第9話 奮闘

 春香は入社式の前日である三月三十一日に寮への引っ越しを終え、翌日一日には無事入社式を迎えた。その後は仮採用として三カ月の研修期間に入ったのだ。

 最初は全体の色んな部門を経験し、正式に社員として採用された際にそれぞれの特性や現場状況に合わせて配属されるらしい。

 部署は大きく分けると、宿泊部門、料理飲食部門、営業部門、管理部門の四つに分けられる。セールスや企画などを行う営業部門や、総務や経理を行う管理部門なら保険会社にいた春香でもイメージは沸く。少ないながらかつての経験を生かすことができるかもしれない。

 しかし宿泊部門や料理飲食部門は、旅館ならではの特殊な仕事だ。宿泊客を直接相手にすることが多いため、前職で経験したものとは全く違った形でお客様に気を遣わなければならないだろう。

 実際に研修が始まると、厳しさは想像を絶するものだった。まず一例を上げれば、勤務体系は月曜日は朝十時から夜十時まで十二時間勤務をし、その間に合計二時間の休憩が入る。

 翌日火曜日は休みで、水曜日は夕方四時から朝四時まで十二時間勤務。その間二時間の休憩を挟んで木曜日はそこから休みに入り、金曜日の朝十時から夜十時まで十二時間、二時間の休憩を挟んでの勤務をする。

 土曜日の朝十時から夜十時まで二時間の休憩を挟んだ十二時間勤務を行い、日曜日は朝四時から二時間の休憩を挟んだ夕方四時までの十二時間勤務、というローテーションが続くのだ。

 これはあくまで基本形で状況によって変わり、休みも変則的になるためかなり不規則な生活となる。

 春香を含む今年の新入・中途入社社員十二名は、三名ずつ四つのグループに分けられた。それぞれ最初の三カ月で四部門を経験するのだが、春香のグループは宿泊部門の研修から始まった。

 最初はフロントの研修からだ。そこでは玄関先へお客様が到着してお迎えする時の姿勢や挨拶から始まり、フロントまでのご案内とチェックイン時の挨拶、確認、客室係への引き継ぎを行う。

 また当日泊まられるお客様の確認や部屋の点検、見回り、お客様のチェックアウト時の精算、忘れ物の確認、玄関先までのお見送りの姿勢、挨拶までをみっちり学んだ。

 次は電話対応である。館外からの予約、問い合わせ、宿泊客への取り次ぎ電話から始まり、館内のお客様からの問い合わせ、社員同士のお客様情報の伝達における電話の仕方などを徹底的に教えられた。

 あとはクレーム処理だ。フロントでのチェックイン、チェックアウト時、客室でのクレームが最も多いため、対処方法をロープレ形式で研修を行った。

 社員同士でお客様役と接客役に分かれ、実際にあったクレーム発生時の例を通じ、適切に問題を解決できるようにするのだ。

 また客室係ではフロントから客室までのお客様のご案内、客室でのお部屋の説明、館内施設や非常口等の説明、料理についてされやすい質問などお客様からの質疑応答に対する主な問答集を勉強した。

 春香は一緒にフロント研修を行う三人の中で、お客様への挨拶や話す時の言葉遣い、その他の手際などはダントツに上手いと指導係の先輩に褒められた。

 ある意味当然のことである。他の二名は学生から社会人になりたての子達ばかりだ。元気に挨拶は出来ても、どこかまだぎこちない。

 一方の春香は業界が違えども、前職で二年余り多くのお客様と接してきた。しかも長期療養に入ったベテラン社員担当の、気難しい取引先をフォローすることも行っていた経験がある。

 その為自然とクレーム処理も多く、旅館業界で使う独特の用語など新たに覚えることはあっても、お客様に頭を下げることには慣れていた。

 新社会人と中途入社の春香とは、現場での経験値がかなり違う。新人の頃における二年余りの差は相当大きかった。威張れるほどではなかったが、やはり人から褒められおだてられたりすると割気はしない。同じグループの新人から

「天堂さんってすごい!」

と言われれば、春香も調子に乗って

「社会人としては先輩だから」

と他の二人に、言葉遣いや注意する点などのアドバイスまでしていた。

 そんな天狗になりかけていた鼻をへし折られる事件が起こったのは、研修が始まって三週間が経った頃だった。

 いつものように玄関先でお客様のお迎えの準備をしていると、家族連れの集団が入ってきた。父親と母親らしき大人が二名、父親が小さな女の子を抱いて、母親が小学校低学年くらいの男の子の手を引いている。その男の子はやたら大きな声を出し、はしゃぎながら入ってきた。

