ホタカ先生の痛み⑤
10年前。
高島先生が高校教師として、初めてクラスを受け持った頃の話だ。
病気で休職に入った前任から引き継ぐカタチだったが、ただでさえ新規採用されて間もない新人教師だ。
高島先生でなくとも、自然と肩に力が入る。
幸い、生徒同士それなりに関係性が出来上がっていたこともあって、高島先生のことも温かく迎え入れてくれる土壌があった。
学校行事にも協力的で結束力も高く、端的に言えば特段問題の見当たらない、良いクラスだった、と言う。
しかしそうは言っても、実際のところ高島先生自身の努力も大きいのだろう。
生徒たちからの評判も上々というのも、それ自体は何となく理解できる。
事実、今も高島先生の人気は高い。
それ自体は別におかしな話じゃない。
多くの生徒は、何事もなく高校生活の3年間を終えるわけだ。
別段、問題を抱えていない生徒にとってみれば、明るく爽やかで冗談もある程度通じる体育教師など、当たりでしかないのだろう。
人としての本質、なんて極々一部の人間を除けば、心底どうでもいい話だ。
もっとも、それを信頼と捉えていいのかは分からないが……。
いずれにせよ、教師生活のスタートを良いカタチで切れたことは、当時の高島先生を深く安堵させたようだ。
ただ一つの不穏分子を除いては……。
「なるほど。その不穏分子とやらがホタカ先生だった、と。随分な物言いですね」
「何が違うんだ? 実際、コイツがいなけりゃ俺の教師生活は順調そのものだったぞ」
僕が聞くと、不敵に笑いながら冗談めいた雰囲気で言い返してくる。
高島先生のある種の薄っぺらさ、空気の読めなさは筋金入りなのだろう。
「……そういうの、もういいですから。それで、高島先生はそれをどうしたんですか?」
僕が言うと、高島先生はどこか投げやりに笑う。
「まぁ、そりゃ取り除くよな」
「そうですか……」
「何だ? 意外か?」
「はい」
「はっきり言うな。だから言っただろ? あの頃は若かったって」
「まるで、取り除かないことが正義みたいな言い方ですね」
「違うのか?」
高島先生に即答された時、僕の中に極わずかに残っていた大人への期待のようなものが、完全に雲散霧消したことが分かった。
まさに音すら立たずに崩れ去った、といったところか。
「失望したか?」
高島先生は、やはり確信犯だ。
僕の中に生じた僅かな動揺を正確に読み取り、聞いて欲しくないことをピンポイントで聞いてくる。
「……恨んでるか? 俺のこと」
質が悪い。
恐らくだ。
高島先生は、僕とホタカ先生がこれまでどんなやり取りをしてきたか、大凡勘付いている。
彼女の歪みを知る一人として。
であるなら、僕が高島先生を恨むことなど出来ないと、彼は知っているはずだ。
「……どうでもいいじゃないですか、そんなこと。それより、続きを話してもらえますか?」
僕がはぐらかすと、高島先生は一瞬苦しそうな表情を浮かべた。
この状況でそんな顔をするのは、卑怯にも程がある。
やはり僕は、僕の中に矛盾を抱えている。
筋違いの淡い期待は、自分も他人も不幸にする。
きっと、それが深層心理で分かっているからこそ、僕はこれまで高島先生のことを恨まずにいれたのだと思う。
ホタカ先生はそれこそが歪みだと指摘するが、それはそれで間違ってはいないのだろう。
ただ、その一方で。
子どもながらに『大人はこうあるべきだ』などと、はた迷惑な先入観のようなものを抱いていたのだと思う。
だから今。こうして少なからず動揺しているわけだ。
そう思えば、きちんと言葉にしてくれた分、高島先生には感謝するべきなのかもしれない。
「……まぁ取り除くっつっても、正攻法だよ。と言うより、その頃の俺はそれしか知らなくてな」
そこからまた、高島先生の弁明は続く。
正攻法だと、高島先生は言った。
その言葉通り、教室の端で誰とも馴染まずにいるその生徒を、どうにかしてクラスの輪に引き入れようと、頭を悩ませていた。
高島先生曰く、純粋な正義感だったらしい。
だからこそ、まずは二人きりで話すべきだと、密かに機を窺っていた。
他人事ながら、ホタカ先生に同情した。
