◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

(エンディミオン視点)


 我ながら、なんて単純なんだろうと思う。


 いくら毎日、朝のあいさつといっしょに公爵夫人がいかに美しいかを語られて、子守唄代わりにその娘と貴方が結婚したら素敵ねと母から言い聞かされ続けても、公爵とアンジェロの様子を見るにその夢はとても前途多難なものだろうと知っていたのに。


 笑顔ひとつ向けられただけで夢中になった。


 日が昇り朝が来るのを誰にも止められないように、世界中すべてを塗りかえるくらいの眩さで恋することを止められなかった。


 例え前途多難どころか自分の入る余地すらないと何度思い知っても諦めきれないくらいに。


 彼女に自分だけの笑顔を向けてもらえたらと、甘やかな望みは、ずっと胸に巣食い続けてすべての原動力となっていた。




 ────いつかは王子である自分の思いどおりになるのだろうと、きっとどこかで思い上がっていたのだ。




*****


 最初に恋心を打ち砕かれたのは、恋に落ちたその時。

 光輝く宝物を見つけた自分の瞳とはまったく正反対の、凪いだ眼差しを向けられて、これは彼女の心にひとつも触れることがない出会いなのだと悟った。

 それでも何かその心に残すものが欲しくて、我も忘れて甘く語りかけたのだけれど、彼女にとっての「友だち」以上には、その時にはなれなかった。

 次いで恋心を破かれたのは、そのすぐ後だった。

 彼女が、恋をした。

 それも八歳の自分が到底及ぶはずもない相手で、当代の騎士団長、自分にも剣を指南し、そして何よりも彼女がいちばんの理想と語った父親と同じ年齢というあまりにも敵うところがない相手だ。

 けれど、それでも彼女を諦めなかったのは、その恋が叶うことがないと知っていたから。

 実際に親子ほどの歳の差で、騎士団長が彼女の気持ちに応えることがないことも、彼女自身が積極的にはそれを望んでいないことも、二人のそれぞれの様子から察せられた。

 歳の差は変えられないけれど、いつか騎士団長のような男になれれば、将来的には希望があるのではないかと、彼女の側にいることを諦めなかった。


 それから五年。

 騎士団長がまさか養子ラガロの母親と結婚するとは思わなかったが、彼女の恋は誰の目から見てもわかる形で終わりを迎えた。

 その時、自分が何をして、何をしなかったか。

 すでに二度も経験していた失恋の痛みに怯えて、今その痛みを抱えている彼女にすぐに寄り添うことができなかった。

 言葉や態度で恋慕っていることをずっと伝えているつもりで、彼女からの決定的な一言だけは聞かないように、無意識で最後の一線だけはずっと越えないよう癖がついていた。

 だから、自分の立場やいろんなことを言い訳に、なりふりかまわずに彼女の手をとって慰めることをしなかった。

 どうしてそれをしなかったのか。

 後悔はすぐにやってきた。

 自分以外に慰められて、涙を流したり、笑顔を取り戻す姿を眺めていただけの自分に嫌気が差した。

 

 だから、それから私は変わることにした。

 彼女を心から想っていることを誰よりも伝えるのに躊躇うことを止めた。

 自分以外が彼女を想っていることももちろん知っていたけれど、彼らは王子である自分に遠慮をしていたし、遠慮ができるくらいなら、自分ほど彼女を求めている者はいないとすら思って、傷ついた彼女に今度こそ自分を見てもらえるよう努力を続けて、三年。


 人生には思いも寄らないことが待ち受けているものだ。


 千年も沈黙を続けたアステラ神が王国を揺るがす神託を下し、本当に星の巫女が現れた。

 一国の王になるという責務を全うするとともに、恋する少女に想われる男になるという目標を掲げて努めていた日々に、避けようもない試練が飛び込んできたのだ。

 異世界から来たという巫女の素直さも、天真爛漫さも、今まで見てきた貴族令嬢にはまるでないもので、確かに目新しく好意的に受け止めはしたものの、この心に住まう恋を覆すほどの衝撃ではなく。

