「ファウスト君、ファウスト君、ファウスト君!」


 弟の名前を連呼しながら全力疾走してくるのは、見慣れない男の子です。

 そんなに呼ばなくても逃げないでしょうに、と思いファウストのお顔を窺うと、あら、いつもは動かない表情が薄らと曇っております。


「ファウストのお友だちかしら?」

「いえ、ハイ……い、いえ……」


 どちらなのかしら?

 いつもわたくしの質問には淀みなく辞書のように答えてくれますのに、とても歯切れの悪いお返事です。

 肯定も否定もしたくない葛藤が、その微かな眉間のシワに見て取れました。


「ファウスト君!!!」


 とっても嬉しそうお顔で走り寄ってきた男の子の印象はというと、


(世界観が一人スチームパンクですわね!)


 いろいろと設定を盛られすぎのような気がいたしました。


 薄緑の髪はくるくるでもじゃもじゃの猫っ毛で、その頭に大きめのハットを被り、その鍔には左右非対称のゴテゴテとしたゴーグル?たぶんゴーグルが乗っております。

 詰襟で裾が燕尾型になっている上衣には用途のわからない革製のベルトとポケットがあちこちについていて、規格外の大きな懐中時計がぶら下がっているのはまだ理解いたしますが、なぜそこに?というところに歯車のモチーフや鋲が散りばめられております。 

 足元はこちらの世界ではまだ珍しい膝まであるエンジニアブーツで、乗馬服のような膝上のふくらんだパンツをインしている格好です。

 上から下まで、すべてこの乙女ゲームの世界から逸脱しております。


(お顔立ちは……おそらく攻略対象ではありませんわね)


 人畜無害そうな糸目にそばかすの浮く、いわゆるサブキャラクター顔です。

 その細い目からも、瞳を輝かせてファウストを見ていることがわかります。


「工房に行ったらいないし、お邸を訪ねても家族の行事だと言うから、探してしまったよ!」


 息を荒げて屈託なく笑いかけてくる様子に、決して悪い子ではないのだろうとは思うのですが、ここへ来て許容量を超えてくるキャラクター像なものですから理解が追いついておりません。


「昨日も、今日はいないことはあらかじめお伝えしたと思いますが」


 ファウストが渋いお顔をして応じますが、


「そうだったかい?」


 そんなことははじめて聞いたとばかりに、男の子が動じることはありません。


「でも行き先が王城なら、助手である僕が君のお供をしないわけにいかないじゃないか!

 ピオとロッコも王城の中まではついて来られないし」


 助手?

 双子の名前も出ましたから商会の関係なのだとは思いますけれど、はじめて見るお顔です。

 こんなに全身で個性を発しているのですもの、すれ違っただけでも忘れられないと思うのですが、我が家でも、たまに行く工房のほうでもお会いしたことはありませんわね。

 王城の、しかも招かれざるものは辿り着けないお茶会の第二会場まで来られたということは、この子も高位貴族のご子息、ということかとは思いますが……。


「ねえさま、ご紹介します。

 ジョバンニ・カンクロ伯爵子息です」


 戸惑うわたくしに、ファウストは「仕方ない」と顔に書いて彼を紹介してくれました。


「まあ、カンクロ伯爵の」


 まさか十二貴族の、それもカンクロ家とは思いませんでしたわ。

 カンクロ伯爵にもご一族にもお会いしたことはありませんが、ご高名は存じ上げております。

 カンクロ家なら、いくらか行列を飛び越えてここへ至れるのも頷けますわね。


「ねえさま?ファウスト君には姉がいたのかい?」


 そこでようやく、ジョバンニ様はわたくしの存在に気がついたようです。


「はじめまして、姉君。

 ジョバンニ・カンクロと申す者です。

 かねてよりファウスト君の研究に大変感銘を受けておりまして、浅学ながらそのお手伝いをさせていただいております。

 いやはや彼の才能は素晴らしい!

