最終章 さよならを言う前に
第37話 自覚
瞼を開いた由美は、全身のだるさと喉の乾きを感じていた。首を動かすことすら億劫で、視線だけで周囲を確認する。
木製の梁が見える天井は自室ではない。それでも見覚えはあった。ここは、組織の詰め所だ。
起き上がる気分にもなれず、再び眠ってしまおうかと思った時、襖の動く音が耳に入る。部屋に入って来たのは結衣だった。
いつも
「ゆ……さ……」
いつものように結衣姉さん、と呼びかけようとしたが、ほとんど声が出ない。かすれた音を出すのが精一杯だった。
「ゆ、由美……」
虚ろな瞳が由美を見下ろした。能面のようだった顔が、徐々に複雑な表情を浮かべはじめる。
「由美!」
耳鳴りがする程の大声で叫んだ結衣は、由美に向けて飛びついてきた。身構えるにも体が思うように動かない。小柄な義姉は、布団越しに義妹を強く抱き締めた。由美は抵抗できないまま、耳元ですすり泣く結衣の声を聞いていた。震える頭を撫でてやりたかったが、現状ではそれも叶わなさそうだ。
数分後、騒ぎを聞きつけた組織の面々によって解放されるまで、必死の抱擁は続いた。
「無理し過ぎ」
由美の横に正座した優子が、由美へと言い放つ。強い口調とは逆に、口元は緩みを隠せていない。
ようやく布団から身を起こせるようになったのは、目が覚めてから数時間が経った後だった。全身の倦怠感は残るものの、なんとか会話をすることはできる。
「はい」
優子や結衣から聞いた話では、由美は二日間ほど眠っていたらしい。先回の戦いが由美の心身に多大な負担をかけていたという事だ。疲労のあまり寝込んでしまうなど、初めての経験だった。
言い返したいこともあったが、今は素直に頷いておくことにした。心よりの心配と安心であることは、雰囲気で充分にわかっていたからだ。そして、そんなことよりも優先して確認しておきたい、重大な気がかりがあった。
「哉太は?」
後衛である哉太は、前衛の由美よりも力を行使する負担が大きい。自分がこんな状態であるならば、哉太はもっと酷いことになっていても不思議ではない。消えてしまっている可能性だってある。
哉太がいなくなる。想像するだけで恐ろしかった。
「あんたよりはまし。今日は無理やり学校行かせたよ。ここにいるって聞かなかったんだけどね」
「そっか……それと」
「お友達も保護して無事。怪我はしてるから、一週間くらい入院だって。機密の保持もあるしね」
「そっか……よかった……」
「よくない。《動》の使い過ぎでこんなになるなんて、初めて見たよ」
「そうよ。心配させないでよ」
優子と結衣に叱られたとしても、由美にとっては出来過ぎた結末だった。全てが上手くいきすぎていて、何か重要なことを忘れている。そんな感覚にすらなるほどだった。
「いろいろ聞きたいことがあるけど、まずは休んでな。哉太君もそろそろ来るよ」
「うん、ありがとう。母さん、結衣姉さん」
再び布団に寝かされた由美は、軽く目を閉じた。まだ体力が回復しきっていないのか、軽い浮遊感と共に意識が消えていく。まるで《調》を使う時のようだった。
戦いの終わりに、哉太にとんでもないことを口走ってしまった事実は記憶に残っている。忘れようにも、心にこびり付いて消えないのだ。
彼は覚えてくれているだろうか、それとも、覚えていないふりをしてくれるだろうか。もし、受け入れてくれるとしたら、どうすれば良いのだろうか。
「……み、由美……」
軽く体を揺さぶられる感覚と、焦ったような声に意識が戻される。薄目を開けた由美は、ぼやける視界に人の輪郭を捉えていた。
「哉太……?」
次第に姿がはっきりと見えてくる。真剣な眼差しの哉太が、由美をまっすぐ見つめていた。
「起こしてごめん。今しかチャンスがなくて」
「え? え?」
哉太の顔が近付いてくる。眠る前に考えていたことを思い出し、由美は盛大に慌てた。心の準備はできていないが、ここは目を閉じるしかないと決断する。恥ずかしさと同時に、妙な期待が胸に広がる。
「静かに聞いてくれ」
「え、あ、うん」
耳元から聞こえてくる声で、由美は自分の予想が間違っていたと理解する。哉太の切羽詰まった話し方は、恥じらう気持ちが場違いだと暗に告げていた。
「誰も気にしないんだ。矢辻 久隆のこと」
「え?」
哉太の口からその名が出るのは、由美にとって不思議だった。力を使い過ぎたために消えてしまった先代の代人であり、由美の初恋相手。当然、哉太とは面識がない。名前を聞いていたとしても、敢えて口にする理由もないはずだ。
「報告したところで、全員に軽く流された。あいつ、何かやってるぞ」
「ええと、ちょっと待って」
まるで知り合いのような口ぶりだった。会ったこともない人をあいつ呼ばわりするなど、普段の哉太からは考えられない。いくら恋愛感情を抱いた相手とはいえ、この言い方には多少苛立ちもしてしまう。
「あのね、知らない人にそんなこと言うのは良くないよ。久兄がなんかした?」
「あ……」
由美の苦言を受け、哉太は勢いよく顔を離した。そこには、驚愕と絶望が貼りついていた。
「由美も、そうなのか?」
「そうって?」
布団に寝たまま、由美は首を傾げた。正直なところ、哉太が何を言っているのか全くわからなかった。ただ、表情を見る限り、彼にとって非常に重要なことだとは理解できる。由美としては、なんとか助けになってやりたいと思うくらいだ。
「えっと、あのね、ちゃんと話してくれたら、協力するよ。まずは動けるようになってからだけど」
無理に笑顔を作って見せる。いつもの哉太ならば、合わせて苦笑いを浮かべてくれる。そのはずだった。
「いや、いい……」
大きくため息をつくと、哉太は立ち上がり部屋から出て行ってしまった。あまりにもおかしい様子に、由美の心はざわついた。
「私、なにかしちゃったのかな……」
告白の返事も聞けぬまま、哉太を遠くに感じる。このまま二度と会えないような、そんな気さえした。
「いや、そうじゃないでしょ!」
言葉にならない胸騒ぎと焦燥が、由美を突き動かす。惚れた相手が何かに悩んでいるのだ、力が入らないなんて言っている場合ではない。
引きつるような痛みを無視し、由美は立ち上がる。寝間着が多少はだけているが、些細なことだ。
「哉太! 待ちなさい!」
襖を開け、大声を出す。肩を落とし廊下を歩いていた背中が、びくりと震えた。
自分の気持ちを認めた由美は、強かった。
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