 この試練こそが、自分とルクレツィアを結びつけるための試練なのだと確信した。

 王国を厄災から救い、そうして彼女と結ばれるハッピーエンドを勝ちとるために奔走して────そのどれもが自分の運命に少しの小波さざなみも立てられていないことがわかったのは、三つ目の星の時。


(……いいや、本当は、ずっと、心の奥底で不安だった)


 どんな言葉をかけても彼女の心には届かず、それでも友だちとしての笑顔でも向けられると嬉しくて仕方がなくて、見えていないフリをしていた。

 彼女をいちばんに想っているのは誰か、彼女の心に触れているのは誰か、星の巫女から指摘を受けたこともあったけれど、それでもまだどこかで間に合うと思っていた。


 ────そのすべてが無意味なことだと突きつけられた。


 淡い期待も、挫けそうになる不安も、なんの実にも成らずに、彼女の存在そのものを脅かすことが起きるなんて、あまりにも残酷な運命だ。

 ハッピーエンドははじめから用意されていない。

 あるのは、永遠の別れだけ。


 ビランチャの星の未来視から知らされた彼女の余命を誰かに否定して欲しかった。

 祈るような気持ちでリブリの塔から王城に帰る頃には、未来視が決定的な事実として目の前に迫っていることだけが明らかになった。


 はじめて会った八歳の時から、彼女と結ばれることを思い描いて、焦がれて、手を伸ばし続けたのに、何も叶わないまま、報われないまま、彼女がいなくなってしまう?


(どうして────)


 やがて訪れるというを、暗い場所からぼんやりと眺めていると、頭の中に浮かぶのはこの言葉だけ。


(どうして────彼女が死ななければならない)


 ………そんなのは嘘だと誰か言ってくれ。


 はじめて会った時に見せてくれたはにかんだ笑顔も、巫女やスカーレットに向けた友愛の笑顔も、アンジェロやファウストだけに見せる親愛の笑顔も、私の心を込めた言葉をかわす時に見せるつかみどころのない笑顔すら愛しくて全部思い出せるのに、それがもう二度と見られなくなるかもしれない。

 そう思うと怖くて怖くて、何も考えたくなくなるのに、そんな途方に暮れた思いでいる間にも、はひたひたと足音をたてて容赦なく近づいてくる。

 それに気づいても、また、どうしてという言葉だけが頭をめぐる。

 

 どうして、どうして、どうして────


 彼女に一目会いたくても、自分の立場と彼女の状況がそれを許さない。

 恋する少女に会うことさえままならない立場とはなんだ。

 彼女のために何かをしたいのに、するべきことは国を救うこと、そうしてビランチャの星の力で知った事実に彼女の義弟が姿を消してしまったのを見つけることで、彼女自身の運命を書き換えることは何もできない。

 今、この瞬間に病を治せる特効薬を作るとか、そんな出来もしないことを考える猶予さえない。

 最後に一目、とは言いたくない。


(彼女を助けたい。

 他の何を捨ててもいいから)


 それだけが、何もまとまらない頭が、恐怖に絶望しそうになる心が出した答えだ。


(でも、どうやって?)


 ぼんやりと停止しそうになる思考をとにかく動かし続けて、行き着いたのは我ながら嫌になるほど他力本願の神頼み。

 それでも。

 この際神でも悪魔でもなんでもいい。

 彼女の命を救えるのなら。



 ────スピカ。



 ヴィジネー家に稀に現れるという星持ち。

 どんな病でも癒せるというその力を、何が何でも探し出さなくてはならない。

 もし今この時代に存在しないのなら、新たな星の力に縋るしかない。

 次の新月までにはすでにひと月を切っているが、彼女の命が尽きるのと、どちらが早いか。

 それでもその力に縋るしか彼女の命を永らえる手段がないのなら、そのために手を尽くすしかない。

 間に合ってくれと祈るしか出来ないのは、ただ擦り切れるばかりの時間だけれど。


(その希望がなければ息もできない)


 本当なら、ヴィジネー家に与えられる新たな星の力は、今ある治癒力の強化を予定していた。

 いつ現れるかわからない今のスピカのように、やがては弱まってしまう「どんな病でも治す」というような夢のような力ではなく、ヴィジネー家が持つ「治癒」の力をもっと体系化して確固としたものにすると決まっていた。


