灯理の痛み⑦

「えっと……、どういうことかな? 風霞」


 風霞の問いかけに一瞬ぎょっとする灯理だったが、すぐに普段の調子に戻して聞く。

 唯一、それを俯瞰していたホタカ先生だけが、心底嬉しそうにその目を細めている。


「灯理さ。まだ私に言ってないこと、あるよね?」


 風霞は淡々と、思いもよらぬことを灯理に聞く。


「え、えっと……。ごめん。あたし、風霞にまだ謝らなきゃいけないこと、あったっけ?」

 

「じゃなくてさっ! 私が灯理の家に遊びに行ったあの日、さ。悪いと思ったんだけど、見ちゃったんだよね。クローゼット、開けっ放しだったから……」


 風霞の話を聞いた灯理は、言葉を詰まらせる。

 すると、その表情は茹で蛸のように、みるみるうちに赤くなっていった。


「……私、よく知らないんだけどさ。アレ、ボイストレーニングの本でしょ?灯理、何かやりたいことあるんじゃないの?」


「っ!? ちょっ!? そんなん今関係ないっしょっ!?」


 風霞の唐突な質問に、灯理は動揺する。

 しかし、風霞は一切引く様子を見せない。


「関係あるよ。だって……」


 風霞はそれだけ言うと、少しの間口籠る。


「私、見ちゃったの。その本に一緒に挟まってた写真……」


「……アンタ、それってまさか」


「レッスン中、だったのかな? 演劇かなんかの。それと一緒に写ってた人、須磨先輩だよね? 役者さん、目指してたんじゃないの? 二人で。……ううん。今でも、か。多分なんだけどさ。須磨先輩が突っかかってくるのって、それも原因なんじゃないの?」


 淡々とそう言って退ける風霞を前に、灯理は絶句する。

 その後しばらくすると、観念するかのように灯理はすっと息を吐く。


「……別に隠してたわけじゃない。第一、あたしや姉貴の夢なんか、わざわざ話す意味ないしね。それこそ、うちの姉貴の私情なんて、風霞たちには知ったこっちゃないだろうし」


 灯理は必死に言い聞かせるように、まくし立てる。


「でもさ。まだ気持ちは燻ってる。それも事実なんじゃないの? 本当にもう捨てた夢なら、あんなすぐに取り出せる場所に置かないよ……」


「っ!?」


 風霞がそう言うと、灯理は押し黙った。


「私、そういうの全然ないから単純に凄いって思うし、素直に応援したいって思う。お金も沢山かかるんだろうし、私がどうこう言える立場じゃないってことは分かってるけどさ……」


「……別にそんな立派なモンじゃないし。ただ、ナニ? ちっちゃい頃から、やってたから続けてたってだけ……。第一、そんな呑気なこと言ってられる状況じゃないって分かるっしょ!?」


「分かってるよ。だから私がどうこう言える立場じゃないって……」


「大体さ! あんだけ色んな人に迷惑掛けといて、あたしだけ夢追いかけます、とか都合良過ぎっしょ!? 実際、アンタの言う通り、あの人もこうしてちょっかい出してきてるわけだしさ……」


「じゃあ、やっぱり……」


 風霞の問いかけに、灯理は無言で頷く。


「あの人、父親が怪我で休業した時、劇団辞めてるんよ……。あたしはその後もしばらくは続けてたからさ……。そりゃあ面白くないよね! 先に生まれたってだけで、何で色々我慢しなきゃなんないんだしって感じだよね!」


