2


 都内マンションの三階。そこが僕の住んでいる場所である。実家というわけではない。


 この部屋の所有者は僕の姉だ。


 学校が近いので、高校からは姉の自宅兼仕事場に居候いそうろうしている。


 昨夜は帰宅してから姉は帰らなかったので、どこかで呑んだくれているか、あるいは仕事だろう。


「たしか午前中に来るって言っていたよな」


 今は姉よりも自転車だ。自転車の返却だ。


 午前中ということは今は午前中なので、いつ自転車を返しに来てもおかしくない時間帯だ。


「玄関くらいは掃除しておくか」


 緊張していないと言えば嘘になる。北海道から上京して来たので、地元の友達は地元にしかいない。


 百ヶ狩ひゃっかり音論ねろんを友達と言っていいのかわからないが、女子が訪ねてくるというのは緊張せざるを得ない。僕も男子だ。


 家に上げるわけじゃないし、向こうも上がるつもりはないだろうけれど、玄関くらいは綺麗にしておいても良いだろう——と、僕は箒を持ち、部屋着のまま玄関へと向かう。


「……………………ただいま〜」


 玄関に向かい、箒を構えたら姉が帰宅した。


 ものすごく疲れている顔をしているが、どうやら仕事だったのだろう。


「おかえり。ずいぶんしんどそうな顔してるな」


「そりゃ……もうね、監禁されてたから」


「自業自得だろ」


「あたしは悪くねえ……締め切りが伸びないのが悪い」


 それを自業自得というのだ。


 姉さんの職業は作家。作家は作家でも官能小説作家。他にも同人サークルでゲームシナリオをやっている。


 だからこの家のあちこちに作品に必要な参考資料として、さまざまなエログッズが散乱している。


 玄関にはないが、リビング、お風呂場、トイレ、姉の部屋——と。僕の部屋以外には芳香剤みたいなツラして電マとか置いてある。


 そんな部屋に友達なんて呼べるかよ。


「あ、そうだそうだ、葉集はぐる


「なんだよ?」


「マンションの入り口付近で挙動不審の女の子居たから連れて来たぞ」


 ほら——と。肩をグイッと引っ張られて、扉の影に隠れていたその女の子が姿を見せた。


「ど、どうも……自転車返しに来ました」


「なんか聞いてみたら、葉集はぐるの友達なんでしょ?」


 どうやらマンションへの入り方がわからず、しばらくそわそわしていたところ、姉が声を掛けたらしい。


「あ、うん、自転車どこに置いた?」


「ちゃんと駐輪スペースに置いたよ。お姉さんが教えてくれたんだ……い、色々と」


「色々と? おい姉さん、何を教えたんだ」


 なぜ顔が赤い。赤面するようなことを教えたのか。


「ん? あたしは葉集はぐるが大人の玩具に囲まれて生活しているってことしか教えてないよ?」


「なに教えてんだ!?」


「事実じゃん」


「僕の部屋にはないぞ、そんなもの!」


「まあまあ、いいから上がってもらいなよ」


「ちょまっ……」


 待て、リビングには電マやらローションやらが置きっぱなしなんだぞ!?


「お、お邪魔します」


「はいよー、いらっしゃーい。ゆっくりしていってね」


 しかし電マやらローションが置きっぱなしだから片付ける時間をくれ——なんて言えなかった。


 箒を握りしめた僕を置き去りにして、姉がリビングに案内して、そして。


「さ、さすが柿町かきまちくん……女の子の乗った自転車に乗りたいって言葉は嘘偽りのない言葉だったんだね」


「誤解だからな!? やめて僕をそんな目で見ないで?!」


「だ、大丈夫だよ、私貧乏だから、こういう玩具がどういう玩具なのか知らない……うん、知らないから平気!」


「下手かよ! 眼球の泳ぎが全てを知ってるやつの目の逸らし方じゃねえか!」


「う、ううううあう……はい、嘘です知ってます……どこに当てるのかもだいたいわかります……」


「モジモジして言うなよ」


 なんだろう。もしかしたら僕は、新たな性癖トビラを開いてしまったかもしれない。


「面白いから二人のこと次作の題材にしていい?」


「やめろ姉さん」


「ちぇ〜。とりあえず葉集はぐる、ご飯。お腹すいた」


「なんでもいいのか?」


「んー、オムライスが良いかなー」


「卵ねえぞ」


「はあ!? じゃあ買ってきてよ!」


「えー、めんどい」


「お釣りあげるからさ、ね?」


 お釣りか。どうせ数百円のお釣りだろう。そんな金額でわざわざ姉のわがままに付き合うのも馬鹿らしいが、どうするか……。


「……わかったよ。飲み物も補充したいところだったし、行ってくるよ」


「サンキュー」


 卵の買い出しに行くことになった。居候なのでここで拒否して後々文句言われる方が面倒だからな。


 あとお客さんを家に上げてしまった以上、お茶菓子のひとつもないんじゃ、あんまりだろう。


 ただでさえリビングに変なモノが置かれているのだ。せめてお菓子でも食べて貰って、なるべく変なモノの印象をマイルドにしたい。まあ、こんな変なモノの印象をマイルドにするお菓子なんて開目検討かいもくけんとうもつかないが(最強のドーナツとかか?)。