(でもそれでは足りない)


 ルクレツィアを救うには足りない。

 どんな病でも治す、絶対の力が必要だった。



*****



 その選択は、エンディミオンにもうひとつの選択を強いていた。

 例えスピカの力でルクレツィアの病が癒えても、エンディミオンはもう二度と彼女との将来を望めない。

 病は、王太子妃、ひいては将来の王妃になるには最大の瑕疵となる。

 例えスピカの力で癒えたとしても、それが本来の国の方針を妨げて行使されたなら、彼女がその立場に推されることは二度とない。

 責任をとってエンディミオンが王位継承位を辞退したとしても、それでもエンディミオンがルクレツィアの手を取ることは出来ない。

 それが、国の利益を私情で損なうことの報いだ。

 まるでその命を救った恩と引き換えのようにルクレツィアが自分に嫁ぐことも望まないけれど、自分が王太子位から退くことも、きっとルクレツィアは良しとしないだろうから。


 ────他の何を捨ててもいいから。


 それが、これまで自分を築いてきた恋心との決別だとしても。


 エンディミオンはルクレツィアを救いたかった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 王城の図書庫には、王族専用の個室がある。

 王族ですら持ち出しが許されない本を閲覧できるように設えてある部屋だが、エンディミオンは、自分用の個室の机に積み上げた本を端から端まで繰り返し読み続けていた。

 アステラ神の神託があって、災厄に対する指揮権を国王から賜ってからずっと、関わりのありそうなものは古書も禁書も歴史書も、新聞記事は時代も問わずに機関紙からゴシップ誌まで、国中から集められるだけかき集めて、シルヴィオやアンジェロたちの手を借りながら選り分けて残ったものでも、一人で使うには大き過ぎる一枚板の閲覧テーブルを埋めてしまっていた。

 それらをもう何往復もして、すべて頭に入ったと思ってもまだどこかに新しいことが書いてあるのではないかと、調べる手を止められない。

 日中は、教会や十二貴族をはじめ古くから残る貴族の邸に赴いて、持ち出すことのできないそれぞれの家門で所蔵する古い日記や当主の残した記録などを求めて協力を要請したり、直に話を聞きとりに行ったりとやるべきことは沢山あったから、睡眠時間を削ってそれをしていた。

 ……ルクレツィアのためにスピカの手がかりを探しはじめると、エンディミオンは取り憑かれたように夜な夜な資料を読み漁った。

 もう何夜まともに眠っていないのか。

 何も新しい発見がないことに苛立ち、目の前の本の一画を力任せに崩してしまうこともあるが、それを床から拾いあげては、また同じ文章を食い入るように読む────


 そんな兄の異様さに、オリオンは足が竦む思いで扉の影から部屋の中をそっと覗き込んだ。

 今日も顔色の悪いエンディミオンが、月明かりとわずかな燭台の光の中で、わずかに空いた卓上の隙間に浅く腰掛けながら本を読み耽っている。

 いつもちゃんとしていて明朗な兄らしくない、着崩れたシャツの襟が彼の余裕のなさのようで、オリオンは声をかける勇気が固まるまで、何度も深呼吸をしなければならなかった。