 僕はこの時、灯理が放った言葉が重く胸に響いた。

 須磨先輩の人格云々は知るところではない。

 ただ飽くまで兄として、年長者として、だ。

 彼女の気持ちが分かる、と言えば酷く傲慢で、思い上がりもいいところだ。

 しかし、それでも自分自身と通ずる何かを感じてしまった以上、僕には灯理に掛けるべき言葉がある。


「そういうこと……、じゃないと思うぞ」


「へ? じゃあ、どういうことなん?」


 灯理は呆けた顔で聞いてくる。


「確かに、先に生まれたのは須磨先輩だ。灯理が言ったように、上の人間ってのは『お兄ちゃんなんだから……』とか、何かって言うと無言の圧力みたいなものを感じるんだよ」


「で、でしょ!? なら……」


「灯理と須磨先輩が、どんな関係だったのかは知らない。でも、一つだけ分かることがある。先に生まれた以上、張らなきゃいけない意地っていうか、プライドがあるんだ。これはプレッシャーとかじゃなくて、一生解けない呪いみたいなモンだよ」


「そんなん……、勝手に背負ってるだけじゃん!」


「そう。その通りだ。でも、それは灯理にも言えることだろ?」


「そ、それは……」


 僕の質問に、灯理は口籠る。


「劇団を辞めたのは、両親の離婚が原因か?」


「……話、聞いてた? 当たり前じゃん!」


「本当に、そうか?」


「っ!? そ、そうだし」


 語るに落ちる、といったところか。

 僕自身の意志が揺らぐ前に、このまま畳み掛けるべきだ。

 

「灯理。須磨先輩が劇団を辞めた時、内心こう思ったんじゃないか? 『ふざけるな。これじゃまるであたしが悪者じゃないか』って」


「っ!?」


「お兄ちゃん……」


 僕の言葉に、灯理も風霞も顔を強張らせる。


 言ったそばから、自分自身のある意味での太々さに幻滅しそうになる。

 こんなこと。一体どの口が言って退けるのだろうか。

 そもそも、風霞の前で話すようなことじゃない。

 でも、きっと……。このままなら僕は変わらない。変わりきれない。

 今こうして、変わりつつある風霞を前に、惨めな醜態を晒し続けることになる。

 ならば、いっそ開き直って丸裸になり、ヒール役にでも徹した方がいくらか気が楽だ。


「二人の気持ちは、僕には分からない。でもな。須磨先輩は須磨先輩で別のフラストレーションを抱えてたんだとは思う。人間って勝手だからな。たまに他人が背負っている責任が、自分の責任以上に重荷に感じることがあるんだよ」


「何かそれ、分かるかも……」


 僕の話に、風霞が同調する。

 具体的に口にせずとも伝わる。 

 僕が風霞に押し付けてきた感傷は、この場でインスタントに言語化出来るものではない。

 

「だから多分……。須磨先輩は気付いて欲しかったんじゃないか? 灯理まで辞めたら、自分が辞めた意味がなくなることに。露骨な嫌がらせまでして、な。それが分かれば、これから色々とやりようがあるだろ? まぁ最大限好意的に見て、だけど」


 灯理はフゥと静かに嘆息を漏らす。


「……自分をハメた相手の弁護を良くそこまで出来るね」


 そう溢す灯理は、心底呆れたような様子だ。

 本当に……、彼女の言う通りだ。

 ストックホルムなんちゃらと言えるほど、須磨先輩と面識があるわけでもなければ、ましてやただの勝手な憶測である。

 ただ、それでもを持つ人間として、気付いてしまった以上、須磨先輩を他人として扱うことはどうしても出来なかった。


「……風霞の兄貴はそれでいいん?」


 改めてそう問われると、揺らぎそうになる。

 しかし嘘偽らざることを言うならば、今僕に残された感情は、少なくともではない。

 