同時に少し羨ましくも感じてしまった。
別に、嫉妬なんていう大層な感情じゃない。
高島先生の言う若気の至りであるにせよ、単純に僕とホタカ先生の価値の違いを見せられたような気分になる。
場違いかもしれないが、一瞬そんな思いが頭を過ぎってしまった。
「別に、天ヶ瀬と安堂寺で何か違うってわけじゃない。単純に時期の問題だ。何度も言ったろ? 俺も若かったって」
そんな僕の下らない被害妄想を、高島先生は見逃したりはしなかった。
「……それはそっちの都合でしょ」
高島先生の何とも自分勝手な気休めに、僕も負けじと言い返す。
「……あぁ、その通りだな」
高島先生が口惜しそうに話している姿からは、言外にいくつもの悲痛が滲み出ている。
ターニングポイントは、とある日の放課後だった。
高島先生が放課後の巡回をしていると、たまたま女子トイレの前を小走りしていた女子生徒とぶつかる。
その拍子に、彼女の手元からある物が溢れ落ちる。
高島先生は、それを見て愕然とする。
それもそのはずだ。
彼女の手に握られていたものは、今まさに使用されたばかりの妊娠検査薬だった。
「そう、だったんですか……」
「ま。その時は、別に何ともなかったんだけどな。でも、見ちまったからにはそのまま、ってわけにもいかねぇだろ? それに丁度いいっちゃ丁度いいしな」
確かにその通り、だが……。
ふと、ホタカ先生の方が気になり目を向けると、いつになく居心地悪そうにしている。表情もどこか物言いたげだ。
こうして少しずつ、自身の過去が紐解かれているわけだ。無理もない。
だが、ホタカ先生自身もこうなることは分かっていたはずだ。
少なからず、食い違いが生じている、ということか。
「まぁ。今思えば、ここで見て見ぬ振りが出来てりゃ良かったのかもな……」
高島先生は、一瞬ホタカ先生を見た後、力なく呟く。
その一件の後、高島先生とホタカ先生は図らずも接触することとなった。
当初は警戒の色を滲ませていた彼女も、高島先生の真摯な態度に折れ、少しずつ自己開示をしてきた。
彼女の口から飛び出してきた話の数々に、高島先生は言葉を失う。
当然だろう。
大学を出て間もない新人教師が抱える問題としては、あまりにも荷が重いということくらい僕でも分かる。
ただ、それでも高島先生は逃げなかった。
幸い、と言っては語弊があるが、彼女自身も平然を装いつつもどこか後ろめたさのようなものを感じていたらしく、高島先生が差し伸べた手を素直に握ってくれたようだ。
やはり、どうにも違和感がある。
とは言え、自分から正攻法やら正義感やらと言って退けるあたり、少なくともこの時まではいわゆる教師としての矜持のようなものがあった、ということかもしれない。
それが良いことか、悪いことかはまた別の話だが……。
しかし、その点については今はさして問題ではない。
肝心なのは、その後ホタカ先生がどうなったか、だ。
「それで……、何がホタカ先生を変えたんですか?」
僕はいよいよとばかりに、高島先生に核心部分を催促する。
「まぁそうだな……。コイツは諦めたんだよ。俺のことを、な」
またしても他人事のように、高島先生は話す。
どうやら『諦めた』と話す背景には、彼が具体的に行動に移してしまったことにあるようだ。
事態を重く見た高島先生は、校長にある提案を持ちかける。
彼女はもちろん、他の生徒を守る意味でも、学校として刑事告発も含めて検討すべき、と。
本人も話す通り、まさに正攻法だ。
結果として、これが悪手となったのは想像に難くない。
案の定、校長の反応は高島先生が期待したものではなかった。
しかし、その理由としては意外なものだった。
それは彼女の父親の立場にある、と言う。
「あの、まさかですけど。それって……」
高島先生は無言で頷く。
「そいつの父親、その学校の理事長だったんだよ」
その事実は、当時の高島先生を驚愕させた。
何でも、娘が同じ学園にいることで起こり得る諸々のハレーションを警戒し、校長を含めた一部の人間にしか、その存在を知らせていなかったらしい。