「あの、あにうえ……」


 それでも萎れた花みたいに、声はか細く小さくなった。

 いつもならこちらが声をかける前に気がついて、夕焼けの瞳で笑いかけてくれるのに。

 すぐにでも泣き出したい気持ちのオリオンだったが、深更の城内では、そんな小さな声でも不思議とよく通ってエンディミオンの耳に届いた。


「……オリオンか。こんな時間にどうしたんだ?」


 疲れた様子でも、エンディミオンはオリオンに笑いかけた。

 いつもとは比べるべくもない弱々しさだったけれど、自分の声が兄に届いたことにオリオンは少しだけ安堵した。


「お休みに、なられないのですか」

「うん。目が冴えてしまってね」


 まるで今日だけみたいな口ぶりで答えるけれど、ずっと休めていないことをオリオンはよく知っている。


「お前は、いつもならもうとっくに寝ているだろう。私に用があるのかな?」


 咎めるでもなく、不思議そうに首を傾げる兄に、オリオンはどうしても言わなければならないことがあるため、ここへ来た。

 本当は守らなければならないいろんな規則を追いやって、ここまで来た。

 それこそ呼ばれた夜会の臣下の邸で、隠れて木登りをするようなとんでもない暴挙なのかもしれない。

 そこへ踏み込むのはとても怖いことで、すぐにでも引き返したくなるけれど、それでも躊躇っている時間はもうほとんど残されていないとわかっているから、オリオンは勇気を振り絞るのだ。


「…………ルクレツィア嬢は、本当にもうよくはならないのでしょうか」


 この名前を出すことも、その様子を聞くことも、喉から心臓が飛び出るかと思うほどに緊張した。

 でも、言わなければ。


「────そうか、お前もその場にいたんだったね」


 オリオンに聞かれて改めて思い出したように、エンディミオンは苦い顔をした。


「はい…………」


 ルクレツィアが目の前で倒れてしまったことは、少なくない衝撃をオリオンに与えていた。

 それを想像するのは容易いことで、その時の状況を聞いていたエンディミオンは、まだ幼い弟にあまり気を遣ってやれていなかったと今になって反省した。


「噂をまともに受け止めなくていいとは、言えないな……」


 悄然とうなだれる弟に、エンディミオンは気休めの言葉を口にすることができなかった。

 ルクレツィアの病状については、誰もはっきりとしたことは言わないが、噂はたくさん囁かれている。

 血を吐いたことまではその場にいた者しか知らないはずだが、それでも公爵家やエンディミオンの様子から、噂と大差のない状態であることが知れてしまっていた。


「兄上は、ルクレツィア嬢を、お助けするのですよね?」


 日に日に悪くなる顔色で、それでもエンディミオンがまったく諦めずに手を尽くしているのを見ているから、オリオンも奮い立った。

 本来は気弱で、自らルールを踏み外すなんて考えたこともない。

 けれど、人が血を吐くのを見たことも、それがよく知っていて、いつか義姉になるかもしれないと憧れていた優しいルクレツィアだったことも、それを踏み越えるに十分な理由だった。

 ルクレツィアが自分の目の前で倒れたことは、偶々のタイミングだったとしても何かの因果を感じずにはいられなくて、彼女のために出来ることが少しでもあるとしたら、怖じけていてはいけないと、オリオンは心を決めたのだ。

