第10話 支社長の企み
営業現場において長らく扱ってきた損害保険との最大の違いは、生命保険の数字が新規契約のみで成り立っていることだ。
更改契約もあることにはあるが、生保の場合は更改されても基本的に営業店の数字にはならない。その分契約を解約されてもある程度の期間を過ぎてからであれば、マイナス数字も立たなかった。
生命保険は基本的に長期契約だ。よって新規契約を取り続けてノルマを達成するしかない。生保の進捗状況を確認した太田に対し加納が答えた。
「コンスタントに個人契約を取ってくるプロ代理店が一部にいますから、七割程度の予算達成は見込めます。しかしそれ以上となれば大口の法人契約をいくつか狙わないと厳しいですね」
「どこか当てはあるのか」
「いくつか担当代理店の持つ法人顧客に対して、損金で落とせる節税プランや福利厚生プランを提案していますが、なかなか厳しいですね。ただ企業の決算が十二月末や三月末に迎えるところは多いので勝負はこれからだと思います」
「何とか一発大きな契約が取れるといいのだが」
「今、一番角度が高いのはグレープの法人契約です。損金でも一部落とせる役員を対象にした死亡退職金保障プランを提案していますが、ここ数年会社の業績が良かったせいか感触は悪くないです」
「グレープか。あそこはうちの取引代理店でもあるから何とかしたいな」
「はい。ただ問題が一つあります」
「なんだ?」
「手数料です。あの企業代理店では生保も取り扱っていますが、自己物件だと手数料が出ない点に難色を示しているようです」
「そこか。一定の条件はあるけれど損保は手数料が出るからな。その感覚でいると出ない方がおかしいと思うのも無理はない。しかし困ったな。保険業法で決まっているから、そこは何ともし難い」
「手数料がなくても契約自体にメリットがあると判ってもらえればいいのですが、一部の役員達がごねているそうです。窓口担当の真中さんも説明に苦労していると聞きました」
「判った。私からも一度表敬訪問を兼ねて説明しよう」
「お願いします。もう少し話が煮詰まってから支社長に動いていただこうとは思っていたのですが、よろしくお願いします」
「判った。その契約が今年度の生命線となりそうだな。もちろん他の仕掛けも気を抜かずに提案し続けてもらわないと困るが」
「はい。法人契約はこれから迎える決算期が勝負ですから」
損保契約の場合は、会社の必要経費や福利厚生費として損金で落とせても、企業が喜ぶような運用メリットのあるものはない。だが生保の法人契約の中にはあった。それが退職金プランや福利厚生プランだ。
基本は社長や役員、従業員達が死亡した時の死亡退職金として準備する生命保険であるため、全額が会社の経費として損金計上できるものもある。
だが保険の設計内容によって解約した時の返戻金が多く貯蓄性が高いものだと、支払った保険料に対し二分の一や三分の一、四分の一しか損金計上できないものもあった。
それでも会社にとっては損金計上できる保険に加入するメリットはいくつかある。例えば一族経営、またはそれに近い中小企業だとワンマン社長や一部の能力の高い役員が突然の事故により亡くなった場合、会社側は一時的に仕事が回らなくなり、資金調達が困難になることがあり得る。
そうしたリスクに備えて生保に加入しておけば、死亡保険金を資金調達に活用できるというニーズがあるのだ。もちろん遺族の為に補償を残す福利厚生の意味合いもあった。
だがそれ以上に必要とされていたのは、利益が上がった際に経費として落とすものが多ければ法人税の支払いが少なくて済み、かつ資金を内部留保したいという要望だ。いわゆる節税効果のある保険商品が必要とされていたのである。
そこで福利厚生、または従業員や役員の退職金を準備する名目で解約返戻金の率が高い生命保険に加入し、その一部を損金で落として会社内部の資産を増やしませんかと会社を口説くのだ。
会社としては稼いだ利益の一部を税金として支払うか、保険会社に支払うかの違いがあるだけだ。しかも生保の場合は保険会社が潰れない限り解約金としてほぼ確実に戻ってくる。いわゆる合法的な脱税、つまり節税となる訳だ。
ただ解約した際には、返戻金を年度中に使わないと税金がかかるという縛りがあった。そこで退職金のような損金で落とせるプランがお勧めとなるわけだ。
利益が少ない年度であれば、解約返戻金を退職金としてでなくても工場の立て直し等設備投資をするために利用し、経費として落とせば大きなメリットとなる。
