カウンセリングは突然に
「シスコンの天ヶ瀬く〜ん。湯加減はどうですか〜?」
トイレの個室越しに数人のクラスメイトたちが、へらへらと楽しそうに問いかけてくる。
早朝から精が出る。
朝のホームルームが始まるまで時間を潰そうと、トイレの個室へ駆け込んでしまったのが運の尽きだった。
僕は本日二度目となる取っておきを食らってしまった。
個室のドアの上枠の隙間からだらしなく垂れ下がった清掃用ホースは、ずぶ濡れとなった僕の惨めさに拍車を掛けているかのようだ。
それにしても湯加減とは、また滑稽だ。
まぁ水風呂も風呂の内と捉えるならば、言い得て妙な表現かもしれない。
とは言え、一般的には分かり辛いから、ここでは正しい日本語でお願いしたいところだ。
全く。創造力だけでなく、単純な学力までこのザマでは彼らの親御さんが不憫でならない。
そんな見当違いの感傷に浸りつつ、僕は彼らの問いかけをスルーする。
「おーい! 聞こえてんのかー!?」
一連のいやがらせの主犯格と思われる
そのボルテージは次第に上がっていき、遂にはガンガンとドアの外側を蹴り出す。
『おいっ! 何やってんだっ!』
その鈍い打音が漏れ出したのか、巡回中の教師がトイレの外から怒鳴り声をあげる。
「やっべ……。サーセーンッ! 何でもないでーす!」
能登たちはそう言いながら、いそいそとトイレから出ていった。
彼らがそうこうしている間に、不意に浴びせられた冷水は僕の体温を容赦なく奪っていく。
もうじき夏へ向かうというのに体の震えが止まらない。
「とりあえず着替えなきゃ、な」
僕はノソノソと個室を後にした。
僕が教室に戻ると、既に朝のホームルームは終わり、クラスメイトたちは皆次の授業のために移動していた。
一時間目が体育だったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。
芯まで冷えた身体に急かされるように、僕は手持ちのハンカチで体中の水分を拭き取る。
とは言え、ハンドタオル程度の布切れで吸収できる水分量などたかが知れている。
ハンカチはあっという間にその許容量を超え、機能しなくなる。
ハァ、と今日何度目か分からない溜息を吐き、体操着に半乾きの体をねじ込む。
この体操着が、スリッパとともに今日一日だけの相棒だ。
僕は早々と着替えを終え、教室を出た。
この学校は、A棟とB棟の2つの3階建ての建物で構成されている。
僕の所属している1年4組はB棟の2階にあり、昇降口のある方角とは反対にある。
そして、厄介なことに昇降口はA棟に一つしかなく、登下校や体育の際は途中渡り廊下を通らなければならない。
これがまぁまぁ鬼門だ。
A棟には上級生がおり、その中には妹関連でひと悶着あった先輩たちもいる。
そのため最低限の往復で済むように、忘れ物には密かに気を遣っていたりする。
これも日々を穏やかに暮らす上で身につけた、生活の知恵かもしれない。
まぁ、もう既に授業は始まってしまっている。
今回のケースに限って言えば、彼らに会う心配はないだろう。
そう思えば、遅刻確実ではあるけれど、いつもより心のゆとりが生まれるというものだ。
僕は歩くペースを少しだけ緩め、グラウンドへ向かった。
グラウンドへ向かう途中、僕の足はある教室の前で止まる。
『生徒相談室』
ふと、小岩から言われた一言が頭を過る。
『ナンか有名なカウンセラーの先生が週2くらいで来てるらしいよ。それでさ……、もし天ヶ瀬君が嫌じゃなければ、なんだけど……』
普段であればそのまま通り過ぎるのだが、小岩にわざわざ話をされた手前、どうしても気になってしまう。
どれくらい有名なんだろうか。
カウンセラーというからには、その道のプロだ。
小岩からすると、どうにも僕は疲れて見えるらしい。
季節外れの底冷えで脳みそが正常に機能していない、といえば言い訳がましく聞こえるかもしれないが、僕は吸い寄せられるようにその扉を開けてしまった。
「失礼しまーす……」
ガラガラと横開きの扉を開き、恐る恐る小声で挨拶をする。
しかし、何の音沙汰もない。
部屋の中は窓が一つもないのか、この梅雨空を言い訳にして許されるレベルの暗さではなかった。
これでは、電気を点けなければ何一つ把握出来そうもない。
僕は入り口付近の壁を手で伝い、蛍光灯のスイッチを探す。
その途中、ヌメッとした感触の何かとバッティングしてしまい、何とも気味が悪い。
それでも何とかスイッチらしきものにありつくと、僕はすがりつくようにソレを押す。
パチンという音とともに、辺りは明るくなる。
入り口の正面には長机が一つと、それを挟み込むように応接用ソファーが配置してあった。
恐らく、これら一式が施術用なのだろう。
また部屋の左端には、部屋の主のものと思われる作業用デスクが置かれているが、そこには誰もいない。
その隣には大凡その役割など果たしていないスカスカの本棚や、申し訳程度の観葉植物が並んでいた。
全体的にどうにも殺風景で、教室というよりも物置の一角を利用して臨時で作られたような印象だ。
こんな環境で、クライアントである生徒がリラックス出来るのだろうかというのが率直な感想だ。
さて、肝心なのは部屋の主だ。
今朝、小岩から受け取ったプリントには月曜日と金曜日が来校日と書いてあった。
であれば、今日は居るはずなのだが……。
「うーん、うーん……」
僕が部屋の中まで入り込むと、背後から呻き声のようなものが聞こえた。
恐る恐る振り返ると、視界に入った光景に目を疑った。
「ちょっ!? 大丈夫ですかっ!?」
僕は思わず声をあげてしまった。
それも無理からぬことだ。
部屋の隅で血まみれで蹲っている女性を見かければ、誰でもこういった反応になるだろう。
そんな彼女が寄りかかっている壁には、赤い飛沫のようなものを浴びた痕跡があり、先程の嫌な感触の正体と出処が分かった。
「うーん……、へっ!? キミだれっ!?」
不意をつかれたのか、彼女が僕に向ける声は裏返っていた。
そして、その大きな目を見開き、警戒心たっぷりに僕のことを見つめてくる。
見た目で言えば、20代半ばくらいか。
落ち着いたグレーのフォーマルスーツの効果もあって、先程の間の抜けた声とは裏腹に知性的に見えなくもない。
少し低めの位置で束ねられたダークブラウンの髪は、その大人っぽい雰囲気を助長している。
コレが所謂、清楚系というヤツなのだろうか。
率直に言って、綺麗だとは思った。
とは言え、そんなことは心底どうでもいい。今は。
僕は未だ動揺の色を隠せていない彼女の要請に応じる。
「えっと……、1年4組の天ヶ瀬 燈輝です……」
「あっ! ってことはこの学校の生徒さん?」
「えっ? あ、そうです、はい……」
「そうだったんだ! なんか学校に変な人が侵入してきたのかと思っちゃった!」
それはコッチのセリフだ、という言葉を僕は何とか飲み込む。
もはや彼女には先程までの警戒の色は一切なく、ニコニコと笑みを浮かべながら僕を見つめてくる。
「あっ! ていうか、生徒さんならさ! ひょっとして面談の申し込みかなんかかな?」
「え……。て、ことは……」
僕がそれとなく目で訴えると、彼女はそれに応えるように満面の笑みを浮かべる。
「うん! スクールカウンセラーの
彼女はあっけらかんと言い放った。
これが僕と彼女との出会いだった。
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