「いらっしゃいませ!」

 背中を斜め四十五度に傾け、やや深めに頭を下げながら挨拶をしてお迎えしていたが、腹の中では思っていた。

“煩い子供が来たな。何でこんな旅館に落ち着きのない騒がしい子を連れてくるかなあ”

 そんな春香が教育係の先輩により、その一家のアテンドをするよう指示された。その場合お客様をフロントまで案内し、チェックインと客室係への引き継ぎまで行うのである。

 戸惑いながらも既に何度も行ってきた一連の流れだった為、努めて自然に父親と母親の顔を交互に見ながら挨拶した。

「いらっしゃいませ。ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらまで」

「ありがとう。あなた、子供達と少し待っていて」

 奥様がご主人に向かってそう告げ、春香の後についてフロントまで行こうとしていた。その様子を確認し、奥様に向かってフロントに案内するため声をかけた。

「こちらでお願いいたします。よろしければご主人とお子様はあちらでお待ちください」

 ご主人と子供達にはフロント正面に置かれている椅子を手で指し示して案内をした。すると彼は子供を連れてそちらへと離れていき、奥様は後ろをついてきた。

 春香はフロントの中へ移動し、カウンター越しに奥様へ改めて挨拶する。その後名前や宿泊日数の確認を行い、名前と住所の記入をお願いした。

 そこまでは問題なかったが、落ち着いて待っていられない男の子が父親から離れ、母親の傍にやってきてぐずつき始めた。

「ねえ。お風呂まだ? 露天風呂に早く行こうよ」

「ちょっと待ってなさい!」

 宿泊カードにまだ記入途中だった彼女は、足に絡みつく息子に対して一喝した。それでも子供は言う事を聞かずに、まだ~? まだ~? と騒いでいる。父親を見ると、抱きかかえた娘のことしか目に入っていないようだ。

 足元で騒ぐ子供に困っている彼女は、まだ宿泊カードを記入しきれていない。こちらは既に伺った名前で予約確認をし終わり、部屋の鍵を準備している。彼女がカードに記入し終わればすぐに客室係へ引き継ぎ、部屋まで案内してもらえるのだ。

 そこで春香は、彼女が厳しく子供に注意していたため油断してしまった。

「僕、少し静かにしようね。他の方にも迷惑がかかるからね」

 母親の横で騒ぐ男の子に向かい、優しくそう注意した。するとそれまで騒いでいた男の子はピタッと静かになったかと思うと、急にワッと泣きながら椅子に座っている父親の方へと向かい、走り去ってしまったのだ。

 予想していなかった子供の行動に目を丸くして母親の顔を覗くと、知らん顔をしている。やがて記入し終わったカードを何事もなかったように提出したが、その時の彼女は不機嫌な顔をしていた。

 戸惑いながらも部屋の鍵を手に取り、少し裏返った声で声をかけた。

「そ、それでは、こちらがお部屋の鍵になります」

 お客様の後ろに待ち構えていた客室係に鍵を渡し、部屋に案内するよう目配せしていると、泣きながら走って行った男の子が父親と共に近づいてきた。客室係が父親の持っている手荷物も預かろうとすると、それを遮りいきなり怒鳴った。

「うちの子を泣かせたのは誰だ!」

ざわざわとしていたロビーは一瞬水を打ったように静かになる。その後またざわつき始めたが、皆こちらに注目していることが判った。

「申し訳ございません!」

 反射的に父親へ頭を下げると同時に教育係の先輩も駆けつけ、一緒に頭を下げてお詫びした。春香と先輩を代わる代わるにらみつけていた父親は、最後に春香の顔に視線を止めると、今度はドスの利いた声を出した。

「お前か」

「申し訳ございません」

 もう一度謝罪したところ、母親が間に入ってくれた。

「いいのよ。この子があんまり騒ぐから静かにしてって言われただけだから」

 父親の後ろに隠れていた男の子の頭を軽く叩く。その子は既に泣きやんでいた。

「私共の教育が至りませんで、申し訳ございません。今後このようなことがないよう致します」

 教育係の先輩がもう一度父親にお詫びした。その間に子供がまた騒ぎだす。

「早くお風呂行こう~!」

 すると先輩の客室係が男の子に向かって

「今からお部屋に行きましょうね~。そうしたらお風呂へ入れますから」

と子供の目線までしゃがみ込み、にこやかに話しかけた。すると子供は機嫌がよくなり、

「じゃあ早く行こう、早く行こう!」

と父親と母親の手をひっぱりだした。そこで母親がまたぴしゃりと叱る。

「判ったから引っ張らないで。もう少し静かにしなさい!」

「それではこちらになります」

 客室係がその親子を部屋へと案内するため、フロントを離れた。その後ろを母親と嬉々とした男の子がついていく。娘を抱えた父親は何事もなかったかのように、二人の後に続いた。