その為保険会社としては決算期が近付いてきた企業の中で、利益が大きく法人税を沢山払わなければならない会社をターゲットにして生命保険の活用を説き、大口契約の獲得を狙うのだ。
あくまで生命保険は人が亡くなった場合の、その後に残された遺族に対する補償を残すためのものである。だが何故か損害保険にはなく、生命保険では内部留保が許されるような法人向けの商品が存在した。
これは長年の政治的な駆け引きによるものではないかとも言われている。そうした批判もあるため昔に比べれば規制が厳しくなり、内部留保率の高い商品の損金計上できる範囲は少なくなっている。
それでもまだ完全に無くなってはいない。現場にとっても予算を消化するため、法人契約のような支払保険料の多い大口を狙わざるを得なかった。
しかし販売する際には、税金などの専門知識が必要となる。といってほとんどの代理店は、自ら獲得できる程の知識や経験がないのが現状だった。
その為に社員自らが積極的に動き、契約獲得の動きを行わなければならなくなる。営業社員が代理店の持つ顧客リストから、ターゲットとなる対象を選び出して直接営業を行う方法もその一つだ。
普段から馴染みのある代理店と同行した上で社員が直接顧客に対してアプローチし、保険獲得の知識やノウハウを実践して見せる。そうして代理店に教えるのだ。
上手く契約が成立すれば、手数料はもちろん社員では無く代理店に入る。生保の場合は一度契約すると、支払う年間保険料が大きいこともあって手数料は損保以上に大きい。その旨みを知ることで、その後は社員なしでも積極的に動いてくれるよう仕向けるのだ。
しかし例え代理店がその後動いてくれなくても、契約さえ成立すればノルマは達成できる。そのため社員は必死に動いた。加納が行っている営業活動はまさしくその工作の一環である。
後藤やまだ若い田中ではそこまでの営業活動は期待できない。第一支社では加納だけが頼りなのだ。
太田は加納と会話をした数日後、グレープの
用件はもちろん加納の推し進める保険契約の件だ。人事兼総務部の役員である石神は保険担当部署の最高責任者ではあるものの、保険知識はほとんどない。普段は全て総務の窓口担当者達に丸投げしている。だが決定権があるのはこの石神であり社長だ。
その為にまず彼を口説かなければ話は進まない。
「しかし太田支社長。生命保険と言うのはおかしなもんだね。損保さんでは社内の代理店で自社の建物や工場の火災保険、社有車の自動車保険に加入しても手数料は支払ってくれるのに」
「そうなんですよ、石神常務。ただ損保の場合も規制があります。いわゆる御社が契約者となる自己物件の比率が、扱い保険料全体の三十%以内でなければいけません。ですから御社の場合は従業員の自動車保険や火災保険、それに資本関係のない取引先企業の保険契約なども獲得して頂いて、その比率を下げていただいています」
「だが従業員個人に生命保険を加入させればいいという訳でもないんだろ?」
「はい。生命保険の場合は損保とはルールが異なります」
長年損害保険会社が代理店制度を取ってきたように、生命保険会社では保険外務員制度を使ってきたという文化がある。いわゆる生保のおばちゃんだ。
そのため個人契約はもちろん企業の契約も全て外務員が扱えるよう、企業自体が生命保険の販売を行っても自己物件には手数料ゼロ、その会社に所属する従業員の生命保険を加入させることは禁止としてきた。
表向きは会社が従業員等に対し、強制的に加入させられることを防ぐ名目となっているが、実態は外務員の生活とその制度を守るためだ。企業が生保の代理店登録をするメリットを少なくさせ、外務員が企業訪問をして従業員に契約の勧誘をし、企業自体の契約も獲得できる仕組みとなっている。
損保と全く異なるこの文化が相互参入された際に最もネックとなり、企業代理店が生命保険を取り扱う場合の障壁となった。それでも保険代理店は損保も生保も両方扱うことができることが今や主流になりつつある。
しかも資本関係や役員を兼任させていると言った人的な繋がりのない企業に対してであれば、生命保険でも法人契約を獲得することはできる。その企業の従業員に対して保険の募集をかけることも可能だ。もちろん成約すれば手数料は出る。
そのためグレープには損保だけでなく生保も取り扱えるように登録してもらっていた。だが生保には損保とは違ったそれなりの専門知識とテクニックが必要なため、今のところ成果はなかなかでていない。
