僕の痛み⑦・回想

 映画館で能登たちと邂逅したあの日の、前日の金曜日。

 麻浦先輩が下校していた時の話だ。


 話によると、僕と風霞らしき二人組が駅前の路地裏へ入り込むところを、偶々目撃したらしい。

 そしてあろうことか、そのとされる人物が、風霞に対して暴力を振るっていた、と話す。

 後日、僕たちと出会った後、その一件を思い出し能登に確認した、というのが大筋の流れのようだ。


 冗談じゃない。メチャクチャにも程がある。

 第一、その日は風霞と出掛けてもいない。

 そもそも僕はどうにもそう言った場所は苦手で、特別な用事でもない限り、近づかないようにしている。

 ただでさえ、治安という面では不安のある土地柄だ。

 これ以上、面倒ゴトを増やさない意味でも、迂闊な行動はしないよう、日々気を回している。


 心配はいらない。

 この場にはがいる。

 冷静に考えれば考えるほど、僕が疑われる余地は一切ない。

 一つ一つロジカルに弁明すれば、必ず疑いは解けるはずだ。

 そう思い、口を開きかけた時だった。


「はぁ? それマジ? 何か、あんまし信じらんないんだけど。ねぇみんな?」


 事態は、僕の想定とは違う方向へ進んでいこうとしていた。


 一通り麻浦先輩の話を聞き終えた須磨先輩は、早速食って掛かる。

 その様子は、半信半疑どころか、どちらかと言えば疑っているように見える。

 冷静というか、あまりに突拍子のない話に、どこかシラけているような雰囲気すら窺える。

 いずれにせよ、意外な展開に、僕は少し拍子抜けしてしまった。


 ……いや、予め話を合わせている可能性もある。

 油断は禁物だ。


「そ、そうだな。あんまり、そういう人には見えなさそうだし……」


 風霞の同級生の一人が、僕の方をチラチラと見ながら須磨先輩に同調する。

 実質的にこの場を支配している人間が言うのなら、下々はそれに従わざるを得ない、といったところか。


「そ、そうだよ! そんなわけないじゃん!」


 初めは麻浦先輩の話に顔面を青白くさせていた風霞だったが、周囲の反応が意外にも否定的と見ると、すぐに反論して見せる。

 

 これは……。

 僕が反論するまでもない、のか?