 後ろ姿が見えなくなるまで頭を下げてお客様を見送った後、春香は先輩に声をかけられ他の新人と一緒にフロントの裏の事務室に連れていかれた。

 お客様から見えない事務室の中の、誰もいない打ち合わせ室に全員が入ると先輩は尋ねた。

「今のケースで天堂は自分自身で何が悪かったか判るか?」

 あの時は思わずお客様に謝ったけれど、正直理解し難かった。子供に注意はしたがその前に母親も叱っていたし、言葉は彼女に比べてかなり優しくしたはずだ。

 それに子供には笑顔で接していた。それを急に泣かれてしまい、状況を良く判っていない父親が泣いていると言うだけで怒るなんて理不尽じゃないか。そう考えていた春香を見て先輩は言った。

「天堂はあの家族が来館した時から、煩い子供だと思っていただろう」

 ハッとする。確かにそうだ。あのお客様達が来た時そう考えていた。その気持ちが表情などに出ていたのだろう。先輩はそれを見逃すことなく、あえてあの家族を担当させたらしい。

 何も言い返せないまま額に汗が噴き出す。ハンカチを取り出し額を拭く。しかしどうすれば良かったのかが判らない。黙っていると先輩は続けた。

「天堂は前の会社で色んなお客様と接してきた分、言葉遣いや謝り方などはしっかりできている。さっきも怒鳴られて、咄嗟に頭を下げたタイミングは良かった。ああいう時は思わず呆然としたり怯えたりして、謝るタイミングを逃す場合がある。それは他の二名もしっかり学んだほうがいい」

 先輩が他の新人達を見ると、二人は素直に頷いていた。

「しかし天堂が今まで相手をしてきたのは、煩い大人ばかりだろう。しかも保険に加入する、または検討するといった類の人達で子供を相手にすることはほとんどなかった。違うか? そこが天堂の足りない点だ。旅館には老若男女、いろんなお客様が来館される。そのことを頭に叩きこんで置け」

 視線を春香に移した先輩の言葉には頷かざるをえなかった。煩いお爺ちゃんやお婆ちゃん、良く判らないことをやっているような中小企業の社長等様々なお客と接してきたが、子供を相手にした事は今まで一度もない。その場合どうすればいいかなど経験したことも無く、学ぶ機会もなかった。

 項垂うなだれていると、先輩は教えてくれた。

「ではどうすればいいか。それは客室係が見せた対処方法も良い一例だろう」

 先程の場面を思い出す。あの先輩はどうしていただろうかと考えた時、一つだけ思い当たったことがある。先輩はさらに告げた。

「ああいう場合、子供に注意するなとは言わない。例え相手がお客様でも旅館の従業員として言うべきことは言わなければならない時もあるからだ。しかしその場合、気をつけなければいけない。一つは目線だ。天堂はあの時笑ってはいたが、子供に対してフロントカウンターの中から、子供を見下ろすように注意しただろう。今時の子供は親にさえ注意されたことがない場合もあり、他人から怒られ慣れていない子も少なくない。そういう子供が知らない大人から見下ろされ、注意を受けたらどう思うだろうか」

 その時客室係がしゃがんで子供に話かけていた意味を理解したのだ。

「目線というのは子供だけじゃない。相手が大人でも、自分より背の低い女性の方やお年寄りの場合でもそうだ。上から物を言う事は人に圧迫感を与える。その事を理解しないと、お客様に少しでもくつろいでいただき満足してもらうことはできない。判ったか」

 最後は新人全員に向かって言ったため、皆が大きな声で返事をした。

「はい! わかりました。ありがとうございます!」

 春香は恥じた。今まで少しばかり接客に自信があると勘違いしていた自分だが、まだまだ足らないことが多いという事を身に染みて理解した。たった二年の経験で、何もかも判ったような気になっていた自分が情けない。