「別に良いとか、悪いとかじゃない……。僕は飽くまで統計と言うか、傾向を言っただけだよ。上の人間なんて、こんなもんだってくらいに思ってくれればいい」


 実際、灯理の言う通り、須磨先輩の動機なんてどうでもいい。

 第一、これだけ事態は拗れているワケだ。

 僕たちは僕たちで、須磨先輩にだけ構っている余裕はない。

 それならば、姉妹喧嘩の決着くらいは、自分たちで付けてもらった方がいい。

 それに……。

 自分で判断するのも何だが、ホタカ先生の目的は既に達成されたような気がする。

 であれば、後の始末は然るべき人たちに任せるべきなのだろう。


「そっか。ごめん……。あと、ありがとう、ございますっ!」


 灯理は、僕に深々と頭を下げてきた。


 何とも見当違いな謝意だ。

 僕はただ、下に弟妹を持つ人間の苦悶を主張しただけだ。

 それこそ、子どもが駄々を捏ねるように。



「あのさ……。灯理」



 風霞が静かに、灯理に語り掛ける。


「もし灯理が、私に何か罪悪感みたいなもの感じてくれてるんならさ。その夢、諦めないでくれると嬉しいかな。ホラ! 元々、お願いしたのは私なんだしさ! 私が原因で灯理がやりたいことが出来なくなるなんて、やっぱり嫌じゃん?」


「風霞……」


「確かに灯理が言ったように、今はそんな場合じゃないかもしれない。でもさ。いつになってもいいと思うんだ。人生、長いんだしね!」


 風霞はそう言って、ニコリと灯理に笑いかける。


 その瞬間、灯理は風霞に勢いよく抱きついた。

  

「……拒絶しろって言ったのに。風霞の馬鹿っ」


 灯理は風霞の襟元で口をもごもごとさせ、呟く。

 既に涙で声はこもっていて、はっきりとは聞こえてこない。


「灯理こそ忘れたの? 私は何があっても、灯理を拒絶しないって」


「……風霞のそういうトコ、ホント嫌い。でも、ありがと」


 胸元に顔を埋めながらそう話す灯理に、風霞は静かに微笑みかける。

 そして、彼女の頭を優しく撫でた。


 そんな二人を見ていると、今すぐにでもこの場を逃げ出したい衝動に駆られてしまう。

 別にここ数日で僕自身が成長した、だなんて思ってはいない。

 とは言え、紛いなりにも自分と向き合ってきた自負はある。

 だからかは分からないが、何の打算もなく随分あっさりとした様子でそのセリフを吐く風霞の姿を見て、先程の疑念がより一層強いものとなった。

 やはり僕と風霞とは、根本的に何かが違う。


 ふとホタカ先生を見ると、妙にかしこまった顔をしている。

 というより、どこか呆けた様子だ。

 これでは駄目、なのか?

 彼女の思う、一端のとやらは未だに良く分からない。


「……まぁなんやかんやでこんな感じになりましたが、どうですか? ホタカ先生」


「へ? う、うん。いいんじゃない?」


 ホタカ先生は僕の呼びかけに対して、どうにも気の抜けた返事をする。

 この人のマイペース振りは、もはや平常運転だ。

 

「……一応、僕なりに好き勝手言わせてもらったつもりなんですがね。お気に召しませんか? ていうか……、これ以上僕たちに何が出来るってんですかね?」


 僕が皮肉を込めて言い放つと、ホタカ先生は人を食ったような笑みを浮かべる。


「ううん! 悪くないどころか、だいぶ良いよ! トーキくん。頑張ったね!」


 何を、とは敢えて聞くまでもない。

 少なくとも、もう答えに辿り着きつつあることに、ホタカ先生は気付いている。

 

「あ、あの……」


 意を決して、彼女に聞こうとした。




 その時だった。

 僕たちの座るテーブルがガタガタ鈍い音を立てつつ、震える。


「……何だよ。こんな時に」


 である僕のスマホは早く出ろと催促するかのように、無造作に置かれたテーブルの上で震えている。

 目を落とし、表示された名前を見た瞬間、不覚にも心がざわついてしまう。

 一応、覚悟はしているつもりだったのに。


「誰から、かな?」


 ホタカ先生は、そんな僕の揺らぎを敏感に察知してくる。

 彼女のことだ。恐らく、大方察しがついているのだろう。


「父さんからです」


「そう」


 それだけ呟くと、彼女はまた神妙な顔つきになる。

 

 きっと、良い意味でも、悪い意味でも。

 この電話に出ることで、今まで停滞していたものが一気に動き出してしてまうのだろう。

 そんな予感を胸に、僕は静かに画面のに触れた。

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