漬けになりたいのか?」
溶けた氷水でくるぶしが浸かるほどだった。ビアンカがいるために、これ以上は氷を溶かすことができない。
「オリバー様。我が一族は自由な風を好みます。風の王女だった姉を、冷たい氷から救ってあげてください。お願いしますね」
「母様!」
ノアは母親の服にしがみついた。
「どうしました?」
「……帰ったら、一緒に母様と雪遊びをしたい」
小さな声は少し震えていた。
「私と、ですか?」
ビアンカは明らかに戸惑っていた。顔を上げたノアは、目にたくさんの涙を溜めていた。
「美味しいご飯と、お菓子も母様と食べたい。あと、温かいお風呂に入って、……一緒のベッドで寝たら、だめですか?」
子どもならあたりまえにしていい要求だった。ビアンカは瞳を揺らしたあと、頷いた。
「だめじゃありません。全部しましょう」
ノアの表情がぱっと明るくなる。頬が赤いリンゴのように染まり、目と口元は嬉しそうに弧を描いた。
「母様、約束ですよ?」
「ええ。……ノア、今までごめんね」
ノアは、首を横にぶんぶん振った。
「母様。けが、しないでくださいね。陛下に守ってもらってくださいね」
ビアンカは眉尻を下げて笑うと、息子の頭をそっと撫でた。
「ノアも、けがだけはしないように」
ビアンカはぎこちなくノアを抱きしめたあと、オリバーに最後、頭を下げた。
「陛下のもとへ参ります」
ビアンカは、姿勢を凜と正した。緑色の瞳に決意が滲む。グレシャー帝国の皇妃にふさわしい顔つきになると、二人に背を向け去って行った。
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