「そっか……。だよね! 風霞ちゃんがそう言うんじゃ、間違いないね! ごめんね。燈輝くん。ヘンな話しちゃって」


 麻浦先輩は、輪を掛けて意外な言葉を漏らす。


「そうだしっ! つーか蓮哉。マジ失礼過ぎっしょ!? 風霞ちゃん、虐待された痕とかないし!」


「ごめんよっ! 俺もないとは思ったけど万が一のことがあったら、と思ってさ!」


「あー、サイアク! 蓮哉どうすんのさ、この空気!? 罰として、ココの代金蓮哉持ちね!」


「そうだね。そうさせてもらうよ。ごめんね。燈輝くん」


 麻浦先輩は、平身低頭の姿勢で謝ってくる。


「燈輝くん、ごめんね〜。コイツも悪気があったわけじゃないからさ!」


 須磨先輩のフォローで、崩壊しかけた場の雰囲気は少しずつ活気を取り戻していくかに見えた。


「……でもさ。風霞ちゃん。本当にされてないんだよね?」


 麻浦先輩のその一言は、僕たちの淡い期待を水泡に帰した。


「は? 蓮哉、何が言いたいん?」


 須磨先輩は、あからさまに怒気を孕んだ声で問いかける。


「そのままの意味だ。風霞ちゃんが、本当に乱暴されていないかどうか、聞いてるんだ」


「だからしつこいっての! 風霞ちゃん、違うって言ってるじゃん!」


 須磨先輩のフォローに、風霞は全力で頷く。


「違うよっ! 俺が言ってるのは、そうじゃなくて、さ……」


 それだけ言うと、麻浦先輩は口を噤んでしまう。


「ナニさっ! 黙ってちゃ分かんないし!」


 歯切れの悪い麻浦先輩に、須磨先輩はここぞとばかりに憤慨してみせる。


「……違うよ。暴力ってあるからさ。ホラ。見えるところだけに傷があるとは限らないだろ?」


「へ? それって……」


 須磨先輩は怒気をおさめ、押し黙る。

 彼の言い回しは、彼女がその真意に気付く上で十分なものだったようだ。


「ま、待って下さい! お兄ちゃんがそんなっ!」


「最近、良く聞くだろ? 近親者からの被害って……。何もあの場で、とは言わないよ。でも、もしさ。風霞ちゃんが何か言いにくい事情を抱えているのなら放っておけない、かな?」


 麻浦先輩は風霞の反論を遮り、更に畳み掛ける。

 直接的ではないにしろ、麻浦先輩の言葉にその場の誰もがピンときたようだ。

 皆、困惑の表情ではあるが、先程とはまるで種類が違う。


 その中でも能登は一人、様相が違った。

 今にも殴りかかってきそうな激しい剣幕で、僕を見つめてくる。


「天ヶ瀬っ! どういうことだよ!?」


「能登っ! まだ決まったわけじゃないっ! そうやって決めつけるからお前はっ!」


「っ!? は、はい……。すんません」


 辛抱たまらず立ち上がった能登を、麻浦先輩は強いトーンで制する。

 そして風霞に向き直り、柔らかい声で語りかける。 


「風霞ちゃん。燈輝くんを守りたいって気持ちは良く分かる。でもね。このまま有耶無耶にしたらお互いのためにならない。分かるだろ?」


「……だからお兄ちゃんはやってないって」


 麻浦先輩の言い分に、風霞はすっかり意気消沈している。

 あまりにも一方的な展開に、恐怖すら感じている様だ。

 

「ごめんね。燈輝くん。俺だって疑いたくない。キミがやっていないと信じるに足りる証拠、あるかな?」


 麻浦先輩は、まるでイタズラをした子どもに自白を迫るかのような、優しい声で問いかけてくる。


 そんなの……、あるわけがない。

 無茶苦茶だ。

 悪魔の証明、だとかそんな生易しいものじゃない。

 それに代わる言葉も、僕は持ち合わせていない。

 でも、これだけは分かる。

 知識も経験も不十分な中高生を籠絡することなど、この程度の理屈で十分なのだろう。

 全ては、空気が決めるのだから。


「風霞の兄貴、マジかよ……」


 大切なのは何を言うか、じゃない。

 誰が言うか、だ。

 この場を支配しているのは、麻浦先輩であり、須磨先輩だ。

 彼らが黒と言ったものは、どう足掻いたところで黒なのだろう。


「……燈輝くん、マジなん?」


 須磨先輩がそう問いかける頃には、僕の覚悟は固まっていた。

 もうこうなってしまったからには、何を言っても通じない。


「…………」


 何も言えるわけがない。

 と言うより、無力感でどうしても言葉に詰まってしまう。


「沈黙は肯定とみなすよ?」


 麻浦先輩から、が飛び出した。

 万事休すだ。

 僕はこの事実無根の汚名を着るしかない、のか……。


 ……いや。考え方を変えよう。

 むしろそれで済むのなら安いものだ。

 これ以上、風霞を巻き込むわけにはいかない。 


 別に何のことはない。

 要するに、風霞が被害者であり続ければいいだけの話だ。


「燈輝くん。残念だよ……」


 それだけ言うと、麻浦先輩は顔を俯かせる。


「……ごめん。アタシ帰るね」


 須磨先輩は席を立ち、部屋から出て行ってしまう。


「あっ。じゃあ俺たちも帰ります。おい、風霞! 行くぞっ!」


「えっ!? わ、私は……」


「馬鹿っ! ヤべェだろ。このままココに居ても……」


 須磨先輩に触発された風霞の同級生たちは、半ば強引に風霞を連れ出した。

 他の面々も、続々と部屋を後にする。


 皆が皆、去り際に浴びせてきた生ゴミを見るかのような視線は、それなりに堪えるものがある。

 まぁ、こうなるのも無理はない。

 が、一端の人間と同じ扱いをしてもらおうなど虫が良すぎる。

 ……もう、何も考えたくない。


 そんな中、僕の目の前で佇む男がいた。

 何を言うでもなく、真っ直ぐに僕を見下ろしている。

 いつまで、この惨めな姿を見れば気が済むのだろうか。


「何だよ? 早く出てけよ」

 

