ホタカ先生の痛み⑥
「俺が被害者、か……。相変わらず自意識過剰な奴だな」
ホタカ先生の言葉に、高島先生は半笑いで言い返す。
軽くいなすように振る舞っているが、その実、直情的にも見えた。
「もう止めましょう。そういうの……。その時から変わったんでしょ? あなたのスタンスが」
ホタカ先生は、駄々を捏ねる子どもをあやすかのように言う。
彼女からの憐れみの視線に、高島先生は表情を一層曇らせる。
「トーキくん。キミを一人にした原因は私にもあるんだ」
彼女はどうにも釈然としないことを前置きし、つらつらと話し始める。
ホタカ先生の話によると、高島先生は折れてなどいなかった。
彼はその後も単独で、ホタカ先生の身を守るため、彼女とともに警察へ垂れ込み、告訴状提出に向けて動く。
幸い、告訴状は無事に受理され、然るべき法的手続きに移っていった。
順調に見えたが、事態はそう単純に進まなかった。
それは、当時の警視総監と彼女の父親との、ある癒着が原因だと言う。
彼女の父親は、全国でも指折りの名門校の理事長であり、いわばその界隈の名主のような存在だった。
そのため、いわゆる文教族と呼ばれている議員を中心に交流があり、政界との太いパイプもあった。
中でも、彼の地元選出のあるベテラン議員が、この一連の問題の鍵を握っていた。
どうやらその人物は、警察官僚出身の重鎮で、政界に転身した後も警察組織に対して、強い影響力を持っていたらしい。
彼女の父親は、予めその議員を通じて、警視庁の上層部に取り入っていた、というのだ。
そういった背景もあって、当時の警視総監は、検挙予定日直前に彼女の父親の逮捕状を握り潰してしまったらしい。
その後間もなく、嫌疑不十分により不起訴、と告知されてしまう。
これにより高島先生の努力は、無に帰すこととなる。
それだけなら、まだいい。
なんと『理事長を性犯罪者に仕立てあげようとするのは、自身の罪を擦り付けるため』などと、根も葉もない噂が立ってしまった。
ホタカ先生は、高島先生をスケープゴートにすることで、事態の収拾を図ろうと考えた校長の一派が流したものだと推察しているが、真意のほどは分からない。
噂は瞬く間に広がっていき、気付いた頃には学園内に高島先生の居場所はなかった。
窮地に立たされた高島先生は、彼女の進級を待たず、半ば追われるように学園を後にした。
「その後、すぐにね……。その警視総監の人、別の汚職が公になって更迭されたの。捜査の中で、お父さんとの癒着も表沙汰になってね。それからすぐに、裁判所から接近禁止命令が出て、私たちの親子関係は事実上そこで終わった。その後、逮捕もされたみたいだけどね。もうその頃には親戚の家に預けられてたから、特に何とも思わなかったよ」
どこか投げやりに笑うホタカ先生を見て、シンパシーのようなものを感じてしまった。
彼女を、僕などと比べていいはずはない。
それくらいは分かっている。
でも、きっと……。
大小に拘らず、一度生じた歪みはいつまでもそこに存在していて、隙あらば僕たちを飲み込もうとしてくる。それは同じだ。
僕も、ホタカ先生も、高島先生も。
ずっと、目に見えない足枷に囚われている。
だから彼女は言ったのだろう。
僕を一人にした原因は、自分にもある、と。
深入りには、大きなリスクを伴う。
それでも、事態を打開するために決断してしまった。
これが、高島先生が若気の至りと自責する理由だった。
だからこそ彼は、取り繕うだけ取り繕う道を選んだ。
ポーズだけは崩さず、それでいて僕自身には決して踏み込んではこなかった。
言ってしまえば、高島先生は一人の教師として、いや……。
一人の人間として、スキルアップしたのだ。
ただただ、吐き気がするほどに合理的で正しい。
恐らく、それを今一番強く実感しているのは他でもない、高島先生本人だろう。
確かに、間違いなく。
結果的にとは言え、彼女の歪みが高島先生のスタンスを変えていた。
そして、高島先生が言うように、彼女は諦めてもいた。
ただしそれは、一人の人生に多大な損害を与えてしまった自分自身に対してだろう。
ようやく、だ。
朧気ながらも、彼女を突き動かしてきたものが見えてきたような気がした。
「私さ、勘違いしてたんだ。大人は常に強くて、正しいって……。だからさ。いつかは改心てくれるっていうか、周りが変えてくれるっていうか……。何だかんだで、最後にはイロイロと辻褄が合うんだろうなって思ってたんだよね!」
続けざまにそう語るホタカ先生は、もはや僕のよく知る彼女の姿そのものだった。
今や彼女の奥底に眠る痛々しい苦悩までが、嫌というほど感じ取れてしまう。
きっと僕は……、ある意味でこの数日間で、それを呼び起こしてしまったのだろう。
彼女の意図するまま動いた結果とは言え、きっかけとなったのは僕自身であるのは間違いない。