 だから、オリオンは兄のところへ赴いた。

 人が寄りつかない夜更けの図書庫を選んで、


「…………勿論、そのつもりだよ」


 弟の覚悟を知らず、まだ何の手がかりもない状態に焦りで浅くなる呼吸を無理やりに押し込んだエンディミオンだったが、ようやく、弟の様子がおかしいことに気がついた。


「オリオン、」


 弟は開いた扉の前から室内に入って来ようとはせず、しきりに背後を気にしていた。


「……誰かいるのか?」


 夜も深い王城で、怖がりなところのある弟が一人で出歩くのはとても勇気のいることだろう。

 けれど従者や近衛の気配はなく、部屋から漏れた光の届かない暗がりに、自分よりももっと小さな人影を隠していた。


「みつかってしまったな」


 まるで隠れんぼでオニに見つかったときのような気軽さで顔を出したのは、


「グラーノ殿」


 聖国の使節団の代表である、オリオンよりもまだ幼いグラーノだった。



 聖国の使節団の代表としてやってきたグラーノと、星の災厄の責任者としてエンディミオンは一度挨拶を交わしている。

 だが、接触は最低限に、というのは各々の立場上仕方のないことだった。

 例えお飾りの代表だとしても、グラーノは現在ステラフィッサ王国に逗留している聖国の顔だ。

 第二王子をそのそばに置くことで賓客の扱いとしているが、星探しには関わらせない、という方針はその人選にも現れている。

 なんの権限もなく、星探しの具体的な活動には不参加の第二王子と共にあることで、ステラフィッサ王国に来る、という以上の干渉を許していないのだ。

 そのあたりを、オリオンも王族の一員としてよくよく言い含められていた。

 聖国側からなんの支援もない以上、王国から聖国に与える情報があってはならない。

 ただの監視か牽制にしたとしても、国内に招き入れるだけでもステラフィッサとしては譲歩しているのだ。

 ヴィジネー家が束ねる国内の教会以外では、ステラフィッサ王国と聖国とは緊張関係にある。

 中でもガラッシア家、当代の公爵は顕著に聖国を疎んじて見せるため、十二貴族以下の貴族家も慎重な立場を取らざるを得ない。

 各家で歓迎の夜会を開きはしても、表面だけ煌びやかに整えたいかにも貴族らしい化かし合いが実態だ。

 ヴィジネー家だけが、どちらかといえば王国寄りの立場をとるが、要は中立、聖国との橋渡しの役割を果たしている。


 そんな中、オリオンが当の使節の代表を、秘密裏にエンディミオンのもとに連れてきた。

 例え王城と大聖堂ドゥオモが目と鼻の先にあっても、グラーノが気軽に訪える場所ではない。

 行動を制限され、あらゆる煩雑な手続きを踏んで王城を訪ねたとしても、第一王子と会談できる機会はかぎりなくゼロに等しい。

 だからこそ、護衛の一人も付けずに、オリオンは夜の深い王城で人目を避けてグラーノを招き入れた。

 バレたら叱られるどころの話ではない。

 下手をすれば王家の体面さえ傷つけかねないが、今、誰よりも必要とされるのがグラーノだと、グラーノからその秘密を打ち明けられたオリオンは知ったのだ。

 その秘密が嘘か本当か、オリオンには判断が出来ない。

 けれどこの三ヶ月で築いた関係から、そんなことでグラーノが嘘をつくとは思えなかった。

 フォーリアにさえ内緒でエンディミオンに会って話しをつけたいと言うのだから、オリオンはそれだけの理由でも、グラーノの話をエンディミオンに聞いてもらうには十分だと思ったのだ。

 夜の王城は暗くて怖いし、見つからないようにグラーノを王城内に引き入れるのは至難の業だろうと覚悟をしていたのに、グラーノは、王城のことを

 オリオンさえ知らなかった隠し通路さえ使ってみせて、エンディミオンのいる図書庫に二人でたどり着いたのだ。


「オリオン、これはどういう……」


 姿を見せたグラーノに、エンディミオンは当惑した。

 オリオンは控えめな性格ながらも、王族としての責任感は強く、グラーノに対する自身の役割も重々承知しているはず。

 それがどうして、自分に聖国の代表を突然引き合わせる理由がわからない。


「オリオン殿を、叱ってやらないでいただけますか。

 儂のワガママを聞き入れてくれたのにも、きちんと理由があるのです。

 王太子殿下の、兄である貴方を思いやってのこと。

 どうか、まずは儂の話を聞いていただきたい」


 幼い見た目とはウラハラに、こちらを諭すような、導くような悠然とした話し方には、どこか違和感があった。

 子供ながらに威厳を持たせようとしていた、はじめの挨拶の時とは、何かが違う────

 エンディミオンは、ひとまず二人を室内に招き入れることにした。

 図書庫の奥、王族用のエリアだとしても、誰の目に触れるかわからない。

 扉の外に二人以外の姿がないことを注意深く確認すると、エンディミオンはしっかりと扉を閉め施錠した。

 鍵をかけることで、この部屋はどんな機密も漏れない完全な防音魔法がかかる仕組みになっている。


「それで、話というのは」


 応接の用意がされているのは、アンジェロたちもここで調べものの手伝いをすることがあるからだが、大きくもないソファーでも十歳前後の二人が座るとまだまだ小さな体であることが強調される。

 ただでさえ時間のない中、焦るばかりの気持ちに幼い二人の話を聞く余裕はあるだろうか。

 エンディミオンは束の間自問するが、無碍に追い返すには、そこまでの気概が湧くほどの確かな手応えがこの本ばかりを読み漁る時間にはもうなくて、自分も椅子に深く腰掛けて話を促すことにした。


