第18話 地獄かよ。


          *


 ぽーん。ぽーん、と、軽い音が聞こえた。

 春江はるえ胡乱うろんな目で振り返る。カウンターの横に置かれていたアンティークを模したチャチな置時計。これも場所は変わっていない。あの時と同じ、一時を知らせてくる。


 アスラの前にあるのは、半分まで消費されたメロンソーダのグラスと、空になったナポリタンの皿だ。十数年前には、ナポリタンの代わりに、たしかミートドリアがあった。


 春絵が視線をアスラの顔へと向け直す。彼は律儀りちぎに両掌をぱちんと合わせた。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」



 それで春絵の――背筋が凍った。



「ねぇ、アスラ」

 からん、とグラスの中で氷がくずれる。

「――前の時、あんたに代金払わなかったからたたられたの?」

 かすれた春絵の声に、アスラはちらと視線を向けて、そして、


「あっは!」


 と、あざけるように一際大きな声でわらった。

「やっぱお姉さん、代金の支払いブッチしたらペナルティあるって知ってたんじゃん。ルール舐め過ぎ。笑っちゃうね。なんのために事前に前提条件の噂もセットで流してあげてると思ってんのさ。自分だけはセーフ? 特別? そんなわけないよな⁉」

 「あっはははは!」と、無情にも高らかな笑い声が店内にこだました。「アスラうるせぇ」とマスターの小声がたしなめる。途端、アスラは嘲笑を引っ込めて真顔で春絵を見た。



「楽観てさ、ケースを選ばないと自滅一直線なわけよ。警告を警告と受け取れない。理解できない。成人がそれではだめなんだ。自律できずして自由なし。あんたは自由の権利の行使ばかりを要求して、人としての責任を果たそうという学びを得ずにここまできた。だからね、破綻したんだよ。その先に道はないんだ」



 ぎり、と春絵は奥歯を噛み締める。

「わかったわよ。十分にわかったわ。あんた、この十三年であたしにおきたこと、全部見えて知ってるんでしょ? ――いくら払えばいいのよ」

 「ふっふーん」と、アスラは鼻で笑いながら、ゆっくりと口にメロンソーダのアイスを運んだ。そして、やたらとゆっくり口からスプーンを抜き取ると、にやりと笑った。


「前回払わなかった分も含めて百万でいいや」


 カバンの中をあさると、春絵は紙巻きにしてあった百万をテーブルの上に叩き付けた。

「これでいい⁉ さあ、さっさと教えなさいよ! どうすればこのくそみたいな連鎖が終わるワケ⁉」

 きん、と春絵の声が店内に響く。

 アスラの目が、じっと春江のそれに注がれる。


「だからぼく、最初に言ったじゃない。あの男との結婚は――」


 ちりりん、と、アスラの首から下げられていた鈴のペンダントが鳴った。


ロクな結末をむかえないって」


 ひゅっ、と春絵の喉が鳴った。

 脳裏にけんすけの顔が浮かぶ。それも、幸せだったころの、あたたかな笑顔の賢介の顔が。

 ほろり、と一滴の涙が頬を伝い落ちる。

 憶えている。あの不器用な優しさも、真摯さも、怒りに歪んだ横顔も、実家のいいなりになんかならないで、のぶの事を守ってくれた強さも。

 憶えている。

 誰が、あの人を春絵から奪ったんだ。

 一体だれが、誰のせいで、

 なんなんだ、この運命は。春絵に害するばかりのこの世は。酷い、ひどすぎる。こんなのまるで、



 地獄かよ。



「――アスラ、お前それ言ってないぞ」


 奥から声が届いた。春絵が視線を向ければ、マスターは手元のグラスを磨いている。


「えー、そうだっけ?」

「お前が言ったのは「絶対に不幸になるから」だよ」

「意味は一緒じゃん。つかそんな何年も前の事を、一言いちごん一句いっくたがえずおぼえてんのマスターキショい」

 からん、とスプーンが空になったメロンソーダのグラスの中に放り込まれた。

「お姉さんさっき、何が見えてたかって聞いたでしょ?」

「え、ああ、ええ」

 ちろり、とアスラが赤い舌を出す。

「あたしならもっとうまくやる――っていう、化粧のケバい若いだけの馬鹿な女が見えてたの。ぼくが結婚するなって言ったのは、そこの旦那さんが気の毒だったからだよ。だってお姉さん、まだわかってないじゃない。自分がやった事」

 アスラは右手をゆっくり持ち上げると、人差し指をたてて、ぴしり、と春絵の背後を刺した。



「あんたのせいで、不倫相手の奥さん、マンションから飛んだからな?」



 「ひっ」と、我知らずの悲鳴が春絵の喉から飛び出た。全身を震えが這い上がる。

「――そんなの今更あたし関係ない‼ あた、あたしのせいって、そんなのわかんないじゃない!」

 悲鳴交じりの叫びがバーの中に響く。

 冷たいアスラの目がじっと春絵を見つめる。


「わかるに決まってんじゃん。今あんたの事見てるの誰だと思ってんの。よいのぐちアスラだよ?」

 背後を指した人差し指が、くるくると回され、ひたり、春絵の額を指す。


「母親が子供二人のこして飛ぶとか、どれ程のもんか今のあんたなら分かるでしょ? 仮にも人の親でしょうが? 自分がやった事の後始末もつけないで、余所よその奥さんを不幸にしたままで自分だけは幸せになろうとしてたじゃない。だめだよそんなの。そんなことするから――」

 にやあと猫のような笑みがアスラの口の端に浮かぶ。


「旦那さん、あんたの身代わりだぁ」


 アスラの視線が、十三年前のように、じいっと、春絵の背後の何かを見出している。



「相手の奥さん。あんたの旦那さんにしがみついてるよ。今でも」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る