がむしゃらに

しまおか

第1話 倒れる

 突然目眩がした。席から立ち上がった途端に目の前がかすみ、周りの景色がゆがむ。

「おい、天堂てんどうさん! どうした、おい!」

 呼びかけている田中たなかの声は聞こえていたが、近くにいるはずの彼の顔の輪郭がぼやけている。春香はるかはなんとか倒れまいと机に手を突いて踏ん張ったが、平衡感覚を失い床にしゃがみこんだ。それ以上倒れないように田中が春香の体を支え、顔を覗きこむ気配だけは判った。

「目が、目が」

 事務所の床に座り込んだまままぶたを盛んに上下させ、両手で顔を覆うように手の平を目に近づけたり、遠ざけたりしながらそう叫んだ。

「目がどうした?」

 彼が切羽詰まった声で尋ねてくる。これから二人で得意先へ出かける矢先だった。突然顔色が悪くなったかと思うと、フラフラとしだして床に座り込んでしまった春香の様子に戸惑っているようだ。

 席に着いていた隣の部署である第二支社長の寺脇てらわきが異常に気付き、驚いた様子で駆け寄り声をかけてくれた。

「おい、大丈夫か」

 しばらく茫然ぼうぜんとしていたが少し落ち着いてきた為、ゆっくりと顔を田中へと向けた。霧が晴れていくように、彼の顔が徐々に見え始める。

「す、すみません。急に目が見えなくなったので」

「見えなくなった? だったら病院へ行くか?」

「大丈夫です。今は少し見えるようになりました。すみません」

 そう言って立ち上がろうとしたが、まだ頭が重くてふらついてしまう。

「余り動くな。脳梗塞かなにかだとまずい。しばらく大人しくしていろ。外周りは俺が一人で行ってくるから」

 近くにいた女性事務員に春香を休ませるよう指示し、取引先へと彼は慌てて出かけて行った。約束している時間まで余裕がないからだろう。

 迷惑をかけてしまった。だがどうしようもできない状態の為、ゆっくりと立ち上がり椅子に座る。机に肘をつき頭を抱え込んだまま目をつむり、完全に落ち着くまでじっとしていることにした。

 先輩事務員の藤本ふじもとが心配げに俯いている顔を覗き込みながら声をかけてくれた。

「大丈夫? 少し横になったほうがいいかも」

 頭を抱え下を向いたまま、謝った。

「しばらくこのまま休ませてください。すみません」

 すると席を外していた大田おおた支社長が事務所に入ってきた。様子が変だと気づいた彼は、皆の視線が春香に集まっているのを見つけたらしい。近くに歩み寄って尋ねてきた。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

 顔を上げて返事をしようとしたが、体が言うことを聞いてくれない。そこで藤本が代わりに今までの様子を説明してくれた。彼女の話を聞きながら、春香の様子をじっとみていた彼が小さく呟く。その言葉が耳に入った。

「こいつもか」

 彼女も当然聞こえたのだろう、はっと息を飲んでいた。春香が席に座り藤本が駆け付けたため、一度自分の席へ戻っていた寺脇がそこで立ち上がる。

 やり手だが傲慢な第一支社長の太田とは違い、彼は温和で周りからの人望が厚い。女性に優しいため誤解を生むような噂を立てられる程で、正義感が強い人だ。

 しかし太田が次にかけた言葉は、全く違うものだった。

「体調が悪いなら無理をするな。今日はこのまま早退して病院へ行ってこい。しっかり診てもらって、明日も駄目そうなら一日ゆっくり休め」

 そう告げたあと藤本に春香を任せて自分の席に戻り、どこかへ電話をかけていた。仁王立ちしていた寺脇はしばらく彼を睨んでいたが、視線を移して再びこちらを心配そうに見つめていた。

 藤本は再び優しい声で春香を労わってくれたが、そんなことなどどうでもよかった。辞めてやる。こんな会社、絶対辞めてやる。

 まだふらつく体を無理やり立たせ、辛うじて電話中の大田の方を向き、

「すみません、お先に失礼します」

と頭を下げた。そのままロッカーにある自分の荷物を取りに行き、その足でふらりと事務所の外に向かう。

 慌てて追いかけてきた藤本は、

「病院までのタクシーを呼ぼうか?」

と気遣ってくれたが、その言葉を振り払うように階段を降りて外に出た。

 会社は大通りに面して建っている。日差しが強くなった五月の晴れた空を見上げながら上着を脱いで手に持ち、シャツのボタンを一つ開けた。

 タイミング良く通りを走っていた空車のタクシーを見つけたので車を止める。素早く乗り込み、近くの総合病院に向かうよう運転手に告げた。

 運転手が具合の悪そうな客が乗ってきたと不安そうな顔をしている。それを無視して後部座席で一息つき、窓から外の景色を見ることで視力の回復度合いを確認してみた。

 まだ視界が狭くて見えにくい部分もあるが、先ほどよりも焦点が合ってきた気がする。そこで大きく溜息をついた。疲れた。もう駄目だ。

 ここ最近疲れが溜まりやすく眠れない日も多かった。だから症状の原因はおそらくストレスだろうと自覚していた。 

 これまでも体調を崩す度に病院へと通い様々な検査をしてきたが、特段悪いところは見つからないと言われ続けている。それでも頭が痛く体がだるい。動悸もするし睡眠不足で食欲も落ちた。