「兄上、グラーノ殿の話を聞いても、誰にも、父上にも母上にもお話ししないと、約束していただけますか」


 居心地の悪そうに座っていたオリオンだが、グラーノが口を開く前に、エンディミオンに懇願する瞳を向けた。


「約束するにも、話を聞かなければ判断できないな」


 もちろんエンディミオンは安易な約束はできない。

 それが弟の言うことだとしても、万が一国力を損なうことに繋がってはいけない。

 それは王太子としての責務だ。

 オリオンもわかっているはずだが、この場ではエンディミオンはステラフィッサ国の代表、グラーノは聖国の代表になるのだ。


「けれど……」


 グラーノの話す内容を知っているオリオンは、隣に座る、自分より幼い顔の少年を窺った。

 自分より年下の、元気で、少しだけ無謀な、聖国の代表という重い旗を掲げさせられながら、なんのことはないと無邪気に笑っていた少年。

 それが、あの日、ルクレツィアが倒れるところを見てから、まるで全て達観しているかのような静かな青い瞳になってしまった。

 王都のどこを見ても懐かしげにその目を細め、やがてルクレツィアの噂が重苦しくなっていくとともに、覚悟を決めた瞳で、グラーノが抱えている秘密を打ち明けて、エンディミオンに話をする時間をくれないかとオリオンに頭を下げてきた。

 グラーノはオリオンを信じて打ち明けてくれたのだ。

 ではエンディミオンはどうだろうか。

 不意に不安になって、オリオンは話し出すのを躊躇したが、グラーノは大丈夫だというようにオリオンを制した。

 オリオンの躊躇いに感謝の目礼をして見せるほど、グラーノには余裕が感じられる。

 今まで自分に木登りや無茶な探検を強いていたグラーノではないことはもうわかっている。

 そうだけれど、オリオンはグラーノをもう友だちだと思っているから、あまりにかけ離れた言動を見せられると無性に哀しくなる。

 もう自分の知っているグラーノではないことを思い知らされるから、とても悲しくなるのだ。


「オリオン、グラーノ殿、その話はそれほどのことなのだろうか」


 オリオンの様子の変化にエンディミオンも気が付きはしたが、今は慮るだけの時間も惜しいと感じてしまう。

 我ながら余裕がないとわかってはいるが、ルクレツィアの命の時間を考えると、エンディミオンは平常ではいられない。

 突き放すような言い方になってしまったが、そんなエンディミオンの心情さえグラーノは包み込むように笑顔を見せた。

 

「話を聞いて、殿下がどんな判断をくだされても儂はそれに従いましょう」


 信じるも、信じないも。

 嘘だと断じて、罰されようと。

 グラーノは静かに続けた。

 