 僕などにはついぞない発想で次々と新たなものを生み出す手腕はもう神の御業みわざと言っても過言ではないと僕は常々思っているわけで、微力ながらその一端に携われているのは望外の喜びでそれから」

「ジョバンニ、ジョバンニっ」


 立板に水とはこのことかと、こちらに名乗らせる隙も無いジョバンニ様のファウストへの美辞麗句の海で、わたくし溺れそうになっておりました。

 あんなに目立つ登場をしたわけですから、お兄さまがフェリックス様とシルヴィオ様を従えて救出に来てくださらなければ、このままどこの海まで流されていたことでしょう。


「おや、兄君ではないですか、ごきげんよう、どうしてここに?」

「どうしてはこちらのセリフかな。

 今日のお茶会はカンクロ家は欠席と聞いていたけれど」

「お茶会?

 ああ、殿下に誘われたお茶会のことなら、欠席すると家令がお返事したと言っていたような」

「そのお茶会が今なのだけれど、伯爵に連れられてきたわけではなさそうだね」

「我が父はしばらく、東のバン……いやビン……はて西だったかな、ボンなんとかいう領地に行って帰っておりませんから、ここへ来るのは無理でしょうね」


 すごく、すごく安心するほどのサブキャラぶりです。

 会話の噛み合わなさに、お兄さまは頭が痛いようなお顔をしておりますが、ここまでとぼけていると、むしろ楽しくて好感の持てるサブキャラに昇華してしまいます。

 単純に、一人スチームパンク風味なのは製作サイドのどなたかの趣味をサブキャラに詰め込んだ故でしょうか。


「ここへ来た以上、殿下にはきちんとご挨拶をして来たんだろうな」


 シルヴィオ様もたいがいお兄さまと同じ表情で、


「オレひさしぶりに君の顔を王城で見た気がするんだけど、変わらなくて何よりだよ」


 フェリックス様も皮肉なのだか面白がっているのだか、ジョバンニ様の扱いには手を焼いているのがわかります。


「殿下ですか?先ほどお見かけしましたけど、お忙しそうでしたので通りすがりに一言声をかけてこちらへ来ましたが」

「お前、今日がいったい何の会だと思って……」


 シルヴィオ様のお顔は、わたくしに向けていたものとは比にならないほど険しくなっており、ジョバンニ様の胸ぐらを今にも掴みそうな勢いです。

 お怒りのときのお顔は、本当はこうなのですわね。


「はて、そういう雑事は家令に任せておりますし、出る必要がないから欠席のご連絡になったのでは」


 聞かれたことに思ったままを伝え、悪気も何もないご様子のジョバンニ様ですが、シルヴィオ様の頭の血管が切れないか心配になります。


(ええと、)


「ジョバンニ様は、ファウストと仲良くしてくださっているのね」


 ここはわたくしも空気を読めない天然キャラでかぶせるしかありませんわね。


「いやあ、そんな、僕がファウスト君の友だちだなんて」


 場の毒気が抜ければ御の字でしたが、思った効果の斜め上に、ジョバンニ様が盛大に照れてしまいました。


「……」


 ファウストは無言ですが、とても何かを言いたいような気配は発しています。

 照れとかではなく、何か素直に肯定し難い、複雑な思いのようです。


「で、姉君、お名前はたしか……」

「ルクレツィアと申しますわ」

「そうだ、ルクレツィア様だ、今日はファウスト君と王城で……んん?ルクレツィア……そのお名前どこかで聞いたような」


 わたくしようやく名乗らせていただけたのですけれど、どうやら早くも次の思考にジョバンニ様は飛んでいらっしゃるよう。


「姉君!ファウスト君の商会にたしか姉君のお名前もありましたね!」

「ええ、ファウストのために、お兄さまといっしょに作っていただいた商会ですの」

「それはなんという先見の明!

