イモウトを愛しただけなのに
澄田こころ(伊勢村朱音)
第一章 川をわたる
第1話 帰省
プレハブ小屋のような無人駅を降りると粉雪が降り始め、冬枯れの山間部の景色はかすんで見えた。見渡す限り広大な山林が広がり、眼下に川が流れている。
自然豊かな山あいの村、言い換えれば自然しかない村だった。
俺は着ていた黒のトレンチコートの襟を立て、キャリーケースのハンドルをかじかむ手で握りなおす。
近畿地方の南部に位置するこの村は、冬でも雪が積もることはない。大晦日が近づくこの時期に雪が降るとは珍しく、ひさしぶりの帰省におけるちょっとしたアクシデントだった。
天気予報によれば、今日の夜から急激に冷え込み、山間部は数センチの積雪という予報だった。そのニュースを昨日の時点で知り、急遽飛行機のフライト時間を早め昼すぎにこの地に帰り着いたわけだ。
陰鬱な曇天を仰ぎ見ると、夜に降る予定の雪がハラハラと地上に到達する。黒いスエードの靴のつま先についた雪は、たちまちとけていった。
何年ぶりの帰省だろう。心の中でこの地を踏んだ最後の時を思い出し、年数を数える。
地元の高校を出ると、東京の大学へ進学した。大都会からこの片田舎への帰省は億劫だったが、母親にせっつかれ正月だけは毎年帰っていた。
しかし東京へ出た地方の若者の大半がそうであるように、俺も東京の会社に就職すると忙しさにかまけ正月すら帰省しなくなった。
だから、三年ぶりの帰省になる。もう十年も帰っていないような感覚だったが、数えてみればたったの三年だ。たったの三年。それならばまだ、帰らなくてもよかったんじゃないだろうか。
先月長期の海外出張を終えると、上司に呼び出された。何事かと身構えていると、今回の出張の慰労もかねて年末年始に二週間の休みをとってはどうかと提案された。
その必要はないと断ると、入社以来有給を一度も取っていない社員は君ぐらいだと諭された。
キャリーケースの騒々しい音を耳にしながら坂を下り、
その昔、都から落ちのびてきた姫君が渡ったとか渡らなかったとか。こんな山奥に逃げてくるほど姫君は都で、何をやらかしたのだろう。
古風な名前のわりにコンクリート製の姫橋の下の流れは緩やかで水量も少ない。東から西へ流れて行くゆったりとした水の流れを目で追い、ふと顔を上げると橋の中ほどに人影をみつけた。
駅をおりて初めて村人と遭遇した。このあたりの地区の住人とはほとんどが顔見知りで、当然俺のことも住人に認知されている。
だから、出会った人とは数年ぶりの挨拶を交わさなければならない。きっと、『いやーりょうちゃん、ひさしぶりやなあ。何年ぶりや』というセリフを皮切りに、立ち話が始まるのを避けて通れない。
できればこの寒空の下、そんな無駄な時間をすごしたくない。
さいわい橋の上に立つ人は、たちどまり俺と同じように川下へ視線を落としているので、こちらには気づいていない。できれば、向こう岸に渡って行ってくれないだろうか。集落は南のあちら側に集中している。次の電車が駅に到着するのは一時間半後で、俺が立つ北側にくる理由がみあたらない。
そういう消極的な考えに落ち着き、俺はその場にとどまり橋の上の人物を観察した。
背中の曲がったシルエットは高齢者だ。くすんだ色合いの服は男女どちらとも言い切れないが、小さな頭に乗った毛糸の帽子が朱色に近い鮮やかな赤なのでおばあさんだろう。このあたりは、過疎化がすすみ思い当たる高齢者は片手ではたりなかった。
じっと川面をみつめるおばあさんは、右手に口をしばった麻袋をぶら下げていた。収穫した農作物を入れるその茶色い麻袋は、農業がおもな正業であるこの村ではありふれたものだった。
しかしその袋は、不気味なほど激しくうごめいていた。あきらかに、袋の中に入れられた小型の動物が、そこから逃れようと暴れているのだ。
俺は一瞬息をのむ。……まさか。頭に浮かんだ不吉な予感は、じわじわと胸に落ちてくる。あの風習はもう廃れたはずなのに、今どきあれをするなんて。
おばあさんは手にした麻袋をいったん胸のあたりまで持ち上げ、ひどく大事そうに両手でぎゅっと抱きしめた。その行為で袋の中の動物は安心したのか、動かなくなった。
その姿を見て俺は、張り詰めていた息を大きく吐き出す。
そうだ、今どきあれをする人なんかいるわけがない。勘違いした自分を笑いたくなった。
しかし、俺の安堵はすぐさま裏切られる。おばあさんは一歩足を踏み出すと、橋の際ギリギリに立ち頭を左右に激しくふった。雪が降りしきる色のない景色の中で、血のように赤い毛糸の帽子が迷いを振り切るように動揺している。
おばあさんは揺れる頭をピタリととめ、胸に抱えていた麻袋を川へ勢いよく投げ捨てた。
弧を描き川面へ落ちていく麻袋から、動物の断末魔が聞こえてくる。
「ふぎゃー!!」という鼓膜に爪を立てられたような叫びは、水しぶきと共に消えた。麻袋は浮き沈みを繰り返し川下へ流れていき、いつしか完全にその姿は見えなくなっていった。
視線を橋の上に恐る恐る戻すと、おばあさんは小さな背中を向けてとぼとぼと向こう岸へ歩いて行く。その赤い毛糸の帽子にはうっすらと雪がつもっていた。
この景色だけを切り取れば昔話のような風景だけれど、俺の内耳には動物の最後の断末魔がこびりついていた。
雪さえ、雪さえ降らず予定通り夜に到着していたら、こんな残酷な場面に遭遇せずにすんだのに。
スエードのつま先の消えない雪をいくらにらんでも、すぎさった時間を巻き戻すことはできなかった。
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