「お前。どういうつもりだよ」


「どうもこうも……」


 僕はまたしても言葉に詰まってしまう。

 能登に弁明したところで、無駄な努力だ。


「がっかりだよ。お前はもっと……」


 能登はそれだけ言うと、何故か言葉を詰まらせる。

 そんな能登に対して、次第に苛立ちがこみ上げてくる。


「……何が分かるんだよ。他人のクセして」


 僕の言葉に能登は血相を変え、胸ぐらを掴みかかってきた。


「本当にお前はっ! いや。もういい……」


 そう言って、僕を掴んでいた手を捨てるように離す。


「お前、このままで済むと思うなよ」


 最後にそう捨て台詞を吐き、能登は部屋を出ていった。


 能登が勢いよく開いた部屋のドアが、ゆっくりと閉まってゆく。

 カチャンと音がした直後、室内は静まりかえり、僕と麻浦先輩の二人きりになる。


「ごめんね。燈輝くん。キミに対して、恨みがあるわけじゃないんだ」


 静かに立ち上がった麻浦先輩は、僕を見下ろして淡々と言い放つ。


 何を話すのかと思えば。

 よくもまぁ、ぬけぬけと言えたものだ。

 あまりのバカバカしさに、その先の言葉を聞く気すら失せてくる。


「でもね。キミには堕ちてもらわないと困るんだ。こちらの都合上」


 まるで話にならない弁明だ。

 一方的であることを隠そうともしていない。

 シンプルにナメられているのか。

 それとも、余程何か大きな目的があるとでも言うのか。


「あっ。出来れば、今日のことは大っぴらにしないでもらえると助かるかな。……って、そんなこと出来ないか」


 すると、麻浦先輩は僕の耳元に口を近付けてくる。


「キミは痛みに鈍感だもんね」


 僕の耳元でそう囁くと、去り際にニヤリと薄気味悪い笑みを残して、部屋を出ていった。


   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


 未だに、麻浦先輩の目的は分かっていない。

 ただ、一つだけ。事実として確かなことがある。

 僕はこの時、禄に事態を把握できないまま、得体の知れない恐怖の中で、一方的に泥を被るカタチになった。

 もっと言えば僕はこの時、空気に殺されたのだ。


 その後はお察しの通り、と言ったところか。

 子どもじみたイタズラや暴力に耐えながら、嵐が過ぎ去るのを待つかのように毎日を過ごしている。

 自分で選んだ道、とは言え理不尽極まりない現状については、それなりに思うところもある。

 まぁ、風霞自身に被害がいってしまうよりかは幾分マシだろう。


 兎にも角にも、これが一ヶ月前のあらましだ。

 ホタカ先生はココから何を見出し、どう事態を動かしていくつもりなのだろうか。

 ……いや。僕にとっての本題はそこじゃない。

 ホタカ先生がこれまで歩んできた軌跡、といったら仰々しいかもしれないが、彼女が僕に投げかけた言葉の真意を知りたい。

 別にそれが分かったところで、どうこう出来るものでもないのは百も承知だ。

 それでも知りたいと思ってしまった。

 こればかりは感情論だ。

 僕がこんな非生産的な感傷に浸るようになってしまった責任の一端は、ホタカ先生にある。

 であれば、僕は彼女のことを知る権利があるはずだ。


 とは言え、それを前面に出してしまうのは、やはりマナー違反だろう。

 建前上、そういうことではなかったはずだ。

 僕の中の痛み、いや、とされているものを今こうして話した。

 言ってみれば、これは僕の『見立て』を作るための一工程であり、カウンセリングの一環である。

 だから今は、大人しく彼女に手綱を預けるしかない。


 僕はもう、正真正銘彼女のクライアントなのだから。

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