「一緒に行くか?」


 僕は百ヶ狩ひゃっかり音論ねろんの方を向き、そう問い掛ける——が。


「あ、ダメダメ。その可愛い女の子は姉さんとこれからゲームするんだから」


「えっ……?」


 驚いたのは僕じゃなくて百ヶ狩音論だった。


「だから買い出しには一人で行ってきて、葉集」


「姉さん、こいつに変なこと吹き込むなよな……?」


「変なこと? 吹き込まれて困るようなことを姉さんに隠しているのかな?」


「捏造するなよ、って意味だ」


「捏造って、言葉自体がエッチだと思わない?」


「思わねえよ!」


「ほらほら、早く卵買ってきて。姉さんが餓死したら、ここに住めなくなっちゃうよ」


 どうあっても、僕を買い出しに行かせたいらしい。


 ならさっさと行って卵を買って来た方が良い。吹き込まれる前に帰宅してしまえば僕の勝ちだ。


 ということで僕は部屋に戻り部屋着から着替えて、卵を買いに向かった。


 十分、いや五分で戻ってやるぜ!



 ※※※



 柿町かきまち葉集はぐるが玄関から出たのを確認した姉、柿町かきまち葉恋はれんは、すぐさま百ヶ狩ひゃっかり音論ねろんを自室に招き入れた。


「あ、あの……ゲームって?」


「あ、それは嘘嘘。もちろん葉集の変なことを吹聴するつもりも捏造するつもりもないんだけど、ちょっとお願い聞いてくれない?」


「お願い……ですか?」


「うん。少し協力して欲しいんだよ、あたしに」


「お姉さんに、ですか?」


「そそ。さっき少し話したけど、あたしは官能小説家で、つまりエロい文章書いて生活してるんだけど」


「は、はい」


 百ヶ狩音論は葉恋の言葉に耳を傾けながらも、どうも落ち着かない様子。葉恋の部屋にはリビングとは比べ物にならないレベルで、アダルトグッズが置かれている。


 電マ、ローションどころではない。


 XLサイズの棒やらも置いてあるので、それは年頃の女子として、なかなか集中できる環境とは言いがたい。


 集中を欠いている百ヶ狩音論に葉恋はお願いを続けている。


「実はさー、次作のアイデアがどれも弱くて困っててね。なかなかインスピレーションが刺激されないのよ。だから、だからだから、そこで協力して欲しいんだよね。もちろんタダとは言わないよ、ちゃんとお金払うよ」


「お金貰えるんですか!?」


 食いついた。お金——というワードに食いつき、百ヶ狩音論の集中は葉恋の言葉にだけ向く。


「おお、食いついたね。金欠なの?」


「はい、うち貧乏なので、臨時収入はとても助かります!」


「なるほど。じゃあお願い、聞いてくれるかな?」


「はいっ! お任せください!」


「はは、頼もしい」


「それで、私は何をすれば良いんでしょうか?」


「うん、えっと百ヶ狩音論ちゃんだよね。音論ちゃんって可愛い声してるって言われない?」


「んー、特に言われたことないです」


「そうなの? すごく可愛い声してるのに。女の子って感じの声質なのに、少しハスキーさもある。歌とか上手いんじゃない?」


「歌……好きですけど、上手いのかはわからないです。カラオケとか行ったことないので、えへへ」


 カラオケに行ったことがない。それは歌うのが恥ずかしいから、ではなく、行くお金がないからである。


 言わなくとも葉恋は察したのか、それともそんなことはどうでも良いのか、話題を戻した。


「それで、そんな可愛い声をしている音論ちゃんにお願いしたいのはね——」


「はい、なんでしょう」


「喘ぎ声聞かせて!?」


 両手を合わせ、頭を下げて葉恋はお願いした。


「あえ、ぎ……ええっ!」


「三千円出す!」


「さんぜ……あうううううううううう」


 葛藤中。百ヶ狩音論は葛藤していた。


 三千円。はたして喘ぎ声を聞かせるだけで三千円が手に入るならば安いのでは——でもそんなの恥ずかしいし、喘ぎ声なんて出したことないし、どうしたら、どうしたらいいのだろう、と。


 脳内で葛藤する百ヶ狩音論にトドメの一言——もとい即答へのブーストワードが投下された。


「五千円!」


「やります!」


 こうして百ヶ狩音論は、葉集が卵の買い出しに向かっている時間に、その姉である葉恋のお願いを受諾した。


「でも、やっぱり恥ずかしい……」


 五千円に即答をしてしまったが、それでも羞恥心は正常。


「その辺は任せて。ちゃんといい案があるからさ」


 そう言って葉恋が取り出したのは、マイク。


 マイクはマイクでも防音マイク。口をおおう防音マスクと一体になっているマイクである。


「これを使えば、音論ちゃんの声は外に漏れないから安心」


「でも……人前でだと」


「だよねえ。だからあたしは外に出てるよ。音論ちゃんの声は、接続したパソコンに録音して後で聞く。もちろんあたし以外には絶対に聞かせないと誓う。それでどう?」


「そ、それなら、はい……恥ずかしいですけど」


「うし、じゃああたしは部屋から出るね。なんだったらここにある玩具、自由に使ってくれても良いよ、未使用品だから!」


「つ、使いませんよっ!」


「あはは、じゃああたしはルームアウトかますね」


 ガチャ——と。部屋を出ていく葉恋。


 残された音論。


「ふう……」


 と、一息吐き、マイクを口に当てる。


「————っ! ————、——!」


 数回声を出し、音漏れしていないか確認。


 防音性能に問題ないことを自分の耳で確かめ、そして。


「……っ、————、——っ————、——っ……!」


 音論はマイクに向かって徐々に喘ぎ始めた。

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