 ファウスト君の才能を見い出した本元ということは、僕をファウスト君の元へ導いた恩人ということでもありますね!」


 ジョバンニ様はわたくしの手をとると、それはもう強い感謝を込めて握手をされました。


「!」「……っ」「な!」「わぁ」


 それにはさすがにお兄さまもファウストも声をなくし、シルヴィオ様とフェリックス様も目を見開きました。

 通常、家族以外が異性の手を取るのは、婚約者のみですものね。

 この世界では、キザなキャラクターが女性の手の甲にキスなど気軽にしていい文化ではなく、騎士の忠誠の誓いなど、かなり特別な場面でしか許されません。

 それなのにジョバンニ様は、それはもうしっかりとわたくしの両手をつかみ、ぶんぶんと振り回すような勢いで握手を続けるのです。


「ふふ、うふふ、面白い方っ」


 驚きはしましたけれど、絶対に他意がないとわかっておりますし、ファウストへの敬意故と思うと許せてしまえる振る舞いで、わたくしは思わず笑ってしまいました。

 こんなふうに愉快で笑うのは、今世ではなかなかなかったことです。


「ティアっ、すまなかったね、守りきれなかった」


 いち早く立ち直ったお兄さまが、光の速さでわたくしとジョバンニ様の手を引き剥がしました。


「いえっ、ふふ、ファウストは良いお友だちを持っているのですわね」


 必至で手垢を拭うように、お兄さまがわたくしの手をゴシゴシと清めるマネをして、ファウストは無言でわたくしとジョバンニ様の間に立ちはだかりました。


「はーい、危険人物はガラッシアの妖精に接近禁止でーす」


 フェリックス様がジョバンニ様の首に腕を回して引きずっていき、


「貴様の非常識に他家のご令嬢を巻き込むな!」


 シルヴィオ様のお説教がはじまりました。

 解せぬ、というお顔のジョバンニ様を遠くに見てしまいますと、わたくし可笑しくてなかなか笑いが収まりません。


「まぁ、あんな方に手を握られて喜んでいるなんて、公爵家のご令嬢ともあろう方が、品位にかけるのではなくて」


 そこへ飛んで来たのは夏の虫ではなく、スカーレット・アリエーテ様、ここぞとばかりにわたくしを批判する材料を見つけ、駆けつけてくださったようです。

 スカーレット様の言葉に、お兄さまとファウストが気分を害したのはすぐにわかりました。

 お兄さまは生まれながらの公爵家嫡男、ファウストは通常運転がお人形ですから、見た目はいつもどおりのように見えますけれど、わたくしはさすがに家族だからわかります。

 スカーレット様、お兄さまやこちらに注目していないとはいえ他家のご令息がいる前で、堂々とわたくしを非難するその度胸は買って差し上げたいと思います、思いますけれど、


(思った以上にアタ……考えの足りない方ですのね……)


 スカーレット様はわたくしと同じ八歳ですから、まだちょっと分別やガマンが足りないのかもしれませんが、この場面でその態度を貫けるというのはちょっとどころではない蛮勇です。

 とにかくわたくしを貶したい、傷付けてやりたい、ということなのでしょうけれど、そういうのはもっとこう、人のいない場所でコッソリとするのが悪役令嬢としての最低限のマナーと申しますか、正直ガラッシア家とアリエーテ家では家格が違いすぎるので、露見すれば痛い目をみるのはアリエーテ家です。

 それをこんなに真っ向からいらっしゃるなんて、お宅の教育はどうなっていらっしゃるのかしらとアリエーテ家を家庭訪問したい気持ちです。


「スカーレット嬢は、何か見間違いをされたのだろうか?」


 彼女を咎めるべく、お兄さまが声を上げました。

 もちろん、真っ正直に咎めたのでは、「王妃陛下のお茶会で、アリエーテ家がガラッシア家に失礼を働いた」という事実が確定してしまいますので、搦め手を使って事態を収めるのが常套手段になります。

 落ち着いた振る舞いをしているように見せているお兄さまですが、多少の圧が漏れているのは仕方ありませんわね。

 絶世の美形の真顔にスカーレット様は一瞬怯んだ様子ですが、ツン、とそっぽを向いて、


「わたくし、見たままのことしか言っておりませんわ」


 と、なんとお兄さまに応戦するではありませんか。

 お兄さまのお顔に負けないその胆力は賞賛に値しますが、


(スカーレット様……本当に軽率おバカさんでいらっしゃるのね……)


 貴族の中で最上位の公爵家の嫡男に、いくら十二貴族とはいえ下位の伯爵家のご令嬢が反論するなんて、「おもしれー女」にしか許されることではありませんのよ。


「こんな方がエンディミオン様の婚約者に推されているなんて、わたくし信じられませんわ!」


(あらっ、そういうことですのね)


