第7話 再出発-1

 だがそう簡単にはいかないものである。全ての書類のやり取りを終えて十二月末で正式に会社を退職した春香は、新たな年明けを実家で過ごした。

 その為家の近くにある神社へ気分転換も兼ね、一人で初詣に出かけた時のことである。そこで中学高校時代の友人に偶然会ってしまったのだ。

「春香! 帰ってきてたの!」

「う、うん」

「確か春香って保険会社に入ったんだったよね? どう? 忙しい?」

「うん。でも先月末で辞めたんや」

 自分でも驚くほど、すんなりとその言葉が出た。

「え? 辞めたの? どうして?」

「ちょっと体を壊してね。今は療養中。保険会社の営業なんて激務、私には無理だったのよ。しばらくゆっくりしてから再就職先を探すつもり」

 そう言って詳しい話をすることもなく友人と別れたが、その帰り道に心の中がざわめいた。また不安が頭をよぎったのだろう。久し振りに激しい動悸が襲い、それから二日ほど外出できなかったのである。

 それでも和太鼓の練習だけは参加し続けていた。しかも一月半ばの連休に、ここ数年恒例となっているスーパーの催し会場での演奏があり、そこに初めて参加することが決まったからだ。

 役割は基本的に障害者達の演奏を手伝う事だったが、演目三曲のうち一曲だけ一緒に叩いてみないかと田坂から言われている。

 これまでも皆と他人の前で演奏する機会はあったが、人前にでる勇気が持てなかった為その度に断ってきた。休職中の身でありながら、人が大勢いる場所に顔を出すことが怖かったからだ。

 しかし今は正式に会社を辞めている。後ろめたいことは何も無い。そこで新年を迎えたことを機に、今までとは違う一歩を踏み出そうと思い切って今回は参加しようと決めたのだ。

 会場には多くの人だかりが出来ていた。井上達障害者が舞台の前列に並び、その後ろで中型の和太鼓を担当した春香は、緊張しながらも慎重に掛け声に合わせ、太鼓のバチを振った。

 ゆっくりとしたリズムをしっかりと刻む。母との旅行で見た和太鼓の演奏のように、激しく心揺さぶるレベルではない。しかし丁寧に、そして懸命に叩く井上達の姿は心温まるものがあった。

 このことがあってから、春香は新たに動き始めた。田坂に会社を辞めたこと等を話したところ、最初は無理しないでバイト程度でもいいからと、彼の家の近所にある馴染みの食堂で裏方の仕事を紹介されたのである。

 仕事をしなくてもしばらくはこれまでの貯蓄もあるし、失業手当も働けると申請すればそれなりに出る。しかも実家暮らしのため、今のところ経済的には困っていない。

 しかしなるべくなら早めに社会復帰できた方が良いことは判っている。いつまでも働かずにいるのも心苦しいと思っていた。その為リハビリのつもりで彼の勧めに応じることにしたのだ。

 週二、三回程度から初めて無理をせず働く事に慣れていけばいい、と医者からもアドバイスを貰ったことも後押しになった。

 一月は体の調子を崩しながらも、なんとか和太鼓の練習は続けることができた。一月半ばのイベント後から始めた週三回のバイトも休まず続けられ、体も休職中だった頃よりずいぶんと動かすことが多くなった。

 おかげで寝込んでいた頃に失った筋力は、十分に取り戻したと思う。さらに太鼓を叩き、バチを振る腕や踏ん張ることで足腰も鍛えられ食堂での力仕事もあるせいか、会社にいた頃より腕も足も太くなった程だ。

 食堂の仕事も最初は裏方だったが、慣れてきたことでお客さん相手の接客などもさせてもらえるようになった。営業をやっていたこともあり、人を相手にすることは元々苦手ではない。ただ今までは人と会う事を控えていただけである。

 心の垣根が徐々に取り除くことができるようになると 二月になる頃には体調も回復し始め、医者から出される薬の数や量も減ってきた。

 たまに疲れが溜まった時などは多少の症状も出たが、以前のように苦しむことはなくなり、二月の終わりにはすっかり回復したと思えるほど体の変調がなくなっていたのだ。

 しかしそんなある日、春香は問題を起こしてしまった。井上に対してやってはならないことをしたのである。それはこれまでの彼による行動で、いつも気になっていたことが発端だった。

 例えば彼は和太鼓の曲のリズムやパート部分の叩き方等は完全に覚えているのに、バチの置く場所や太鼓の保管場所がいつもと少し違うだけで、どこにあるのか探し出せなかったりするのだ。

 皆が使っている和太鼓はいつも練習している公民館の倉庫で保管され、市が所有しているものである。

 毎回申請を出して使用許可を得ているのだが、田坂達以外にも和太鼓を叩くグループがあり、春香達とは別の時間帯や日程で使用していた。その為に基本的な保管場所はそれぞれ決まっている。

