日常(是非、こちらから拝読して頂きたいです)

第41話 大学教員 神代凛音

あの女が、また授業に出てこなかった。

よりにもよって、自分の講義の日に――である。


「天井のシミの数を数えていたら、意外に多くてですね。他の家のシミ事情も調べたくなって」

講義すっぽかしの理由が、それだ。信じられるか?


神代 凛音。

天才数学者。自分と同じ大学に籍を置き、そして、自分と同期――いや、“腐れ縁”と言った方が正確かもしれない。


言動は支離滅裂、態度は極端に尊大、社会的常識は通じない。

だがその頭脳だけは――誰も否定できない。


「お前が言って聞かせてこい」と、学部長に押しつけられた形で俺は

カフェ・アンリミテッドで奴と待ち合わせることになった。




俺の名前は、芦屋 理。

神代の務める大学で唯一の“男性教員”だった。


それは、この男子の出生率が極点に低いこの世界において、ある種の“ブランド”のようなものだった。

女性ばかりの研究室。女性ばかりの教員会議。女性ばかりの学会発表。


その中で、ただ一人の男である俺は、自然と注目を浴びていた。


「先生の論文、すごく面白かったです!」

「やっぱり、男性ならではの視点ですよね〜」

「さすが、統計学の申し子って呼ばれてるだけあります!」


――そんな言葉に、俺は……心から、誇りを感じていた。

いや、誇り を 感じていたかった、のかもしれない。


だが、それが幻想だったと気づいたのは――神代凛音に会ってからだ。



『ふーん、その程度の相関なら、スズメのダンスの軌道の方がまだ因果性あるよ』


初対面で、俺の論文をたった数式数行でバッサリ切ったあの女。

あの瞬間、時間が止まったかのようだった。


横で聞いていた他の教員たちは「ひどい!」「失礼すぎるわよ!」と騒いでいた。

だが、俺は違った。

……わかっていた。


彼女の指摘は、正しかった。


自分が盲信していた数値の裏に、ロジックの欠落があった。

再分析すればするほど、彼女の言葉は鋭く突き刺さった。


それ以来、俺は彼女を意識し始めた。

いや、“追いかけるようになった”と言った方が正しいかもしれない。


だが、その過程で、もっと深い絶望を味わうことになる。



ある日の夜、研究棟の階段を降りていると、ラウンジで数人の女性教員たちの声が聞こえてきた。

――俺をいつも賞賛してくれていた“取り巻き”たちの声だった。


「ねえ、あの人の論文、ほんとに読んでる?」

「ぶっちゃけ中身わかんないし、でも男の人だし、気分悪くさせたら面倒だし」

「適当に持ち上げておいたほうが、波風立たないじゃん? 」


足が止まった。息が詰まった。


彼女たちの笑い声が、ナイフのように鼓膜を裂いた。

そしてそのとき、俺は理解してしまった。


あの賞賛も、称賛も、人気も――全部、幻想だった。



けれど、神代凛音だけは違った。


破綻した性格。社会性のなさ。協調性ゼロ。

だが、彼女は“中身”しか見ていなかった。


研究の“面白さ”だけを追求する狂人。

自分の研究を評価されたことより、俺は――初めて、真剣に向き合われた気がした。


以降、何度も論文で張り合った。

時に討論し、時に激論を交わした。

だが、勝てたことは、一度もない。


ただ一つだけ、誇れるものがある。


――彼女は、俺のことを“理解できる変数の一つ”として、認識している。


それが、神代凛音という怪物と俺を繋ぐ、唯一の腐れ縁だ。





「おや、おやおや……中央値くん。生ゴミでも詰めたような顔してるじゃないか。珍しいな、ちゃんと空気吸ってるのか?」


神代はすでにカフェの中、窓際の席でコーヒーを啜っていた。

失礼極まりない第一声。だが、これがいつもの彼女だ。


「出席確認ぐらいはしろ」と言うと、返ってきたのは例のセリフだった。


「いやだって……昨日天井のシミを数えていたら、意外と多くてですね。11だった。ふつう、あんなにある? 他の家のシミ分布を取らないと標準偏差出ないでしょうが」

「そっちの調査が優先されるとは思えないが……」


彼女の話は、どこからどこまで本気かわからない。

だが、出てくる言葉は高度な数学用語に満ちている。


「そもそも人間の意思決定はランダム変数だと思ってるんですよ。

不確定性理論もそうですけど、変数が整えば予測可能です。」


――つまり、私の授業を無断で欠席したこともまた、決定された運命論に裏打ちされたモノなんです。


よくわからない、



「運命論を証拠として、数秒先くらいなら私でも99.8%当たるよ。」


……たとえばあなたは、次『そんなことあるか』と言う


「……そんなことあるか」


「はい、今出た。」


(……まったく、訳がわからない)


それが神代の学会での異名だ。


ラプラスの悪魔とは、フランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスが提唱した仮想の存在だ。簡単に言うと、未来の全てを予測できるという概念

バカバカしい。


「みんな決められた、事をその筋書き通りに演じているだけなのにどうして意識なんて、言う有りもしない概念を持ってきて、私を説教するのかな?『意志が弱い』とか、『ちゃんとした意思をもて、、とか」


この言葉で会話の裏にある命題は、はっきりと浮かんでいた。


神代は――「自由意志など存在しない」と考えている。




カウンターから現れた店主、悠馬。

いつもの穏やかな笑顔で、俺にコーヒーを差し出す。


そして神代に尋ねた。


「何か、お悩みですか?」


「悩み? 人間は無意味に選択を繰り返すから、予測が立てにくくて面倒ってだけです。それに“自由意志”なんて、主観の錯覚でしょう」


「錯覚……ですか」


悠馬は、コーヒーを口にし、ゆっくりと考えるように言った。


「でも、もし“錯覚”だったとしても、それを選びたいと思うこと自体が――“自由”なんじゃないですか?」


神代の目が、一瞬止まった。


「……それは、矛盾じゃない?」


「はい。でも、矛盾と共存できるのも、人間らしさかもしれませんね」


(……なにを言ってるのか、さっぱりだが。たぶん、こういうことだろうか

――“自由意志と運命は、両立できるのかもしれない”)


神代は、しばらく黙っていた。


そしてふっと笑い、こう言った。


「面白い。あは、あはぁはぁ。ふ、ふふふぅ」

解析不能な変数に出会った気分です」


「天啓って奴か?」


彼女の楽しそうな様子をみて、俺はそう言葉を投げかける。


「うん、そうだね。その語がおそらく適切だ。」


俺には、神代が何を考えているのか?なんてほとんどわからない。



けど、、彼女が楽しんでいる事だけは分かる。

そして、彼女が楽しいなら、俺も楽しい。


結局、それでいいのかもしれない。

無理に理解をしなくても。

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