 とまた効果音のつきそうな強い視線で睨んできましたが、わたくし、スカーレット様の今のお言葉でそのお気持ちが読めてしまいました。

 シルヴィオ様のご婚約者になる方かと思いましたが、どうやら想いは王子殿下に向いているよう。

 そういうことでしたら、わたくしに当たる態度になるのもわかります。

 けれどそんなことをしてもご自分の立場が悪くなるだけですから、貴族令嬢として、王子殿下の未来の婚約者を目指す者として、まだまだ教育は行き届いていらっしゃらないよう。

 できればわたくしの破滅回避のために、王子殿下の婚約者枠を埋めてくださる方としてご推薦して差し上げたいくらいなのですけれど、どういえば和解できますかしら。


「まぁ、婚約者などとんでもない。わたくし、王子殿下のお友だちにしていただいたのですわ」


 ここでスカーレット様やお兄さまの様子に引きずらてしまいますと角しか立ちませんので、あくまでルクレツィアらしく、わたくしはお花を飛ばすようなゆるやかな調子で、まずはスカーレット様の言葉を否定しました。


「そんなの建前に決まってるでしょ!

 あなたみたいな何にも考えてなさそうな方に、エンディミオン様の婚約者が務まるわけないのだわ!」


 どうも火に油、わたくしの緊張感のない態度に苛立ってしまったようで、小型犬が吠えるが如く、スカーレット様は声を荒げてしまわれました。

 わたくしに王子殿下の婚約者が務まらないということには完全に同意できるのですけれど、そんなに大きな声で喚きますと、ほら、なかなか注目を集めはじめていると思いません?

 レオナルド様とラガロ様とお話をされていたお父さまが驚いた顔で、ビランチャ宰相とお話をされていたアリエーテ伯爵が青い顔でこちらを見ておりますよ。

 アンジェロお兄さまは呆れるようにこの場を取り成すことを止めたようで、ファウストだけがわたくしを守るような立ち位置から一歩も譲らないで、スカーレット様を射るような強い目で見ております。


(困りました……大事にしたいわけではないのですけれど)


 スカーレット様が自ら墓穴を掘っているのを、止めようがございませんでした。

 どうにかこの墓掘り令嬢のお立場を守るべく、わたくしは王妃様に対するお母さまの振る舞いを参考にすることにいたしました。


「まぁ、スカーレット様、わたくしのことを心配してそんな風に仰ってくださいますのね、ご親切にありがとう存じます」


 自分のことを思って叱ってくれたものとして、感激したようにスカーレット様に小走りに歩み寄ると、その両手を掲げ持って包み込みます。

 スカーレット様はギョッとしたような顔で反射的に振り払おうとしましたが、有無を言わさぬ渾身の力で、わたくしはそれを押し止めました。

 異性ではないもの同士、手を繋ぐのは許されております。

 もちろん、かなり親密でなければなかなかしないことではありますけれど、ここはわたくしとスカーレット様が親交を深めているように演出しなければなりません。


「どうしたんだい、ティア。

 アリエーテ伯爵令嬢と、お友だちになれたのかな?」


 お父さま、レオナルド様、ラガロ様、それからアリエーテ伯爵にビランチャ宰相も様子を見にこちらにやって来られました。


「えぇ、お父さま。スカーレット様はとてもご親切に、わたくしにいろいろ教えてくださりますのよ」


 何か言いたそうにしたスカーレット様ですけれど、さすがにいろいろと不味いことに気がついたのか、大人しく手を握られていてくださいました。


「確か娘とご令嬢は同じ年でしたね、アリエーテ伯爵。ぜひこれからも、娘の友人としてお付き合いくださりますか?」

「滅相もないことです、公爵閣下」

 