 しかし前に使用した人達の片づけ方が雑だったり、自治体の都合で急に和太鼓以外の物が保管庫に入れられたりしていつもとは異なる所に置かれることがたまにあった。

 とはいっても特別に広い保管場所ではないので、少し周りを見渡せばすぐ見つかる程度の事である。

 しかし知的障害を持つ彼らにとって、ほんの少しの違いでは済まない。いつもの場所にないとプチパニックに陥り、いつまで経っても探せなかったりするのだ。

 そういう知識を頭では理解していたが、余りに度々起きるその光景を見て、

「そこにあるじゃないですか。こんなこともできないんですか?」

と暴言を吐き、井上の近くにあったバチを取り上げ、目の前に差し出したのだ。これは明かに知的障害者を差別する発言と行動である。

 今までは自分も心の病にかかったものだという引け目もあってか、障害者達を下に見る事も無く、逆に教わる事が多いと感じていたぐらいだった。

 それなのに自分の体調が良くなりだしたことで元々健常者であるとの自覚が芽生え、精神的にもたくましくなったと勘違いしだした春香は、今まで教えてもらっていた井上に対しそのような態度を取った後、さらに彼の事を鼻で笑ったのだ。

 言い訳になるが、後で思い返すと調子が良くなっていたその頃はテンションが高く、鬱の逆である躁の状態になっていたのかもしれない。

 そんな春香の振る舞いを見ていた田坂は激怒して一喝した。

「君のような人はこのチームにいて欲しくない。もう来ないでくれ。クビだ!」

 今まで優しかった彼も、実はそれまでにも少しずつ調子に乗っていたらしい春香に対して思うところがあったようだ。そこに来て井上に対する言動にはさすがに我慢できなくなったのだろう。

 厳しく叱られてようやく自分のした過ちの重大さに気が付いたが、すでに遅い。その日はショックで涙が止まらず、帰りはずっと泣き続けていた。

 帰宅して状況を説明したが、それまで優しかった母さえ冷たく言い放った。

「悪い事をしたと思っているなら、しばらく頭を冷やして反省しなさい」

 会社を辞めた後パートの仕事を始めてしばらく経ってからは、母との関係も以前とは変わりつつあり、時には喧嘩をするようにもなっていた。他人からみればもう病気などなかったように見えたため、余計な気づかいも必要ないと思ったのだろう。

 その上躁状態であったからか余計に元気で、しかも口答えするなど生意気な口を利いたりもした。その為これまでのように甘やかしたり優しく接したりする必要などない、と母を含めた家族全員が感じていたのかもしれない。

 心の病はただでさえ外から見えないし、体調にも大きく波がある。本人にもどういう状態の時に悪くなったり、良くなったりするのかが判らないことが多かった。

 だからこそ病への理解や知識を持ち合わせている人でない限り、周辺で接する人達にとっては厄介な存在だったはずだ。最初は距離を取っていた父や妹とは違い、理解ある態度を取ってきた母でさえ気を使うことに疲れてしまったのだろう。

 よって日頃の生活でも時折辛く当たられることも徐々に増えていた。おそらく他人からの偏見の目も続いていたからか、母もストレスが溜まっていたに違いない。

 その日の夜、久しぶりになかなか寝付くことができなかった。その翌日には田坂の紹介で入ったバイト先に連絡して辞めることを告げた。

「それがいい。それだけ怒らせたのなら、田坂さんから紹介された仕事を続ける資格はありません。働きたいなら別の所を見つけなさい。体の調子も良くなったようだから、今後の事は自分でどうするか考えなさい」

と母からもきつく叱られた。その日の夜に田坂が家を訪れた。

「昨日は厳しく言って悪かった」

と頭を下げる彼に、春香は泣いて謝った。

「こちらこそ申し訳ないことをしました。特に井上さんにはお詫びの言葉もありません」

 紹介されたバイトも辞めたことを告げ詫びると、それは母から事前に連絡があって聞いていたという。

 実は当日の夜に彼から電話をもらった母が、今後バイトも責任を取って辞めさせると既に告げていたという。

「一度口にしてしまったことは取り戻せません。田坂さんには大変お世話になりました」

 今後自分でやりたいことを探すと彼に告げ、今までお世話になったことのお礼を言った。そして今まで彼らにどれだけ甘えていたかを反省したのだ。

 だが彼は優しい言葉をかけてくれた。

「私は天堂さんを恨んでも憎んでもいない。ただ今の状況でチームに戻すことは、あなたにとっても仲間にとっても良くないことだと思う。でもいずれは戻ってきて欲しいとも思っている。しばらくは自分自身で何かを見つけ、いつかまた笑って私達の所に顔を出してくれる日が来ることを待っているから」

 春香は号泣した。それからしばらくショックから立ち直れなかった。それでも散歩がてら外を歩いたりして体を動かし、何をやろうかと日々考えるようになった。やがて近所の公園でウォーキングをしていた時、原点に戻ろうと思ったのだ。

 自分はやはり和太鼓が叩きたかった。しかしそれだけでは自立し、生活していけない。それにこの田舎町で居続けることは家族にも迷惑がかかる。また一時の大きな山を越えた今の自分にとって、これから完全に病を克服する為にはいい環境だと思えなかった。

