第10話 この人となら、あたし幸せに生きていける



 怒りにまかせてはるは店を飛び出した。

 最低最低最低だ! もう絶対何があっても二度とあんな店に行かないし、あんなガキに相談なんかするもんか!


 気が付いた時には春絵は泣いていた。

 どうしてこんな酷いことばっかり言われて、酷い目にばっかり合わなきゃいけないの。

 みんなあたしの事ばっかり責めてくるの。

 こんなに一生懸命がんばってるのに。

 自分が幸せになるために必死になって何が悪いの⁉ 自分の人生を自分で切り開くために懸命になることを馬鹿にしたように笑うヤツらこそ不幸になってしまえばいいんだ。


 地獄だ。

 地獄に落ちろ。

 みんなみんな血の池地獄とか、針山地獄とかにぶち込まれればいいんだ。


 溢れる涙を堪えながら、携帯電話を取り出して春絵は桑名くわなに電話をかけた。仕事中だと分かっていたけどかけた。

 ぷるるる、ぷるるる、と、耳の傍で音が鳴る。

 だめだろうな、無理だろうなと思いながら、それでも繋がってほしくてガマンできなかった。

 と、ぷ、と音を立て繋がった。

〈もしもし?〉

 そうだ。彼、営業職も兼ねてるから、こういうところ融通利くのよね、小峰こみねとは違って。

「あの、あたし……」


 こういう、話しを聞いて欲しい時とか、痒い所に手がとどくのとか、そういう良いところがあるの、この人。

 春絵のことも、馬鹿だなんて言わない。

 蔑むような目で見てきたりしない。

 ただただ、眩しいものをみるような目で見てくれるの。

 甘やかしてくれるの。不器用そうに。

 いいじゃない。もうこいつで十分じゃない。

 あたしも良い年だし、分別ざかりのいいオンナのはずなんだから。


〈――どうしたの? はるちゃん。きょうお仕事は?〉

「あの、あのね」

〈はるちゃん? もしかして泣いてる?〉

「うん。――うん、ごめんなさい、仕事中に」

〈いいよ。ちょうど昼休憩とれなくて、いまお昼食べて――あ〉

「?」

〈はるちゃん、横見て〉

「よこ?」

 きょときょとと頭をめぐらせて、春絵も「あ」と口をあけた。

 自分が涙を流しているのが、すぐ隣にある店の窓に映っている。その奥に――牛丼の皿を前にした桑名がいて、ふわっと笑っていた。


 ははっと、気が抜けた。


 そうだ。この人は、こんな風にして笑うの。

 色んなとげとげしたものを削ぎ落したような笑い方をするの。

 周りに強く出られるタイプじゃない。だからなめられたりイジラれたりしがちみたいだけど、でもいいの。


 この人が一番あたしの気持ちを楽にしてくれる。


 そうだ。忘れてた。

 だから、この人と付き合おうって思ったんだ。


 中から桑名が慌てたように出て来た。携帯を握りしめて泣きながらうずくまっている春絵の傍で、桑名も同じように困った顔で軽く腰を曲げる。

「大丈夫? 何かあった?」

「ごはん……」

「ん?」

「ご飯、まだ終わってないんでしょ?」

 春絵が聞くと、桑名は店の方へと軽く首を向けてから、また春絵を見た。

「そうだね。はるちゃんはご飯は?」

「まだ……たべてない」

「どうする? 場所変えたい? はるちゃん、こういうお店好きじゃないでしょ?」

 今目の前にあるのは、全国津々浦々にある牛丼チェーン店だ。

 春絵はなんだかふっと肩の力が抜けた。

 顔をくしゃくしゃにして笑いながら、首を横に振る。

「あたし、牛丼もファストフードも好きよ。我慢してるだけで」

 桑名もくしゃくしゃに顔を歪ませて笑う。

「そっか。じゃあ、一緒に食べる?」

「うん」

 頷くと、桑名は春絵へ手を差し伸べた。

 その手に手をあずけると、思った以上にその手は温かかった。そして、強い力で引っ張り上げてくれた。


 ああ、この人はあったかいんだ。

 この人の顔を見ていたら、もう他の人のことや、目や、考えとか、春絵のことをどう思うかとかまでどうでもよくなるんだ。

 いらなくなるの、他人なんか。


 そっか。わたし、この人といると、すごく安心して力が抜けるんだ。


 気付いた。

 気付けたの。やっと。


 はじめて、本当に心から真っすぐに桑名の顔を見て、春絵は小首を傾げて笑った。多分涙でお化粧も落ちてぼろぼろだったと思うが、そんな事はもうどうでも良かった。


 間違いない。

 この人となら、あたし幸せに生きていける。


「けんちゃん」

「なあに?」

「あたし、けんちゃんのお嫁さんになっていいかな?」

 春絵の言葉に、一瞬桑名は面食らったような顔をして、それからゆっくりとその顔を泣きそうにぐしゃぐしゃに歪めて、大きく何回も何回も縦に振った。

「うん。ありがとう。ぼく……ぼくと、ずっと一緒にいてくれますか?」

「はい!」

 こんな、牛丼屋の店先で泣きながらプロポーズのOKをするなんて、こんな未来描いたことなんてなかった。でも、これでいい気がした。これが幸せっていう形のような気がした。



 だから――――自分が今までやってきたことなんて、すっかり忘れてしまったのだ。


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