第31話 忘れ得ぬ記憶となりまして

 頭の中は真っ白なまま。

 ただ、心にあるのは形にならない衝動で、それに激しく背中を押された。


 結果が、今、目の前にあるラーナの驚き顔。

 悪いという気持ちはもちろんあって、ここで彼女に謝り倒したときを思い出した。


 でも、それを思い返したのはほんの一瞬だけだ。

 俺は自分の中に渦巻くものに衝き動かされるがまま、ラーナを抱きしめる。


 ラーナが、腕を回されたことに驚いてか、一瞬身を硬く強張らせる。

 だけど、彼女は別にもがいたりはしなかった。

 身を傾けた不自然な体勢から、俺とラーナはそのまま花畑の中に倒れ込む。


「ん……」


 倒れた際に一瞬だけ唇が離れて、そこに聞こえる彼女の声。

 漏れた吐息が俺の鼻筋にかかると、感じるのは炎に触れたかのような熱さだった。


 罪悪感はある。むしろ激しく積み上がっている。

 だけど、それでは抑えきれないモノが、俺の全身を駆け巡っている。


 月と星を背にして俺に笑いかけてくれたラーナを見た瞬間、堪えきれなくなった。

 俺はこいつが欲しいんだと、強烈に自覚して、あとはもう……。


「……ずるいよ」


 ちょっと拗ねたようなラーナの声が、すぐ耳元に聞こえる。

 すると、今度は彼女の方から俺に口づけて来た。


 ラーナの両腕が俺の背中に回される。

 星空の下で、俺と彼女は互いに抱きしめ合いながら、みたび唇を重ねる。


 そのキスは優しくて、甘くて、俺の中の罪悪感をトロトロに溶かしてしまった。

 ラーナに受け入れられたことが嬉しくて、抱きしめる腕に力がこもる。


 彼女はちょっと苦しげに身をよじり、気づいた俺は慌てて腕を緩めようとする。

 ところが、逆にラーナの方が腕に力を込めて、こっちに身を寄せてくるのだ。


 驚いた。

 けれど同時に、嬉しかった。


 俺は再び、腕に力を込めて互いの身をますます密着させる。

 こんなどうしようもないくらいの零距離で、感じるのはラーナの体温と心臓の音。


 ドクンドクンと、かなりの速さで脈づいているそれは、きっと俺も同じだった。

 彼女も、俺の鼓動を感じてるのだろうかと思うと、何だかおかしくなる。


 どれだけの時間、俺達は唇を重ねていただろうか。

 数秒な気もするし、一分以上な気もする。

 どちらともなく唇を離し、少しだけ頭を後ろにやって閉じていた目を開けてみる。


 視界いっぱいに、ラーナの顔があった。

 月に照らされるその顔は、見慣れているはずなのに俺に目に特別綺麗に映える。


 ラーナって、こんなにまつ毛長かったんだな。

 今さら、そんなことに気づいた。とても新鮮な発見だった。


「もぉ……」


 彼女は、顔は微笑ませながらも、俺に抗議してくる。


「どうしたの、いきなり。すごく驚いちゃったよ」

「すまん……」


 俺は謝るしかない。いきなりもいきなりで、やったこともやったことだった。

 三度目のキスでマヒしていた罪の感覚が、ここで一気に蘇りそうになる。


「ん――」

「ん……!?」


 俯こうとしたところで、ラーナから四度目のキスをされた。

 目を丸くする俺に、彼女は笑みを深めてすぐに唇を離す。


「はい、わたしも勝手にキスしちゃったから、これでおあいこだよ。だから『悪い』とか思わないでいいんだからね? ……あ、ダメ、これすごい恥ずかしいかも!」


 余裕に満ちた笑顔が、一瞬で剥がれてラーナは沸騰したように顔を赤くする。

 そして、呆気にとられている俺の腕の中でイヤイヤと首を横に振り始める。


「ヤダ! 待って、ビスト君! 見ないで、ちょっと、恥ずかしぃ~~!」

「な、何を言ってるんですか……?」

「見~~な~~い~~で~~ッ! 今のわたしは見ないで、見ちゃヤ~~~~!」


 そんな理不尽な……。

 と、思っている俺の前で、ラーナは十秒近くもがき続けた。

 やがて、それも収まって彼女は頬を膨らませる。


「むぅ~~~~」

「いや、そこで俺に怒りを向けられてもですね……?」


 戸惑う俺を、しかし、ラーナはキッと鋭い目つきで睨んでくる。


「ゆって!」

「はい?」

