ホタカ先生の痛み②
ホタカ先生の後を追って、学校の敷地に着く頃には、すっかり日も傾いていた。
校庭を見渡すと、クラブ活動をしている生徒連中も挙って帰り支度を進めていて、誰もが一日を終えようとしている。
それと逆行するように、今まさに校舎の中へ向かおうとしている自分が如何に異質な分子であるか。
大げさながらも、そんなことを考えてしまう。
普通、とは何なのか。
歪みがない状態とは、今の彼らのようなことを言うのか。
彼らには、本当に歪みがないのか。
目的地へ向かう最中であっても、そんな下らない問いが頭の中を駆け巡る。
僕はそれを振り払うかのように、A棟2階へ急いだ。
さて。
目的地に到着したのはいいが、相談室の中へ入るなり、思わず溜息が漏れ出てしまう。
相変わらず、呆れるほど殺風景で人間味のない部屋だ。
『ようこそ』とばかりに出迎えてきたのは、初日に味わった質の悪いいたずらの類でもなければ、高校生顔負けのバイタリティーを持つ淑女の歓迎の声でもない。
不快極まりない、この季節特有の生暖かく湿った空気だった。
そして何よりも遺憾なのは、呼びつけたこの部屋の主が未だ姿を見せていないことだ。
しかし、律儀に蛍光灯が点けっぱなしになっているところを見るに、彼女の意図のようなものを感じる。
こうして、無駄にそわそわとさせてくるあたりは流石と言わざるを得ない。
僕はのそのそと部屋の中央へ向かい、来客用ソファーに腰を下ろした。
相談室に到着して、10分ほど経った時だった。
部屋の外から、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
どうにも様子がおかしい……。
ホタカ先生なら、わざわざノックするだろうか。
音の主が彼女以外だとすると、数人ほど心当たりがあるが、どうにも釈然としない。
少なくとも、彼女はそういうことを話すつもりで、ここへ呼んだわけではないだろう。
飽くまで本題は、僕自身のことであり、ホタカ先生自身のことだ。
「ど、どうぞ……」
気もそぞろに生返事をする。
ガラガラと引き戸を開く音とともに姿を現したのは、意外な人物だった。
「お? 天ヶ瀬か!? お前、まだ帰ってなかったのか!?」
「高島先生……」
これは不意打ちだ。
まさか、この場所で担任と鉢合わせするとは思いもしなかった。
高島先生はそんな僕の心境など、どこ吹く風とばかりにずかずかと、僕の座るソファーに向かって近づいてくる。
「どうした? こんな時間に。親御さん、心配するぞ!」
高島先生はまるで定型文のようなセリフを、何の臆面もなく吐く。
心配するべきなのは時間云々ではなく、この場所にいることの意味の方ではないか、といった疑問が一瞬頭を過ぎった。
しかし、よくよくこの人の性質を考えれば、別段違和感はない。
それにしても、参った。
この状況は、どう説明をつければ良いのだろうか。
「あっ! そうだ! 聞いたぞ、天ヶ瀬。お父さんたちの会社のこと……」
そう言うと、高島先生の表情は険しいものになった。
「へ? あ、いえ……」
随分と耳が早い。
こうして一早くフォローしようとしてくるあたりは、流石だ。
まぁ最低限の職責を果たそうとしてくれるだけ、僕は感謝しなければならないのかもしれない。
しかし、飽くまでここまでが彼の責任の範囲だ。
所詮は他所様の家庭事情なので、これ以上高島先生が踏み込んでくることはないだろう。
「婆ちゃんも、この前亡くなったんだろ? まだまだこれから大変かもしれない。ただ、これだけは忘れるな! お前は一人じゃない! 何かあったら、遠慮なく先生や周りの大人を頼るんだぞ!」
高島先生はサムズアップのポーズを取り、またいつもの胡散臭い笑顔に戻った。
本当に吐き気を催すほど、模範解答のようなセリフだ。
僕は聞きたい。
仮に僕が頼った場合、高島先生は何をしてくれるのか、を。
結局のところ、具体的に出来ることはない、裏を返せば何もする必要のない安全地帯にいるからこそのセリフなのだろう。
「はい……。ありがとうございます」
僕がそう言うと、高島先生は満足そうに大きく頷く。
思えば、僕と高島先生はこの2ヶ月弱の間、こうしたやり取りを繰り返してきた。
僕たちに手持ち無沙汰な時間を与える間もなく、部屋の扉は再びガラリと大きな音を立てる。
ようやく、この部屋の主のご登場のようだ。
ホタカ先生は相談室の中へ入るなり、挨拶をするでもなく、真っ直ぐに高島先生に近付いていく。
眉をピクリとも動かさず、一歩一歩目標に向かって進んでいく彼女は気のせいか、どこか殺気立っているようにも見える。
そんな彼女の様子を見た高島先生は、少し狼狽えるような素振りを見せる。
「あ、安堂寺先生……。今日はどうされましたか? こんなところに呼び出して」
高島先生は露骨に目を泳がせる。
どうやら高島先生は、ホタカ先生に呼び出されていたようだ。
ただ、依然として彼女の意図は不明だ。
ホタカ先生は、そのまま高島先生の真正面に立つ。
「あの……、えっと……」
年頃の女性に真っ直ぐに見つめられ、高島先生もどこか尻込みしているように見える。
高島先生でもこんな顔をするのかと呑気に考えていると、ホタカ先生はそんな感傷を一気に吹き飛ばしてくる。
パシンッ!
一瞬のことだった。
対照的に、こちらが状況を把握するのに時間が掛かった。
肌と肌が触れる豪快な音が部屋中に響き渡った後、気付いた時には大柄の体育教師の左頬一帯が紅潮していた。
そのあまりにも一方的な展開に、僕も高島先生も言葉を発することすら忘れている。
肝心のホタカ先生は、『絶対に逃さない』とでも言うかのような冷え切った視線で、高島先生を見上げている。
「えっと、あの……、ホタカ先生?」
思考停止していた僕は我に返り、ホタカ先生を呼びかける。
「…………」
僕の呼びかけに、ホタカ先生は一向に反応しない。
それどころか、なおも表情一つ変えずに高島先生を凝視している。
僕は純粋な恐怖を覚えた。
「……安堂寺先生。どういうことか説明していただけますか?」
高島先生もようやく気を取り直し、至極当然のことを問いかける。
頭ごなしに憤慨しないあたりは、流石といったところか。
しかし、そう言いながらも、ホタカ先生を見下ろすその視線は、心なしか睨んでいるようにも見える。
「どうも何も……。心当たりくらい、あるでしょ?」
ホタカ先生は、真っ直ぐに高島先生を見つめる。
「……もうそういうの、止めませんか?」
畳み掛けるようにホタカ先生は言う。
突き刺すような彼女の視線が帯びる圧力に、高島先生はとうとう屈し、大きな溜息を吐く。
「……随分と根に持っているんだな。安堂寺」
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