第17話 あなたは悪くない


 結果として、小峰こみねけんすけにバラしていた。


 あの男は、はるから金を毟り取るだけに飽き足らず、この家庭を破綻させる事を、本当は望んでいたのだろう。

 なんとなく、その心理は分かった。

 自分ばかりが苦しくて、不幸でいるのが赦せなかったのだ。

 モブとして見下げて、利用できるだけして、邪魔になったら棄てて良いし、また必要になったら好きなように使っていいと思っていた連中が、自分を差し置いて幸せそうににこにこ笑って暮らしているのに我慢がならなかったのだろう。


「オレのお下がりとも知らずに、まあ大事にしてくれちゃって」


 そう言われた。だから、春絵のパソコンを開いた。賢介は項垂れながらそう言った。

 信じたくなかった。

 そうも言われた。

 でも、確かに、はるちゃんみたいな綺麗な子を僕に紹介するなんて、ちょっとおかしいかな、とは思ってたんだ。そう自嘲する。


 昔の事だって思いたい。

 そうも言われた。

 でも、割り切れない。割り切れないよ。

 振り絞るような賢介の言葉が、春絵の心臓に刺さる。


「僕は、実家が嫌いで嫌いで堪らなかった。母さんを大事にしない父さんも、言いなりになるしかない母さんも、その愚痴を僕にだけ聞かせてくる事も、兄さんとの扱いが全然違う事も、何もかもが嫌だった」

 閉ざされた賢介の目から、ぱたぱたと涙が床に落ちる。

「だから、自分の家族を作る時には、絶対に大事にしよう、守ろうって、そう決めてたんだ。――会社でどれだけ馬鹿にされても、出世が遅くてどんどん後輩に追い抜かれて行っても、それを家庭に持ち込んで酒飲んで管巻いて、自分の嫁さん殴るような……そんな人間には、絶対なりたくないって――そう思って……たのにっ」

 賢介は、その手で涙がとまらない目元と額を覆った。

 春絵もまた、両目を見開いたまま、ぼろぼろと涙を零していた。

 そんな資格などないが、止まらなかった。



 そして――小峰に対する止まらぬ憎悪が全身を冷やした。



 壊れてしまうのはあっという間だった。

 賢介は、完全に書斎に閉じ籠るようになった。

 出社できない事が増えた。

 翌年、世界中を席巻した大不況のために、賢介は呆気なくリストラされた。

 再就職先を探すも、そもそも精神状態が良くない賢介を採用してくれる企業はなかった。書斎からあまりにも出てこないので、長い間気付けなかったが、賢介はずいぶんと酷い不眠症に陥っていた。医者に引き摺っていき見せると、欝と診断された。大量の薬が出され、それを飲みだしてから眠れるようになったようだが、医者曰く、背中の冷えが取れない、眠っても眠っても、全身が泥のように重いのだ、と、そう言っていると告げられた。


 春絵は、家庭を支える為にパートからフルタイムに切り替えた。幸い都合を聞いてもらいやすい職場だったので、賢介のフォローを最優先できるように残業はなるべくしないで済むようにしてもらえた。

 

 のぶは――何も言わなかった。

 何も言わずに、家を出てバスケに集中していた。

 恐らくそこ意外に発散できるところがなかったのだろう。


 そんな矢先、賢介がふらりと出かけた。知人に誘われたと言って、とある勉強会とやらに参加したのである。



 ――これが運の尽きだった。



 それは、とある新新興宗教による主催のものだった。

 賢介は――高学歴だが人付き合いが不得手で、内に籠りやすい性情の割に、プライドだけはひっそりと高かった。

 春絵にやさしかったのは、堕落する自分をこそ嫌悪しているからだった。

 女子供に拳を振り上げて、自分の優位性を確認しなければいられないような男を心底軽蔑していた。だから、決してそうならないように、必死で自分をふるい立たせていたのだ。ずっと。

 故に、あなたは悪くない、あなたの価値を理解できない周囲が悪いというその文句は覿面てきめんに効いたらしい。

 賢介は、その会合にずるずるとのめり込み、あっという間にそこに入信してしまった。

 切り詰めるべきわずかな貯蓄をお布施やらのために団体へ寄進し、やがて修行のためだと家を出て行ってしまった。



 春絵が必死で止めても、信絵が泣いても、もう賢介は振り返らなかった。



 それから半年後。

 その宗教団体から、自発的に始めた断食業のために賢介が餓死したと言う通達が、自宅の方へ届いた。



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