 お客様には本当に様々な方がいる。その一人一人が求めるものや満足の仕方もそれぞれ異なるが故に、接客方法も多種多様である事をあらためて学んだのだ。

 それからも色々な失敗をした。外国人のお客様が来られた時、少しだけ自信があった英語で話しかけてみたら全く通じない。右往左往していると相手は良く判らない言葉を話しだしたため、間に入ってくれた先輩が日本語でゆっくり説明したところようやく通じた、という笑い話もあった。

 また予約確認をするため、宿泊予定の二日前にお客様の所へ電話をしたところ、予約時の注意事項にあった文言を見逃した。そのため大騒ぎになったのだ。

 そこには万が一の為に固定電話の番号も記載されてはいたが、予約確認の連絡は必ず予約した本人と携帯で話すようにと書かれていたのである。

 それなのに家の固定電話に出た人が予約した人の奥様だったためそのまま確認を入れると、いきなり関西弁で怒鳴られたのだ。

「そんな予約、入れた覚えなんかないわ!」

 ご主人が奥さんに内緒で、別の人と宿泊する予定だったらしい。要は愛人と浮気旅行を計画していたのだ。それがばれ、予約はもちろんキャンセル料を取ることもできずに取り消され、ご主人には電話口で一時間以上怒鳴られた。

 幸い奥様がこれ以上文句を言うのは恥ずかしいからと止めてくれたおかげで、それ以上被害は広がらなかったが、そのお客は未来永劫この旅館に泊まることはないだろう。

 気に入っていただければ、その後何度も利用してもらえたかもしれないお客様を一人失ったのだ。

 浮気相手の愛人を連れたお客を常連として持つのもどうなのかという道徳的な問題もあるが、お客様には変わりない。利用される方々のプライバシーに関しては、慎重に対応しなければならないと身をもって体験した。

 さらに客室係の研修時には案内する部屋の階を間違え、同じ所をバタバタと走りまわったこともある。

 また宿泊予約時に飲んでいる高血圧の薬の関係で、副作用が起こる可能性があるからグレープフルーツを食事に入れないでくれとの要望を料理飲食部門に伝え忘れた。そのため何も知らない食事係がグレープフルーツの入ったデザートを出してお客が激怒し、何度も頭を下げて謝罪し続けるというミスもやらかした。

 ただ一回、障害者の方が宿泊された際の対応でお客様に大変褒められたことがある。普通ならお客様が障害者だとあれもこれも不自由だろうと思い、接客側として何でも手助けしてしまいがちだ。

 しかし地元で知的障害を持つ人達と和太鼓を叩く機会があったおかげで、必要以上に干渉することは逆に相手が失礼に感じることもあると知っていた。

 障害者達の中には、自分のできることは自分でなるべくやりたいと思う人達もいる。それを健常者の視点からできないだろうと思いこみ、自分勝手な親切心で手を差し伸べると、かえって相手の気分を害してしまうのだ。

 そうした以前の経験から、視覚障害のある女性がお客様として見えられた時、基本的に普通のお客様と同じように接し、少し離れた所でお客様を見守りながら必要な時だけ手を貸すように心がけたのである。

 そのお客様がチェックアウトした後見送りに出た際、お褒めの言葉を頂いたのだ。

「あなたの接客は自然な気配りを感じられて、すごく気持ちが良かった。こういう接客をしてくれる従業員さんがいる旅館なら、自信を持って同じ障害者のお友達にも紹介出来るし、私もまた安心して来られるわ」

 その言葉を聞いた先輩が新人だけでなく、他の従業員の方々にも春香の接客例を上げて褒め、皆も学ぶようにと言ってくれた。自分のした事が認められたことで、仕事に対する喜びをさらに深めることができたのだった。

 二か月で宿泊部門研修と料理飲食部門の研修を終えると、残り一ヶ月は営業部門と管理部門の研修を受けた。最初の三週間は営業部門で旅行会社などへの売り込みや旅行会社のツアーに織り込む企画、旅館の広報に関してどのような事をやっているかを見せられた。

 最後の一週間は管理部門で人事や総務、経理を簡単に教わり、施設管理の手順を学んだ。例えば備品や緊急時の為に用意された物の確認や停電になった場合に備えて自家発電設備があるのでその点検方法を教えられた。

 また備蓄してある非常食の賞味期限などを確認したりする、地味ではあるが大切な作業ばかりだった。このわずかな期間で学んだことが、後々大きな意味が持つことになる。

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