だからまずはグレープ自体が生保の法人契約に加入し、その良さを知ってもらう必要があった。そうすれば他の取引先企業へ営業をかけやすくなるだろうとの狙いがあったことは事実だ。
しかし結局石神との面談は、手数料を支払わない生命保険会社に対する不満の声を聞かされただけに終わった。
それでも加納の言う通り、契約自体に魅力を感じてもらっていることは確からしい。日に日に支店長からのプレッシャーは厳しくなる。さらにこの契約が成立すれば次の工作に繋がる可能性があるのだ。
そうなるとこの大口契約は何としてでも成立させたい。そこで太田は悩んだ末に、ある提案をしてみようと決心した。禁じ手の一つではあるが、背に腹は代えられない。
常務との面談を終えた後、実務上の責任者である窓口の真中部長と別途話し合いの場を持ったのだ。
「支社長、そんなことが本当にできるのですか?」
真中の質問に、太田は頷いた。
「私が間に入って交渉してみます。もしこの話が上手くいけば、検討いただいている保険にご契約いただけますか?」
取引先企業の奥にある会議室の中は二人きりで、誰にも聞かれる心配は無い。だが二人は顔を寄せ合い、話す声は自然と小さくなっていた。
「もしそうしていただければ当社としては節税対策にもなりますし、本来手数料の入らない契約ですから有難いことです。毎月支払う保険料も決して少なく無いですからね」
「そうでしょう。ただ別の代理店が扱うにしても、税務上は先方の手数料収入になりますので税金がかかります。その分と消費税分程度の手間賃を差し引かせていただくことは、ご了承いただかなければなりません」
「それは当然でしょう。全てをバックしていただきたいとはこちらも言えません。生命保険の自己物件手数料は元々ゼロですからね」
「よろしいですか? ご了承いただけるのであれば早速こちらで生命保険を扱う他の代理店に話を通し、ご紹介させていただきます」
「それでは話を進めて下さい。こちらも交渉通りに話が進んでいることを確認でき次第、上に報告して法人契約を結ぶ後押しをさせていただきます。節税効果を理解しながら加入に踏み切れない常務や社長も、この話を耳にすれば判を押すでしょう」
「ありがとうございます! それではすぐにでも話を進めますので宜しくお願いいたします。ただこの件はあくまでご内密に」
「承知しております。これが裏の手であることは私も十分理解できています」
「真中部長が話の判る方で助かります。必ずご説明した方法で話を進めますので」
「こちらこそ宜しくお願いします」
これが悪夢の始まりだった。最初から手数料バックの話を持ちかけたのではない。グレープの法人契約を他の代理店扱いにして手数料を発生させ、その発生分と同様に近い契約をグレープ企業扱いにすれば、お互いに損はしないだろうと考えたのだ。
しかしこれは正当な手口では無い。実際に個人契約をコンスタントに獲得してくれる当社専属プロ代理店である高畠へ話を持ちかけところ、最初はあっさりと断られたのだ。
「支社長、それは無理だよ。大口契約を紹介してくれるだけならいいが、その分発生する手数料分に見合った契約を別の代理店扱いで契約させるのは無理がある。簡単に言うけど、移された個人のお客はどう思う? 高畠と結んだ契約なのに、証券には別の名前が入るんだよ?」
「そうなりますね」
「もし何か病気や死亡案件が出て問い合わせされても、うちの契約ではないから顧客情報を確認することもできない。しかも当社の顧客の個人情報を他の代理店に渡すなんてもっての外だ。できる訳がない」
そうはっきり断っていた彼だったが、どれだけの契約保険料になるか戻す手数料はどれくらいになるかの説明を聞いた上で、別の提案をしてきた。
「だったら単純に手数料を戻せばいい。それだったら顧客情報は漏れない。ただし全額バックだと税金のかかる分が損するから、それは差し引いても良いという条件だったら受けてもいいよ。それに多少だけど支社長に手間賃を出してもいい」
こうなると完全な保険業法違反だ。しかし太田には時間が無かった。早期に成約させて支店長のプレッシャーから一日でも早く逃れたい。しかも成約すれば今年度の生保における予算達成が見えてくる。高畠にも恩を着せることができ、彼も更なる新規契約獲得に燃えるはずだ。
そこで毒を食らわば皿までと決意し、加納には秘密にして真中と話を進めたのである。それが功を奏し、一月末決算であるグレープは年明け早々契約書に判を押したのだった。
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