冬の空気

津多 時ロウ

冬の空気

 ――ジリリリリリリリリリリリリリリリリ


 侵略者はけたたましい音を鳴り響かせて夢の世界に現れ、私を現実に連れ去った。


「んんーーー……。お休み月曜日。また巡り会うその日まで」


 侵略者を平手ではたいて大人しくさせた後は、暖かく包み込む布団の中で大きく伸びる。そして、私は再び夢の世界へと旅立とうとするのだが、自らの言葉がそれを許さない。


 そう、今日は泣く子も黙る月曜日。それも12月後半の寒い朝。誠に遺憾ながら祝日ではない。会社に出勤する日だ。

 く、決死の覚悟でぬくもりからの脱出を敢行し、私の形を残したまま、見事、ベッドの上にお布団様おふとんさまを置き去りにすることに成功したのである。諸君、褒めたまえ。

 そうして通販で購入したばかりのもこもことした暖かい室内履しつないばきに足を滑らせ、ベッドから踊りだせばもう勝ったも同然である。お布団様おふとんさまの誘惑に負ける可能性など、この私にかかれば皆無なのだ。

 今夜もよろしくね、とお布団様おふとんさま目配めくばせした後は、そのままの勢いで軽快にカーテンをスライドさせれば、外は空の高い、冬らしい晴天が広がっていた。


 実に気持ちのいい朝だ。


 私は何を血迷ったのか窓を開けて大きく深呼吸をする。体の隅々まで冬の透き通った新鮮な空気が染み渡るようでいて、そして何故か生クリームの匂いもするが……何よりも寒い。

 体を凍てつかせる冷気に慌てて窓を閉め、暖房のスイッチを入れながら私はつぶやいた。


「何をやっているんだろうなあ」


 去年の今頃はどうしていたんだっけ?


 ……ああ、そうか。彼と喧嘩して別れたんだったっけ。


 その日も今日みたいな良く晴れたいい日だった。

 彼は会社の同期で、私は開発、彼は総務。接点はほとんどないし、容姿が特別いいわけでも悪いわけでもない。声はちょっと私好みだった。それくらい。だけど、何度か総務への用事で顔を合わせていたら、突然、告白された。総務課の衆人しゅうじん環視かんしする中で。


 ――ええ、ええ、こいつ頭おかしいって私も思いましたよ。でもね、そのときの私は何故か二つ返事でOKオーケーしてしまったのです。この場はそうしないと収まらないだろうと思ってしまったんでしょうね、多分。でね、付き合ってみたら、彼、とても気が利くし、笑顔の破壊力が半端はんぱなかったの。そのときの私は漠然と「ああ、この人と結婚するんだな」って思ってたくらい彼の事が好きだったのかも知れない。


 でも、付き合いを重ねるにつれて不満も出てきた。彼は私をデートに誘わないのだ。だから、いつも私が予定を聞いて計画を立てた。それはおかしいという友達もいたけれど、私はそれでも構わないと思っていた。だけど、私は結局のところ、自分の不満に見て見ぬふりをしていただけだったのだ。

 見えなかった不満が或る日のデートで遂に爆発してしまう。よりにもよって、楽しみにしていた高級ホテルのケーキバイキングを堪能しているときに。


「ねえ、どうしてあなたの方から誘ってくれないの?」

「ごめん。慣れてないんだ」


「ねえ、どうしてデートが無い日は連絡してくれないの?」

「ごめん。君の時間を邪魔しちゃ悪いんじゃないかと思って」

「メッセージアプリでもなんでもあるじゃない」

「ごめん」


「分かったわ。あなた本当は私に興味が無いんでしょ!? 私のことが好きじゃないんでしょ!? 本当は他に付き合っている女がいるんでしょ?」

「……」

「黙ってないでなんとか言いなさいよ! そんなんじゃないとか、これからは電話するよとか! 本当にどうなってるの!?」

「……」

「分かんない! 分かんない分かんない! 私、あなたのことが全然分からないわ! 好きとか愛してるとか言ってよ! 抱きしめてよ、抱きしめなさいよ!」

「ごめん……」


 私は、彼の悲しいような困ったような顔を背に、その場から逃げるように立ち去った。それから彼とは会社で会っても他人の振り。我ながら子供だったなと思うが、終わったのだ。唐突に、完全に。


 ――ブブブブブ、ブブブブブ


 出勤の準備が粗方あらかた終わったところで、マナーモードのスマートフォンがメッセージの到着を告げる。何かと思って見れば、画面に映るのは彼のアイコンと飾り気のない短い文章。


『今度、ケーキバイキングでもどう?』


 私の返事は決まっている。


『ごめん』


 置き去りにしていた彼のアカウントをブロックした私は、もう出かけなければならない時間だったことを思い出した。


 慌てて玄関を出て、もう一度、澄んだ冬の空気を目一杯体に取り込む。


 どこまでも高く、晴れ渡った空。


 もう、生クリームの匂いはしなかった。


〔完〕

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冬の空気 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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