『都内私立、屈指の難関校とも言える我が校で、理事長の不祥事ともなれば学園そのものの信用に関わる』というのが校長の言い分だった。
私学特有の葛藤のようなものを聞かされ、高島先生は一瞬言葉に詰まる。
それでも、と高島先生は粘るが、校長が首を縦に振ることはなかった。
そればかりか、『これ以上ことを荒立てるようなら、こちらにも考えがある』と暗に脅されてしまう。
高島先生は、ココで折れてしまった。
その後、根本的な解決策を見出せないまま時間だけが過ぎていき、とうとう彼女は進級してしまう。
それから、だと言う。
彼女が、あの胡散臭く、人を見透かしたような、それでいてどこか悲しい笑顔を浮かべるようになったのは。
それに合わせ、彼女の生活態度も一変した。
ある意味で、開き直ったというべきか。
端的に言えば、社交的になった。
普段の授業はもちろん、学校行事にも積極的に参加するようになり、彼女の周りには次第に人が増えていく。
明るく、と言えば聞こえは良いのかもしれない。
事実、周囲の生徒も彼女のこの変化を歓迎した。
反して、高島先生はそんな彼女に、深い罪悪感を抱いたようだ。
これは僕の勝手な推測だ。
きっと、この時。
ホタカ先生は、他人に期待することを止めたのだろう。
しかし、それなら分からない。
彼女は何故、高島先生を叩いたのだろう。
彼女の平手打ちには、どんな真意があったのか。
高島先生の話自体にも、違和感は残る。
いずれにしても、これではただの事実の羅列だ。
言い訳にもなっていない。
「……それで弁明しているつもりですか?」
「端から弁明する気はないさ。世の中、結果が全てだからな。俺は飽くまで事実を話しているだけだ」
何でもないかのようにつらつらと語る高島先生を見て、僕は胸が苦しくなる。
確かに、高島先生の言う通りだ。
どんなに前置きで飾ったところで、生み出した結果だけが、人の客観的な価値を決めることが許されるのだろう。
僕が、どう感じて、どう動いたか、など本当に些末な問題だった。
実際、僕の行動は沢山の人を無自覚に傷付けてきた。
ただ……。
そんな卑怯でおぞましく、はた迷惑な僕もまた、他人が生んだ結果の一つ、とも言える。
別に言い逃れするわけじゃない。
しかし、生憎のことながら、人は互いに影響し合う生き物だ。
良い意味でも、悪い意味でも。
ココ数日の自分自身を振り返れば、分かりやすい。
であれば高島先生とて、同じだ。
彼女の中に生じた歪みの責任。
それは決して、高島先生が一人で背負うべきものではないし、背負っていいものでもない。
「……相変わらずですね」
その時、ホタカ先生の声が冷たく響き渡る。
「何だ? 何か間違ってたか?」
高島先生は、ホタカ先生を睨む。
まるでその先の言葉を遮ろうとしているかのようだ。
もうこの場には、僕の知っている二人はどこにもいない。
「どうして話さないんですか? あのこと」
ホタカ先生は突き刺すような視線を、高島先生に浴びせる。
その剣幕から察するに、どうやら食い違いなどといった生易しい表現では足りないようだ。
「……だから言ったろ。結果が全てだ、ってな。第一、お前自身もそこに触れなかっただろうが」
高島先生は不快感を隠すことなく、言い返す。
「私は……、高島先生の口から聞きたかったんです! 『結果が全て』と言うなら、あなたの人生を壊したのは間違いなく私です! だったら私を吊るしあげればいいじゃないですかっ!?」
吹き溜まりを吐き出すかのように、ホタカ先生は次々とまくし立てる。
「トーキくんっ!!」
「へっ!? は、はい……」
ホタカ先生は、再び僕に向き直る。
「トーキくん、何度もごめんね。高島先生の話、続きがあるの」
「続き……、ですか?」
「そう。考えてもみて。私が居た高校、私立だよ? 異動がないはずの私学教員がどうして今、公立の長江にいると思う?」
「あ……」
僕の反応を見たホタカ先生は、コクリと首を小さく縦に振る。
「要するにさ。高島先生も立派な被害者なの」
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