 中肉中背のごく普通の気弱げなおじ様という風情のアリエーテ伯爵は、美の化身のお父さまに親しげに話しかけられて、可哀想なほど額から汗を垂らしております。


「ああ、そうだ、アリエーテ伯爵令嬢にも、殿下のお友だちとしてティアの付き添いをお願いしたらどうだい?」

「まあっ、お父さま、それがようございます。ぜひお願いしたいですわ!」


 お父さまは神なのでしょうか。神でしたわね。

 これ以上ない奇跡の提案です。


「先程仰っていた件ですかな、ガラッシア公爵」


 それには、豊かな口髭をたくわえたビランチャ宰相が反応しました。

 シルヴィオ様にダンディーを百パーセント上乗せしたような、貫禄のあるお方です。


「ええ、娘は王城でのマナーがまだ心許ないですし、殿下のに望まれたのはよいのですが、娘一人がおそばに上がり、妙な誤解を生んでもお互いに不幸になりますから、希望するご令嬢が王城のマナーを実践で学べる機会を王妃様に作っていただこうかと、奏上申し上げようと思っております」


 なるほど、お父さまの妙案はこれでしたのね。

 

「不幸も何も、ルクレツィア嬢が殿下の婚約者になれば、そのような回りくどいことをしなくとも済むのではありませんかな」


 ビランチャ宰相様、ド正論ですわね!

 でもそれは、当人の、主にわたくしの意思を無視したお話なのです。

 貴族同士の結婚話ですから、わたくしの意思など本当は無視されても仕方のないことなのですけれど、お父さまは最大限のお力で、それも守ろうとしてくださいますの。


「それなんだが、宰相殿」


 レオナルド様が、ビランチャ宰相様を制しました。


「私の事情はご存知だろうが、幼いまま婚約したところで、その後何事もなく長じるとは限らない。事故も病気も当然起こり得ることで、そうなってしまえば、残されたものの不幸はわかるだろう?」


 レオナルド様の亡くなられたご婚約者は、十二貴族伯爵六家のうち、トーロ家のご令嬢だったとか。

 守りのトーロ家と呼ばれる、防御に徹底した能力を誇る武門の家系です。

 酔ったレオナルド様が少しお話されていたのを、聞いたことがございます。

 生まれる前から決められた婚約者で、トーロ伯爵令嬢はとても活発なご気性だったよう。

 ともに訓練を積み、幼馴染のようで、戦友のようで、病気ひとつしない健康な女性のはずが、婚姻を目前に風邪をこじらせて、そのまま呆気なく儚くなられたとか。


「だから王家の、とくに第一王子殿下の婚約者ともなれば、もう少し慎重に、時間をかけて決めてもいいのではと、私から常々ガラッシア公爵にも相談をしていたんだ」

「それは、ふむ……」


 ビランチャ宰相様は、レオナルド様のお話しに感ずるところがあったのか、考え込むように黙してしまいました。


「私も殿下に剣術など指南するお役目をいただいておりますから、どうにも過保護なことかもしれないが、幼いうちに結論を出さなくとも、選択肢は未来に多くとっておいたほうが良いと説いて差し上げようと思っております」


 ……これは、どこまで本当のことなのでしょう?


 レオナルド様のご事情は本当のことですけれど、実際お父さまとそんなお話をされていたのでしょうか。

 娘を嫁にやりたくない、と酔って愚痴っているお父さまを笑って宥めている姿はよくお見かけするのですけれど……。

 不思議に思い、レオナルド様の静かな横顔を見やります。

 視線に気が付いたように、レオナルド様がこちらに一瞥くださいました。


 パチン、と。


 それはそれは微かな音だったかもしれません。

 イタズラを見つかったようなお顔で、レオナルド様はわたくしにだけ分かるようなウインクをくださるではありませんか。


(ん゛)


 わたくしの心臓がゴトリとひっくり返り、心のお友だちのチベスナさんも、撃たれたように倒れ込む幻覚が見えました。


(あら?あらあらあらあら?)




 ────ファザコンの第二形態、意図せぬところで覚醒です。




 心臓の奥がぎゅうぎゅうと痛んで身動きがとれなくなりました。

 震えるほどに高鳴る感情に戸惑うしかなく、わたくし、どうやって呼吸をしていましたかしら?

 心のお友だちのチベスナさんは、倒れ伏したまま再起不能のようにピクリともいたしません。

 衛生兵!衛生兵!!

 いやですっ、チベスナさん、生きて!