 その為医師からは、これ以上症状が長く続くか酷くなるようであれば、心療内科を受診するよう勧められていたのである。

「もう限界かな」

 春香は大手損害保険会社に営業職員として入社し、同期の男性社員達と同じく二か月の新人研修を終えた。その後今いる小曽根こぞね第一支社に配属されたのが約二年前の六月だ。今年で社会人三年目を迎え、もう二十五歳になる。

 春香の入社した会社では、海外も含め全国各地への転勤や様々な部署への異動がある総合職の他に、関東、東海、関西等のエリア毎で限定採用している職種があった。

 エリア総合職と呼ばれるこの役職は、転勤が採用された地域内に限定されている。春香は東海地方限定のエリア総合職として採用され入社したのだ。

 支社には他に現地採用の女性事務員が五名、スタッフが四名いる。先ほど声をかけてくれた藤本は、春香より二つ年上であるが事務職員の一人だ。ちなみにスタッフとは正社員である事務職員の補助する仕事を行う朝十時から午後三時まで働くパートで、事務員よりは年齢層の高い女性達が多い。

 春香は同じ支社にいた加納かのう課長代理のことを思い出す。支社に配属されてから半年もしない頃、入社十六年目の男性総合職の彼は、うつ病で長期療養に入った。

 その為彼の担当取引先を、急遽入社六年目の男性総合職の田中主任と入社一年目の春香の二人で分担し、フォローすることとなったのだ。

 しかし彼が休職してから一年以上経つというのに未だ代替要員は来ない。新入社員が増員されたから、事足りるだろうと本部は判断していたようだ。

 春香が着任した頃から既に体調を崩し休みがちだった彼の業務は、それまで太田や田中が補っていたらしい。

 第一支社にはもう一人、入社十七年目の男性総合職である後藤ごとう主任という、加納より年上だが役職は下の社員がいる。しかしこの人は彼のことを嫌っていたせいもあってか、太田に宣言していた。

「私は絶対加納さんの仕事は担当しません。何であんな人の仕事を代わりにしなきゃいけないんですか。病気か何か知りませんけど、これ以上忙しくなったらこっちが病気になってしまいます。冗談じゃない」 

 その為止む無く太田は、田中の取引先の一部を後藤が受け持つよう説得し、代わりに田中が加納の仕事のほとんどを肩代わりする事になった。

 そこで田中は新人の教育係でもあった為、春香にも仕事を手伝うよう指導し、徐々に取引先への訪問等の仕事も増えていったのだ。

 春香は東海圏にある中高一貫の私立進学校を卒業した後、東京都内の一流と呼ばれる某私立大学に現役で合格した。

 卒業時は比較的女性に対する就職活動が有利な時代ではあったが難航し、関東周辺の会社は全て落とされた。その為地元に戻り就職活動をしたところ、なんとか内定を得ることができたのである。

 しかし営業職として配属された春香は、入社前とは余りにも想像を絶するギャップに驚いた。春香の会社以外でも就職活動中何度も聞いた、我が社ではしっかりやっていますと言っていたOJT(ON THE JOB TRAININGの略で、職場内の上司や先輩が日常の業務を通じ、新人に必要な業務知識や技能、仕事への取り組みや社会人としての振る舞い等、計画的なプログラムを通じて教育すること)という言葉は、完全に名ばかりだったことを痛感したのだ。

 実際の現場の先輩達は日頃の業務に忙殺されて余裕がなく、目の前の仕事をこなすことで精一杯だった。その為新入社員にかまう時間も無く、当然まともな指導など期待できるはずもなかった。

 新人がミスしてもただ責められるだけで何が悪かったのか、どうすることが正しかったのかを教えられることもその後のフォローもない。ただ謝ってこい、仕事は体で覚えるものだ、何事も経験だ、と上は時代錯誤な指示をするだけだった。

 このOJT制度における最大の問題点は、現場任せだから上司や指導役に余裕がない場合、全く機能しないところだろう。特に小曽根第一支社では病気がちの社員を抱えて、それを補う人員がおらず補充もされていなかった。その為常に皆が仕事に忙殺されていたのである。

 大量採用してもブラック企業だと判断されれば、例え給料が良くてもどんどんと辞めていく傾向にある今の社会で、現場は常に働き手不足だ。その為人員の補充も思うようにならず、今いる人材でカバーするしかないのが現状だった。

 さらに隣の第二支社とは大きく異なり、周りの女性事務員達がいつも愚痴ばかり口にしていて職場の雰囲気は最悪だった。先程声をかけてくれた入社五年目の藤本だけが、辛うじてまともで仕事ができ信頼できる人だった。

 その為他の女性事務員に頼みづらい仕事は、男性社員から彼女にどんどんと降り注ぎ手が一杯になっていく。

 しかも一人忙しくしている彼女を誰も助けようとはしない。余計な仕事を抱えたくないだけでなく、仕事ができる彼女への女性同士の嫉妬も絡んでいるらしい。そうして人間関係はますます悪化の一途を辿っていたのだ。

 体を壊していたのは加納だけではない。事務職の中にも体調を崩し休みがちの子がいた。だから大田は春香に対し、“こいつもか”と言ったのだろう。それが彼の本音なのだ。

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