 といってもこんな今の自分に何ができるのか。食堂で手伝いをし、接客することで人と会話することに関しては徐々に慣れ、苦にならなくはなっていた。

 そこで今までの経験も生かすことができ、バイトではなく正社員として働くことができるだろうかと考えた時、あの旅館のことを思い出したのである。

 母親と一緒に行ったあの旅館で働くことができれば人と接することもでき、さらには宿泊客を相手に和太鼓を叩いて演奏し、楽しませることもできるではないか。

「お母さん! あの旅館のパンフレット、まだ持っている?」

「あの旅館って?」

「前に泊まったあの温泉旅館よ」

 母が探し出してきたパンフレットに書かれている富川園という名前を確認してネットで検索し、その企業のホームページを探しだす。あった。

 会社概要を見ると、富川園はグループ企業の一つで他にも色んな観光事業をやっているらしい。旅館だけでなくイタリアンレストランや土産屋なども経営しているようだ。

 求人情報の欄もあったが、特に募集しているとは書かれていない。それでも問い合わせ先として新卒、中途採用の方はという連絡先が載っている。そこで早速連絡し、採用枠などはあるかと早速問い合わせをしてみた。大学四年の時の就職活動以来の行動だ。

 しかし電話に出た旅館の人には、

「今は特に募集はしていなくて、新卒の採用も既に終わっています」

と教えられた。それでも春香は食い下がった。

「新卒ではありません。中途採用をしていただけないかと」

 なかなか諦めないため、今度は人事担当者に代わりいくつか質問をされた。

「あなたの年齢は?」

「今二十五歳です。大学は東京の●●を卒業しました。卒業後は二年余り損害保険会社に勤め、そこでは営業をやっていました」

「優秀な大学をご卒業ですね。しかもそんな大きな会社にお勤めだった方が、なぜ辞められてうちのような田舎にある旅館を?」

 そう尋ねられて躊躇したが、正直に、誠意を持って答えた。

「体を壊しまして昨年末で退職しました。今は体調もずいぶん良くなり、最近まで地元の食堂の裏方や接客の仕事をしていまして、サービス業に興味を持ったのです。それに御社を希望する一番の理由は、以前そちらの旅館に宿泊した際に和太鼓の演奏を聞き、とても心が震えたからです。その感動が忘れられず、旅行から帰った後和太鼓のチームに参加しました。そちらにもし就職することができましたら従業員として働くだけでなく、是非和太鼓を叩くメンバーとしても参加したいと考えています。できればお客様の接客を希望しますが、総務のような事務での採用でも営業でもかまいません。なんでもやります」

 担当者はしばらくうなっていたが、それでもなんとか答えてくれた。

「お約束はできませんが一度検討してみますので、大学の卒業証明書、履歴書と今言った志望動機、会社を辞められた経緯など含めてHPに掲載されているエントリーシートに記載し郵送して頂けますか? 人事採用担当の近藤こんどう宛で送付してください。その内容を見た上で検討し、面接などを行うかどうかを後日ご連絡いたします。既に新年度の採用は終わっていますので、面接を行うかどうかは必ずしもお約束できませんが、そこはご了承ください」

 説明を聞いた後は急いで文房具屋に行って履歴書を購入して記入し、大学へ卒業証明書の発行も依頼した。さらに家のパソコンで志望動機や経緯をエントリーシートへ詳細に記載し、文書を作成し終わるとそれを印刷した。

 その上病院へ行って担当医に今までの病気についてと、これからのことについて相談すると、

「もうかなり体調も良く、薬も一時期に比べてかなり少なくなりましたからね。もし採用されて住所が変わるようでしたら、近くの病院に紹介状と診断書を書きましょう。ただし今後も再発する可能性はありますから、しばらく定期的に通院は続けて下さいね」

と念を押された。就職が決まれば富川園のあるY県に移り住まなくてはならない。先生はその後のことまで考えてくれたのである。

 ようやく揃った履歴書等の書類を医者の診断書と一緒に同封し、旅館へ送付した。その一週間後、電話連絡があった。春香が近所のスーパーで食材を販売するバイトを始めていた頃だ。かけてきたのは人事採用担当者の近藤だった。

「実は新卒採用の内定者が一名、入社辞退しましてね。こちらで検討した結果、早速ですが近いうちに面接をしたいと思います。早ければ早い程いいのですが」

 思わず即答した。

「明日にでも伺います!」

 あまりの勢いに電話の向こうから少し戸惑った様子が伺えたが、それでも直ぐに回答が得られた。

「あ、明日ですか。判りました。それでは明日の午後二時にしましょう。来られますか?」

「大丈夫です。必ずお伺いします。ありがとうございます!」

 電話を切ると飛び上がって喜んだ。さらに日帰りできる場所ではあるが、念の為近藤には黙って別途宿泊予約をしたのである。

 せっかく行くのだから、面接の為だけでは無く再びあの和太鼓を聞きたかった。幸いシーズン前で比較的安い料金の部屋を取ることができた。

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