「単刀直入に申せば、スピカを、知っております」


 グラーノの言葉に、エンディミオンは瞠目した。


 ────スピカを、知っている。


 今、エンディミオンが求めて止まない存在。

 その一端を掴もうと必死になっている最中さなかで、まだ何もわかったことがないと焦りばかりが肥大している矢先に、それを知っていると幼い聖国の代表が言った。


「スピカを、お探しなのでしょう」

「待て……、待ってくれっ」


 グラーノが重ねた言葉に、エンディミオンは思わず声を荒げた。

 確かに、探している。

 ルクレツィアを助けるためならば、何を置いても見つけ出さなくてはならない。


 スピカは、ステラフィッサ王国でもお伽噺のような存在だ。

 王家や十二貴族の主だった者の間では、ヴィジネー家に確かに存在する特別な能力者だと認識されているが、を知る者はほとんどない。

 リオーネ家のラガロの星のように分かりやすい印を持たず、その類稀な能力だけでそうと知ることができる、スピカの星。

 先の星護りの巫女、エリサの日記の一冊目の最後に記されていたのは、ヴィジネー家の始祖、エレットラ・ヴィジネーが人々を癒す力を星から授かったことだ。

 元々、治療師としてバルダッサーレ一世の行軍に随伴していた女性だ。戦乱の時代、多くの死を看取った女性が選んだ力としては、これ以上ないほどに妥当だろう。

 しかしそのせいか、ヴィジネー家の系譜に連なる者は怪我や外傷を癒す力を今でも多少なりと持っているものの、病に関しては特別な「星」が必要だった。

 その事実と伝説が入り混じり、ヴィジネー家には昔、病を治せるものがたくさん居たかのように語られることがあるが、病を治せるのはスピカを持った者だけだ。

 スピカを持つ者は、一千年の歴史の中に点在している。

 その力を大いに振るい、死の病の者を助けたという逸話を作りながら、彼らは短い人生を駆け抜けるように夭折してしまう。

 そんな記録を国中で見つけることができるが、共通しているのは、すべてが終わってからこの話が世に出ていることだ。

 誰も自らの力を公には明かさずに、死後、その功績を称えられている。

 

 ルクレツィアの病が分かってから、エンディミオンはもちろんまずはじめにヴィジネー侯爵を尋ねた。

 スピカの所在を当主なら知っているものと思ったし、これまでのスピカの在り方から他言できない制約があるのだとしても、なんとしても教えてもらわなければならないという強い気持ちで。

 エンディミオンのみならず、もちろんガラッシア公爵家からも、ヴィジネー家の娘としてのエレオノーラからも、王家からも、それぞれ侯爵家にスピカについて情報を求めた。

 けれど、芳しい話はひとつもなかった。

 隠しているのではなく、本当に「知らない」、あるいは「存在しない」が侯爵家の答えだった。

 スピカは近年、直系には現れず、最後にその存在が確認されたのは百年近く前、ヴィジネー領内でもない地方の教会に暮らす孤児の中に顕現した。

 不治の病と言われた肺病を患った、育ての親である教会の司教にその力を使い、まるで自身の命と引き換えに力を使ったかのようにすぐに儚くなっている。

 公のその話と、ヴィジネー侯爵家の持つ情報に、何の差異もなかった。

 ヴィジネー侯爵とてルクレツィアの伯父だ。

 エレオノーラの娘にかける情もある。

 けれどヴィジネー家の当主にすらスピカの話は入って来ていない。

 ルクレツィアの祖父にあたる先代の侯爵でも、それは同じだった。 

 侯爵家の態度に疑うべきところはなく、エンディミオンも、そして公爵夫妻も絶望した。

 それでもエンディミオンは血眼になってスピカが現れる兆しはなかったか、今どこかにそれは現れていないかを探っていた。


 ……それを、当主でさえ知らないものを、聖国の人間が知っているとはどういうことか。

 いくらルクレツィアが倒れた場面に居合わせたからと言って、吐いて良い嘘ではない。

 仮に本人に嘘を吐いているつもりはなくても、幼い子どもの都合の良い妄想話に迂闊に飛び込めるほど、エンディミオンも我を失ってはいなかった。


「貴公は、自分が何を言っているかわかっているのか」


 厳しい態度にならざるを得ないエンディミオンに、グラーノは静かな眼差しで首肯した。


「おそらく、今のステラフィッサの中では、誰よりも知っておりましょう」

「貴公が、何故?」

「生まれた国の、生まれた家の力のこと、知らぬわけもありますまい」


 落ち着いた声音のまま、グラーノはエンディミオンに言い聞かせるようにゆっくりと告げた。


「儂は先々代のヴィジネー侯爵、ルクレツィアは、曾孫になりますかな」


 幼い口が語る言葉に、エンディミオンは咄嗟に返すことができなかった。

 何をバカなことをと笑い飛ばすにも、叱り飛ばすにも、呆れてしまったというよりは、グラーノの纏う空気に飲まれてしまっていたというべきか。

 言葉のないエンディミオンに、グラーノは決して幼くない自嘲の笑みを混ぜて、自らの姿を顧た。


「このなりでは、とても説得力に欠けることは承知で申し上げております。

 これも星の呪い……、儂が、星の力を正しく使わなかった代償とでも思ってくだされ」


 疲れ切った老人の横顔を覗かせながら、グラーノは語った。

 その姿の秘密を。


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