この罪は、彼女の要望に応えたところで、拭いきれるものなのだろうか。
あのまま……。僕などと出会わなければ、なぁなぁの状態で生きていけたのではないか。
そんな下らない無い物ねだりを吐露するわけにもいかず、僕は黙って彼女の話を聞くしかなかった。
「でもね。実際は違った……。みんな思ったより、強くないし、正しくもない。まぁ私なんかが言えることじゃないんだけどさ! だからね。こう思ったんだよね」
そう言うと、ホタカ先生はどこか物欲しそうな視線を向けてくる。
「どう……、思ったんですか?」
答えなんて、大凡想像がつく。
聞きたいとも思えない。
それでも僕は、彼女の悲愴な笑みに促され、その先の言葉を催促してしまう。
「私には、強さも正しさも発揮する価値がない。大人として、虚勢すら張る必要がないって」
彼女を取り巻く狂った倫理観の中での、唯一の救い。
それが今。彼女が発した一言で分かってしまった。
「ねぇ、トーキくん。私さ。高島先生が学校を辞めてから、少しだけ生きる意味を見出せたの? 分かってくれるかな?」
思った通りだ。
やはり僕と彼女は同類なのかもしれない。
うんざりするほど、彼女の気持ちが分かってしまう。
「高島先生からの恨みを引き受けること、ですか……」
「うん! さすがだねっ!」
僕が恐る恐る答えると、ホタカ先生は満面の笑みをつくる。
ホタカ先生の唯一の望み。
それは彼女自身がヘイトの捌け口になること。
それが存在意義かのように。
まるで、それこそが自分自身を確認するための、唯一の手段であるかのように。
完全に壊れている。
今の彼女を作り上げた真犯人は、高島先生を含めた社会そのものだろう。
「でもね。高島先生はそれすらも許してくれなかった」
ホタカ先生はそう言うと、恨めしそうに高島先生を見る。
「あの後、手紙が来たんだ。高島先生から。それが何か悔しくてさ……。だから、なんて書いてあったかなんて細かくは覚えてないんだけど、ただただ、私を守れなかったこと、謝ってた……」
この十年余り。彼女はずっと押し込めてきた怨念にも近い心境を、一方的に吐露する。
「私なんかのために人生台無しにしちゃってさ。挙げ句の果てにこんな自己満足の手紙まで寄越してきてさ……。カッコつけたいんだか恩着せたいんだが知らないけど、コッチとしてはいい迷惑だってのっ!」
ホタカ先生は悲痛の表情で、自分の生きる糧を奪った高島先生に恨み節を溢す。
そんな彼女の話を、高島先生は目を瞑りながら、ただただ黙って聞いていた。
僕と彼女は、出会ってたかだが数日だ。
だから本当の彼女なんて、何一つ知らない。
それでも、分かる。
彼女の理屈がまかり通るなら、それは……。
高島先生とて、同じ事が言えるだろう。
もちろん、自覚している。
コレ自体がブーメランになるし、むしろ彼女に誘導されているフシすらある。
ましてや、高島先生を庇うつもりなんて、欠片もない。
ただ、それでも……。僕は言わずにはいられない。
言わずにいるのは、不義理だとすら思えてしまう。
彼女はまだ立ち止まっている。
その時から、10年前から。彼女の時間はずっと進んでいない。
そんな想いが頭を過ぎった時には、僕は既に手遅れになっていた。
「本当に勝手な人ですね……」
僕が絞り出すように発した声が部屋に響き渡る頃には、身体の奥底から湧き出てくる感情の波は、最高潮に達していた。
「やっぱりアンタ、最低だわ! アンタにだけは、偉そうに言われたくねぇよ! 何が『私なんか』だっ! 何が『自己満足』だっ! 誰よりも馬鹿になってんのはアンタの方だろうがっ!」
悪態にも近い、空虚で無責任な一般論のようなものが次から次へと、溢れ出てきてしまう。
あの日のホタカ先生のように。
あの日。彼女から気付かされた時のように。
「高島先生が10年間、どんな気持ちで過ごしてきたか少しでも考えたことあんのかよ!? それなのに、それなのに……、私を恨めだぁ!? ふざけんなっ!! 全部、アンタの都合じゃねぇかっ!!」
ホタカ先生の気持ちも分かる、だなんて思い上がったことを言うつもりはない。
しかし、彼女の動機のようなものは分かってしまう。
だからこそ、今こうして彼女へ向ける言葉が反目する。
結局、今彼女に見せられているのは、これまでの僕なんだろう。
本当に気分が悪い。
「これまで散々偉そうに説教してきた割りに、その程度のことしか言えないんですか!? わざわざ、こんなこと聞かせるためにココに呼んだんですかっ!? 正直、駄々を捏ねているようにしか見えませんねっ! もういい大人なんだから……」
感情のまま、言葉を放ち続けた僕を止めたのは、ホタカ先生の優しい笑みだった。
「トーキくん。もう、大丈夫そうだね」
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