 わたくしを置いていかないで!

 後方で常に傍観しているはずの三十路女に期待しようにも、友だちすらいなかった方に何ができるというのでしょう、まったくの恋愛初心者は息をしておりません。


(援軍……援軍はいないのですか……)


 脳内は、敵地で孤軍奮闘している兵士が今にも力尽きそうに膝をついているところで、わたくし、もう素直に降伏するしかあとがなくなってしまいました。


(はじめはアリよりと確かに思いましたわ、でも隠れ攻略対象かと思いナシにして、それもラガロ様が現れましたからなくなりましたし、養子を迎えられたということはもう本当にご結婚されるつもりがないということで、クソヤローどころか亡くなった婚約者様に最期まで添い遂げるおつもりかしらなんて潔い方なの、でもそうなるとわたくしの入る余地などどこにもなく、そもそもお父さまのご友人で、わたくし中身は三十路を超えておりますけれどルクレツィアは子どもほど年が離れて実際まだ子どもなのですいくら妖精のごとく可愛らしくてもそんな潔い方が子どもに手を出すとも考えにくいですしそれから)


「ねえさま、ねえさまっ」


 あら、誰かわたくしを呼んでおりますわ。

 どなかわたくしを助けにいらしてくださったのでしょうか。

 もう降伏したところで助からない気がしておりましたの。

 決して叶うことのないイバラの恋路に突入し、早くも満身創痍、誰かあの方に最後の言葉を伝えてくださらないかしら?


「ねえさま!」

「あら、ファウスト、どうかして?」

「ティア、家に着いたよ」


(まあっ、いつの間にか馬車に乗って、いつの間に我が家にも帰りついております)


 心配そうにお兄さまとファウストがわたくしの顔を覗きこんでおりますが、あれからの記憶がございませんの。

 どうやって馬車に乗ったのか、レオナルド様にはきちんとご挨拶してお別れしてきたのか、それだけはせめて覚えておきたかったですわ。


「はじめてのお城で、ティアもだいぶ疲れんただろう、おいで」


 お父さまが、馬車から降りるのに抱き上げてくださいました。

 セルジオやドンナが出迎えてくれる中、無言でお父さまに抱かれたまま、その肩に顔を押し付けて眠たいフリをします。


(今は何より、考える時間がほしいですわ)


 はじめての感情に、どうにも先ほどから支離滅裂なのです。


 お父さまにお部屋まで運んでもらいますと、あとのことはすべてドンナに任せます。

 妖精のようなドレスを脱がせてもらうと、もっとレオナルド様に相応しい大人っぽいものが良かったのにと思えてしまいます。

 猫足の湯船はふわふわの泡風呂で、いつもならバラや柑橘の香りが柔らかくわたくしを包むのに、なんだか胸がいっぱいで、本日は何の香りか、匂いも何もよくわかりません。

 ドンナが髪を洗い、何か話しかけてくれているような気もいたしますが、わたくしの心はココニアラズ、レオナルド様と結ばれる夢のような可能性を考えては、すぐさま否定してを繰り返しておりました。

 そう、どう考えても無理ゲーなのです。

 攻略対象ではないどころか、親友の娘に手を出すレオナルド様というのがどうにも想像できません。

 実はいちばん難易度の高い相手を選んでしまったのです。

 今なら引き返せますかしら?

 たったのウインクひとつと言えばそれだけですもの、推しアイドルにファンサを受けたと思えば乗り切れ、乗り切れ……そうにありません!

 それにしてもわたくし、チョロすぎるのではありません?

 ちょっと良い顔をされたからといってすぐに落ちてしまうなんて。

 例え各々がご自身の都合でわたくしの婚約を決めようとされている中、王子殿下とも深い関わりをお持ちなのに、なんの忖度もなくわたくしの意思を守ろうとしてくださったからと言って……レオナルド様やはり素敵すぎません???

 常々お父さまのような方が理想と公言して参りましたし、お父さまのようにわたくしのためを思って行動してくださる方で、ご自身が王国五指に入る武勇をお持ちなのでセキュリティーはばっちり、妙齢の大人ですから三十路の感覚的にも当然守備範囲内、気さくなお人柄ですのに伯爵家当主としても騎士団長としても有能で、どこをとっても理想でしかありません。

 それに軍服をお召しになったあのお姿、普段の砕けたご様子からの百八十度のギャップ!