「いきなりこんなことしたんだから、わたしにゆうことあるでしょ? ゆって!」


 あ、ラーナ、これ本気で怒ってるかも。

 こいつ、ガチでキレると物言いが子供っぽくなるんだよな、昔から……。


「ビスト君!」

「へいへい、わかってるよ」


 俺は彼女を抱きしめたまま、肩をすくめる。

 さすがにこの期に及んではぐらかしたり誤魔化す気はないよ、俺だってさ。


「俺さ」

「うん……」


 今度は、俺がとびっきりの笑みを浮かべて、ラーナに告げる。


「ラーナのこと、好きだよ」


 誰もいない、月が綺麗な夜。

 花々が漂わせる甘い春の匂いに包まれながら、俺は自分の気持ちを彼女に告げた。


 ずっと、ラーナのことは友達だと思っていた。

 同い年で、同じ誕生日の幼馴染で、同じ日に冒険者になった大切な仲間で、友達。


 仲間だから、友達だから、俺にとってラーナは大切な存在だ。

 そんな風に認識してて、実際、その通りではあった。

 でもきっとそれ以外にも、彼女を大切にする理由はあったんだろう。俺の中には。


 それがいつからかは、正直わからない。

 でも、あのとき、俺に自分の命を分けてくれた彼女から、俺は託された。


 アヴェルナに住むみんなの『楽しい明日』を守ってくれと、頼まれた。

 そのときにはっきりと思った。

 他の誰でもない、俺はラーナのためにその願いを実現しなくちゃいけない、って。


 ――つまりは、そういうことなんだろう。


「…………」


 俺の告白を聞いて、ラーナはしばしの無言。

 この沈黙が、何故か怖い。

 そんなことはないと思いたいが、受け入れられなかったらという不安は拭えない。


「…………えぅ」


 そしたら、何か、ラーナの瞳にジワリと涙が浮かんだ。何でッ!?


「ラ、ラーナ……?」

「ぅう、わ、わたしも……」


「え?」

「わたしも、好き。ビスト君のこと、好き。大好き。大好きなの……ッ」


 両手で溢れる涙を拭いながら、彼女は俺に幾度もその言葉を繰り返した。


「ラーナ……」

「でも、ビスト君はずっとわたしのこと、友達だって言ってたし、わたし……」


 あ、はい。

 それにつきましては、本気で何も言えない。謝る以外にできることがない。


 いや、うん、そのね?

 おまえを『好きだ』って気づくのに時間がかかりまして、はい、だから、ね……?


「うぅ~~~~!」


 ラーナが、俺の胸に頭を押しつけて泣き始める。

 俺は、それを受け止めて、彼女の頭をできるだけ優しく丁寧に撫でつける。


「今日から俺達、友達じゃなくて恋人、な?」


 俺がそう囁くと、ラーナはコクコクとうなずいた。

 再び俺の背に回された両腕が、ギュッとしがみついてくる。それが、いとおしい。


「あ~、ラーナ」

「なぁに?」

「ごめん、もっかいキスしていいか?」


 そんなことを頼むのはどうかと思いながらも、欲求には逆らえず、頼んでしまう。


「むぅ、わたしのキスは安くないんだからね?」

「今日だけ、マジで今日だけだから!」


 俺が拝み倒すと、ムッとなってたラーナが、その表情を柔らかいものに変える。


「ウソよ。こ――、恋人、なんだから、好きなときにすればいいよ」

「え、マジで言ってる……?」

「うぇ? ……あ! ち、違うからね! 二人だけのときの話だからね!?」


 あ、あ~! そりゃあ、そうだよな~!

 さすがに他人がいるときは無理だよな~! ……驚き過ぎて心臓止まりかけたわ。


「…………」

「…………」


 ひとしきりリアクションしたのち、俺とラーナは意味もなく無言で見つめ合った。

 だが、彼女の方が言葉もないまま目を閉じる。俺はそっと、顔を近づける。


「好きだよ」


 彼女の言葉に、心臓がひと際強く高鳴って、


「俺もだよ」


 そう応じて、俺はラーナと五度目のキスを交わした。

 あとで急激な気恥ずかしさに襲われ、さっきの彼女の気持ちがわかった俺だった。


 ――この日、俺達は生涯忘れ得ぬであろう記憶を己の人生に刻みこんだ。

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