第20話 あんなの絶対いやよ……‼


          *


 頭痛と吐き気が収まらない。

 床にくずれ落ちたまま、立ち上がれない。


「――……ああ」


 漏れ出た声は、それでおしまい。それだけしか、ない。それで、精いっぱい。

 火照ほてった全身を泥のようにおおう虚脱感。

 腹の内側をい上がる、焦燥しょうそうと、不快。


 茫洋ぼうようとした頭では何もまともに考えられない。

 

 ぐちゃぐちゃの髪が顔に幾筋もかかっている。びょうびょうと、け放った窓から吹き込んでくる雨交じりの風が、さらにそれを乱す。十一階のベランダから吹き込んでくるそれが激しいのは、対面に位置する廊下側の窓が開いているから。


 風の通り道。


 ゆっくりと、視線だけを上げる。顔を上げる気にはなれない。足腰もだるい。それで、本当に、精いっぱいなんだ。

 リビングのカーペットの上には、泣き疲れて暴れ尽くして、眠った息子が転がっている。五歳になった息子は多分人よりも知能が高いけれど手が付けられない癇癪かんしゃくちで、今日も園から呼び出しをくらった。また、お気に入りの女の子の髪を掴んで蹴って怪我をさせたのだ。三度目ともなれば菓子折りを下げて行ってもドアを開けてはもらえなかった。

 もう、怒る気力すらかない。

 入園前などは他害が起きるからと周辺の支援センターからは軒並み出禁になっている。預かってくれる両親もすでにない。義母の事は……もう考えたくない。


 奥の寝室では上の娘も眠っている。

 りんりん、りんりん、と、か細い音で時計がなるのが耳につく。

 五月蠅うるさい。やけに、五月蠅い。


 深夜二時。旦那はまだ帰ってこない。

 ――昔から女癖は最悪だった。

 それでも、子供ができて結婚さえしてしまえばおさまると思っていた。

 考えが甘かった。

 娘ができて、しぶしぶ籍は入れてくれたけれど、そこから始まったのは酷いつわりと余儀なくされた退職だった。無職で家事もまともにできない、セックスもできない生きている価値のないブタだと、罵倒と嘲笑を浴びせかけられるだけの日々だった。

 あっと言う間に病んだ。

 産婦人科で体重増加を叱られ続けても、過食を止める事はできなかった。

 泣いても吐いても踏みにじられた左手の小指が折れても、それでも背中を丸めて娘だけは守り抜いた。

 

 産後、あふれんばかりの母乳で体重は見る見る減り、切開の傷も治り切らぬうちに強制された行為で、身体はボロボロになった。眠れない。頭が働かない。たるんだままの腹が醜いと罵倒されながら、嘲笑あざわらわれながら、欲を吐き出すための肉になる。


 人生って、こんなものだったっけ?

 そんな風には聞いてなかったはずなんだけど。

 夫婦って、愛し合って支え合うものじゃなかった?

 そう零したあたしを見て、旦那はわらった。



「お前、寄生虫の分際で何言ってんだ?」



 希望って、簡単に死ぬ。


 息子を妊娠中に旦那がはじめた不倫は、しつこかった。

 おざなりな言い訳での外泊と、隠すつもりがあるようでない大きな出費。借金持ちの旦那が切り崩したのは、わたしの独身時代の貯金だった。

 多分、それなりに本気だったのだ、旦那は。

 これまでの女にも、わたしにも、旦那は金を出さずに出させる方だったのに。

 完全に駄目になる前に手を打とうとした。話し合いの場をもうけようと両親を呼び寄せた。こちらへ向かう道中、高速道路で発生した衝突事故に巻き込まれて、二人は同時に逝ってしまった。

 その女とは、話し合いをする事になった段階で旦那は手を切っていたというのに。


 あたしのせいだ。

 あたしが、お父さんとお母さんに、来てって言ったりしたから。

 あたしのせいで、二人とも……死んだ。


 息子が生まれてから始まった無言電話は、しつこかった。その向こうに、女の呼吸が聞こえていた。あれは絶対女だった。旦那の別れた女だとしか思えなかった。だから、何度も何度も止めさせるように言ってくれと旦那に頼んだけれど、殴られて終わりだった。


 結婚さえ、してしまえば、幸せになれると思ってた。


 捕まえたら、何とかなると思ってたのよ。

 碌な給料も稼げない、大して美人でもないあたしがなんとかまともに生きていこうと思ったら、真っ当な結婚をする事しか思いつけなかった。


 馬鹿だから。

 

 鏡なんか、もう見なくても分かる。目の下には隈。カサカサと、あぶらでテカる場所とが混じった汚い肌。たるみきったぜい肉。眉間によったままの皺。制御できない息子。無口になってゆくばかりの娘。また、適当な女を外に作って、帰宅すれば無能と罵倒し、殴りながら嗤って犯すだけの旦那。


 あれ、なんだっけ、これ。

 あたし、なんで、こんな、あれ。



 生きるって、こんなものだっけ?

 あたし、そんなに悪いこと、した? っけ?



 無言のまま、ふらりと立ち上がる。びょうびょうと風が吹きすさぶ。

 室内に吹き込む雨風。からりと大きく開け放った窓。肌にあたる雨滴がきもちいい。冷たい。ベランダへと、つるり、脚を、そう、脚、足、スリッパ、はかなくていいわ。


 どうせもう、

 いらない。


 最後の力を振り絞って、室外機の上に這い上がった。

 アスファルトよ、お願い、吸い込んで、あたしを。










 BAR Neighborの中に、春絵はるえの絶叫が響き渡る。

 アスラの前で、全身から汗を拭きださせながら、春絵は叫び、そして噎せた。

 そんな彼女の様子を、鼻白はなじろみながらアスラが見つめる。


「――わかった?」


 小さなその問いかけに、「ひっ」と引き攣ったような悲鳴を上げて春絵が血走った眼を向ける。

「あれ、君の来世。ああいう人生の幕引きになるの」

 ばたばたと、春絵の両眼から涙が、その唇からは悲鳴がほとばしる。



いや――あんなの絶対いやよ……‼」






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