  わたくしがチョロいわけではないのです!

 これは必然、落ちる要素しかないのです!

 今までどうして好きにならなかったのか不思議なほど、こんなにそばに理想の方がいらっしゃったのだわ。


「まあっ!お嬢さま!お顔が真っ赤になって!逆上せてしまいましたかしら?!」


 ブクブクと鼻まで沈んでいると、公爵令嬢らしからぬ姿にドンナが驚いた声をあげました。

 すぐさま湯船から引き上げられ、ぬるいシャワーを頭からゆっくりかけられます。

 このシャワーも、わたくしのワガママでファウストが商会で作ってくれたものです。

 手桶でお湯や水を汲んではかけて、というのがどうにも手間に思えて、バスタブに水を張るためだけだった蛇口を、温度を変えてお湯が出るようにし、さらにシャワーへと進化させたのです。


「ねえ、ドンナ」


 細い水流がサラサラと肌に触れる感覚にまかせて、わたくしはポロリとこぼしました。


「わたくし、恋をしたみたいですわ」

「まあっ」


 ドンナはとても出来た侍女ですから、驚きはしたものの、騒がず、はしゃがず、「そうでございましたか」と穏やかに返してくれました。

 それだけで、わたくしも少しずつ自分の気持ちと向き合え、落ち着くことができました。

 部屋着のドレスに腕を通し、ガウンを羽織ると、これもまたファウストが商会で作ってくれたドライヤーでドンナが髪を乾かしてくれます。

 わたくしのお風呂事情はこの上なく進歩しており、前世の記憶にもだいぶ近付いております。

 乾いた髪に艶出しのためのミルクを塗り込んでいる間に、わたくしは今日あった出来事をポツポツとドンナにお話ししました。

 王子殿下のこと。

 お兄さまのお友だちのこと。

 ファウストのお友だちがとても可笑しかったこと。

 お友だちになれそうなご令嬢にたくさん会えたこと。

 

────それから、レオナルド様をとても素敵だと思ったこと。


「お相手は、リオーネ伯爵様でいらっしゃいましたか」

「お父さまには内緒にしていてね。知られてしまったら、泣かれてしまうのではないかしら」

「そうでございますね。

 公爵様に知られた日には、リオーネ伯爵様はガラッシア家に出入り禁止になりますよ」

「それは困りますわ」


 そうやって少しずつ幸せな笑いに変えて、少しずつ、少しずつ、レオナルド様への想いは不安定で大きな塊から、温かくて少しだけ苦しい確かな形になり、この胸に収まりました。

 そもそも相手にされるはずもない片思いですものと、そう、諦めるようなことを言ったら、


「諦めるにはお早くありませんか?

 ドンナはお嬢さまのためなら何だってしますからね、いつでも頼りにしてください」


 そんなふうに笑って胸を叩いてくれるので、例えどうがんばっても叶いそうにない恋でも、いくらか報われたような気がいたしました。


* *


 結果から申し上げますと、お父さまには内緒にしたいと思っていたあれは、無理でございましたわ。

 だってわたくし、次にレオナルド様が我が家にいらっしゃった時、わかりやす過ぎるほどわかりやすく、顔に出てしまったのですもの!

 レオナルド様は気軽に我が家にいらっしゃるのですけど、いつものようにお迎えした瞬間、顔が赤くなるのが自分でもわかりました。

 あまりに恥ずかしくて逃げるようにその場を立ち去ってしまったあと、お父さまが射殺すような目でレオナルド様を見て、あわや決闘でも申し込みそうなところをお母さまが宥めてくださったのだと、セルジオに聞きました。


