17. 力の使い方(1)


 暗かった地下室に光が差し込んできて、目がくらんだ。

 誰かの荒い息づかいが聞こえる。

 光の中に浮かび上がった影は、人の形をしていた。


「あ……」


 ニゲルじゃない。

 黒い服を着たその人は、もう頭巾を被っていなかった。

 短い赤茶色の髪が汗と血で頬に張り付いている。切れ長の榛色の目がわたしを見下ろしていた。


 その人影が一瞬で視界から消える。

 扉の向こうに黒いウロコが見えた。ニゲルが彼女を追いやったのだ。


 彼の体には矢や剣がいくつも刺さっている。漆黒の体は濡れて光り、ばっくり開いた傷口から赤色が覗いていた。

 刺さった矢にも剣にも赤黒い液体がべっとりと貼りつき、見える範囲の床も血を引きずったような跡がある。


「ニゲル!」


 禁書を閉じて立ち上がる。駆け寄ろうとしたら、彼の大きな体に出口の下半分を塞がれた。

 出てくるな、そう言われた気がした。


 上の隙間から外の様子を伺うと、黒服の人たちがたくさん倒れているのが見えた。

 ニゲルにそろりと近づけば、深い傷が間近に迫る。彼の速い呼吸に合わせて胴が動き、傷口から血があふれ出てくる。

 それを見ていたら涙が浮かんで手が震えた。


 どうして彼がこんなに傷つかなきゃいけないんだろう。

 こんな本がここにあるから?

 どうしたら禁書はいなくなってくれる?

 禁書を強く握っても、禁書は何も言ってくれない。

 ニゲルのためなら何でもできる力がほしいと願ったはずなのに、願いは聞き届けられたと書かれていたのに、何をどうしていいのかわからなかった。

 使い方のわからない力に意味はない。

 どうしたらいい? どうしたら――


「ぐっ……」


 低い声が聞こえたとたん、ニゲルの身体がふらっと動いて、重い音が響いた。


 彼の頭が、全身が、床の上に横たわっている。

 折れた剣を携えていた女の人は、肩で息をしながら、手にしていた柄を投げ捨てた。


「禁書を、渡してもらおう……」

「こんなもの……っ」


 禁書を握り、ニゲルの体に手を触れる。

 その瞬間、頭の奥で何かがチカッと光った。


 理屈じゃない。説明できない。

 でも、力の使い方が今ならわかる。


「禁書なんか、誰にも見つけられないどこかに消えちゃえ!」


 腕を振りかぶり、禁書を放り投げた。

 左手の甲が火傷したみたいに熱くなり、わたしは肩を縮こまらせる。左手の甲に黄色いウロコのようなものが貼り付いているのが目の端に映った。

 わたしが投げたとは思えない速度で、流れ星みたいに尾を引いて飛んでいった禁書は、神殿の外に出て結界を抜けていく。


「なっ……!?」


 目を見開いた女の人が禁書の飛んでいった方角に顔を向ける。

 彼女は周囲を見回して「誰か、動ける者はいるか!」と声を張り上げたけれど、返事はない。


「チッ……屋敷に向かわせた部隊を呼び戻すか」


 胸元から何かを取り出した女の人が、禁書の向かった方角に駆けていく。

 ピィィィィイ――と、高い音が森に鳴り響いた。鳥の羽音が遠くに聞こえる。

 女の人の足音や羽ばたきが遠ざかると、神殿は急に静けさに包まれた。


「…………」


 ニゲルの口が弱々しく動いたように見えたけれど、何も聞こえない。


「待って、今そっちに行くから!」


 彼が倒れたことで生まれた隙間から地下室を出て、ニゲルの顔の前にしゃがみ込む。うっすら開いた彼の目がわたしに向けられた。


「ステ……ラ、怪我……は……」


 途切れ途切れの、そよ風にすら軽く吹き飛ばされそうな細い声。


「怪我なんてしてないよ」


 そう答えると、ニゲルの口からほんの少しの空気が吐き出される。

 同時に彼の全身から力が抜け、まぶたも閉じられてしまった。


「ニゲル、ねえっ、しっかりして!」

兄様あにさまっ!!」


 空を飛んできたプルウィアが、人に姿を変えながら降りてくる。ニゲル顔の前に降り立った彼女は、魔法の光をニゲルの全身に巻き付けた。

 でも傷口の様子は変わらず開いたまま、赤い血を流し続けている。

 傷の一つを凝視していたプルウィアの顔がくしゃりと歪む。わたしより小さな手が震えていた。


兄様あにさま、聞こえる!? 全部治療するから、だから、死なないで……っ」


 彼女の声も湿って揺れている。

 わたしは手を強く握って、ニゲルを見下ろした。


 何でもできると願ったのなら、彼の傷だって消せるはずだよね?

 でもどうしたらいいんだろう。

 さっきは理解していたはずの力の使い方がもうわからなかった。

 力の使い方なんて最初から知らなかったみたいに、思い出そうとしても手がかり一つ浮かんでこない。

 禁書を放り投げたときは、どうしたんだっけ。ニゲルに触れたくらいしか、思い当たることはない。


 傷のない肌を選んで、指先をそっと黒いウロコに乗せる。

 とたんに、頭の中を光が満たした。


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