「レオナルド様にひどいことをなさったら、お父さまでもきらいになってしまいますわ」


 と涙目で釘を差しておきましたので、お父さまはしばらく大変落ち込んでしまわれました。


 わたくしの恋は、お兄さまを通して殿下やシルヴィオ様、フェリックス様にも広まりました。

 ラガロ様が、お兄さまたちと同じく殿下の側近候補として王城に上がるようになって、そんな話題になったようでした。


「公爵のようなって、そういう……」


 ものすごく年上趣味、というような意味で捉えられたようですが、相手がレオナルド様ですから、この恋が叶う可能性が低いと思ったのか、王子殿下はまだすっかりわたくしを諦めたようではない、とのことです。


 王子殿下の婚約については、レオナルド様のお話を聞いたビランチャ宰相様も賛同してくださる形となり、「王妃様のマナー教室」という名目で、婚約者候補として目ぼしいご令嬢を王城に定期的に集め、全員に王妃教育をすることで、とりあえずの収拾を図る運びとなりました。

 もちろん、わたくしは集められたご令嬢と仲良くするのが目的ですが、婚約者候補筆頭という立場からは逃げ出せませんでした。

 マナー教室には、王子殿下の婚約者選びという裏の目的がございましたが、名目はあくまで「マナー教室」ですので、ベアトリーチェ様も参加してくださっております。

 マナー教室のあとには、王子殿下、そしてお兄さまたち側近候補四名とお茶会をするのが通例となりましたので、クラリーチェ様とマリレーナ様もいらっしゃいます。

 お二人は、どちらがフェリックス様の婚約者に選ばれるかライバル関係のようで、さすが泣きぼ……軟派キャラはオモテになりますのね。

 わたくしいつかフェリックス様のことを「泣きぼくろ」と呼びかけないように、注意しなければなりませんわね。

 シルヴィオ様ははじめてお会いした時から、わたくしとはまったく目を合わせてくださいません。

 そっぽを向いて、メガネのブリッジをずっと押さえたままならお喋りをしてくださいます。

 首が痛くならないのかしらと心配になりましたが、わたくしを直視するのが難しいらしいので、そのまま気にしないことにいたしました。

 ラガロ様は、王子殿下の護衛のような立ち位置にいらっしゃり、お茶会でもあまり多くはお話しになりません。

 レオナルド様のお身内ということもあり、わたくしぜひ仲良くしたいのですけれど、だいたい王子殿下が間に入って、なかなか親交を深めることができません。

 そして、王子殿下とお話ししていると、もれなくスカーレット様が割って入ってきます。

 わたくしはファザコンの第二形態として、慎ましくも年上の男性レオナルド様に思い焦がれる妖精を演じることで、どうにか王子殿下の想いをかわし、スカーレット様からの敵意をかわし、つつがなくお茶会を楽しむようにしております。

 自分の初恋すら破滅回避のために利用しようというくらい開き直れると、レオナルド様への恋心も、またひとつ報われた形となりました。

 当のレオナルド様ですけれど、わたくしの恋心はもちろん知っていらっしゃいますが、これまでと何ら変わりなく接してくださいます。

 親友の娘、として。

 無性に切なくなる時もございますが、お隣で笑ってくださり、大切に扱っていただけてますから、それだけで十分と、わたくしは自分を納得させております。




 …………そういえば、ジョバンニ様とはなぜだかあれからなかなかお会いできませんでした。

 商会にも、我が家にも顔を出しているそうなのですけど、いつもすれ違いで、「楽しい方でしたのに残念だわ」と言えば、お兄さまもファウストも、ピオとロッコも、とても微妙な顔をするのです。

 ある日、半径1メートル以上近づかないなら会ってもいいとのことで、お邸の厳重な警戒の中、椅子に縛り付けられたジョバンニ様と再会できました。

 その日も絶好調なほど一人スチームパンクの世界観のジョバンニ様なのですけれど、なぜ、椅子に。

 わたくしの困惑した表情に、お兄さまたちは何食わぬ顔をしており、当のジョバンニ様もあの調子のまま、


「姉君!おひさしぶりですな!」


 とにこやかに笑っているのです。

 喜びを表すように、縛り付けられたままピョンピョンと体を跳ねさせているので、そばにいたイザイアが「失礼いたします」と声をかけ、そっと首の付け根に触れただけに見えましたのに、ジョバンニ様は親猫に首をくわえられた子猫のようにおとなしくなっておりました。

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